佐々木 道誉 | 日本の偉人伝

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足利幕府の立役者

鎌倉時代末期から南北朝時代の武将、守護大名。若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津守護。
一般的に佐々木佐渡判官入道(佐々木判官)や京極道誉の名で知られる。実名は佐々木高氏。
源頼朝に、伊豆幽閉時代から付き従った佐々木兄弟の子孫。

佐々木家は鎌倉期に二家に分派し、道誉はそのうちの「京極家」で、本家筋は「六角家」。

ばさらと呼ばれる南北朝時代の美意識を持つ婆沙羅大名として知られ、『太平記』には謀を廻らし権威を嘲笑し粋に振舞う導誉の逸話を多く記している。

婆娑羅
とは

ばさらとは、日本の中世、主に南北朝時代の社会風潮や文化的流行をあらわす言葉であり、実際に当時の流行語として用いられた。
身分秩序を無視して実力主義的であり、公家や天皇といった名ばかりの時の権威を軽んじて嘲笑・反撥し、奢侈な振る舞いや粋で華美な服装を好む美意識であり、後の戦国時代における下剋上の風潮の萌芽となった。




鎌倉幕府滅亡

佐々木 道誉は1314年に左衛門尉に任官。更に1322年に検非違使に補任され、1324年には従五位下・佐渡守に叙任されている。

当時、元寇により、鎌倉幕府の権威が低下していた。
時の執権である北条高時は病気を理由に出家して執権を降りてしまいます。佐々木 道誉は、それにただ一人付き合って出家します( 道誉を名乗り始める)。

1331年、元弘の変が起こり、後醍醐天皇が鎌倉討伐を図り、笠置寺に遷幸されて挙兵します。
これに対し鎌倉方は、兵を差し向ける一方で後伏見天皇の皇子・光厳天皇を即位させます。
楠木正成等の奮戦も空しく、後醍醐天皇は鎌倉方に捕らわれ、鎌倉から隠岐に流されます。

その後、後醍醐帝は隠岐を脱出して再挙兵。
各地で尊皇派武士が呼応して鎌倉討伐戦を企て、これに対し鎌倉は六波羅探題の兵を差し向けるが、朝廷軍に惨敗。

そこで鎌倉の主力を率いて、足利高氏を六波羅へ援軍として差し向けます。しかし、足利高氏は鎌倉方を裏切り、道誉等と共に反旗を翻して六波羅探題を急襲します。
同じ頃、関東では新田義貞が朝廷側に立って兵を挙げ、鎌倉へ攻め上り、遂に鎌倉北条政権を滅ぼしてしまいます。

室町幕府樹立

鎌倉幕府を滅ぼした後、入京した醍醐帝は、光厳帝を廃して皇位に復権し、元号を建武と改めて1334年「建武の新政」を断行します。
ところが、後醍醐帝の建武の親政は恩賞や土地問題で早くも躓きます。
足利尊氏は政権に参加せず、鎌倉を裏切って足利と共に六波羅を滅ぼした佐々木道誉には、その功績に対し何一つ、何らの報酬も恩賞もありませんでした。

こうして武士の不満が出始めた頃に、関東で北条氏の残党による「中先代の乱」が勃発し、足利尊氏の弟直義の守る鎌倉を占領します。。
足利尊氏は直義を救う為、後醍醐帝の許可も得ずに鎌倉へ攻め入ります。佐々木道誉も足利軍と共に出陣し、鎌倉を奪還します。そして、足利尊氏は、従った武将に勝手に恩賞を与えます。導誉も上総や相模の領地を与えられている。

それに、激怒した後醍醐天皇は新田義貞を鎌倉に向けて派兵します。
ここで道誉は朝廷軍へ寝返り、義貞に降ったが、箱根竹下合戦で足利側に再度寝返ります。それが原因で新田勢は大敗北を喫して退却します。

勢いに乗って京へ攻め上った足利軍が、今度は奥州より駆け上った鎮守府将軍北畠顕家に蹴散らされ九州へ逃れると、道誉はまたも朝廷へ寝返り、ここでかねてより京極家の念願であった近江守護識を、朝廷より拝領されます。
しかし、再度体勢を立て直した足利軍が、湊川の合戦で朝廷軍を破り上洛を果たすと、佐々木道誉はまたしても足利に寝返ります。

そして、1336年に足利尊氏は後醍醐帝を廃して、光厳上皇の弟宮豊仁親王(光明天皇)を即位させ、足利尊氏はこの北朝の光明天皇より、正式に征夷大将軍に任ぜられます(室町幕府樹立)。





その後

これに対し後醍醐帝は三種の神器を持って吉野へ逃れられ、北朝を否定して建武の親政を支持する武将等を集め、北朝と対峙します。こうして、世に言う南北朝の動乱が始まりました。
やがて南北朝動乱が激しくなると、佐々木道誉は北朝足利将軍家で重責を担う様になって行きます。

導誉は若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津の守護を歴任します。また道誉は、政治にも戦にも長けていて、楠木正行との四条縄手戦でも戦況を決定づける等功随一の名声をあげています。また観応の擾乱でも、足利尊氏を上手くサポートしています。

こうした南北朝動乱期に於いて、やがて徐々に北朝が優位を占める様になると、足利将軍家やその一党は横暴にのさばり始め、1340年、道誉の長男秀綱と共に妙法院宮の庭の紅葉を手折って、宮の家人に痛めつけられた仕返しに、放火するという事件が起こります。
延暦寺門徒に弾劾され、足利尊氏も流石に庇い切れなくなり、佐々木道誉・秀綱親子は結局上総(千葉県)に一時配流となります。

しかし、その翌年には幕政に復帰。幕府においては導誉は引付頭人、評定衆や政所執事などの役職を務め、公家との交渉などを行っている。

その後、観応の擾乱と呼ばれる内部抗争で足利尊氏と弟足利直義が争った際も、尊氏に味方し、手柄を立てている。その結果、弟直義は逃亡。京からは逃亡したが、直義は関東・北陸・山陰を抑えていた。導誉は、以後も尊氏に従軍、尊氏に南朝と和睦して後村上天皇から直義追討の綸旨を受けるよう進言する。尊氏がこれを受けた結果正平一統(南朝、北朝の統一)が成立し直義は失脚、急逝する。

正平一統は、1358年に北朝の光厳上皇・光明上皇・崇光天皇らが南朝に奪われて破綻。すると導誉は、八幡の戦いで義詮(尊氏の嫡男)に従い南朝から京都を奪還。後光厳天皇を擁立して、北朝再建と将軍権力の強化に尽力する。しかし、翌年、南朝に京都を再度奪還されている。


武家政権導誉法師

1358年に足利尊氏が死去し、2代将軍義詮時代の政権においては政所執事などを務め、幕府内における守護大名の抗争を調停する。
この頃導誉は義詮の絶大な支持のもと執事(後の管領)の任免権を握り事実上の幕府の最高実力者として君臨する。

その後、足利氏の有力大名である斯波高経に最高権力者の座を奪われる。
しかし、導誉の策謀により高経は失脚し、再び権力の座に着く。

1368年に隠居。1373年、死去。享年78歳。

人物

連歌などの文芸や立花、茶道、香道、笛、さらに近江猿楽の保護者となるなど文化的活動を好み、幕政においても公家との交渉を務めていることなどから文化的素養を持った人物であると考えられている。

所領においては運送の拠点となるような地域を望むことが多く、前述の高橋屋が所在したのは京都の商業地域であり、流通や商業にも深い関心があったことが伺える。また、悪党、山の民、野伏の集団とも主導的な関わりを持っていた。導誉は所領からの収入をもとに生計をたてるというような一般的な武士からは遠く離れた経済生活を送っていた。