後醍醐天皇の政治① ~笠置山~ | 令六社

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令和六年、「明六社」に倣ってブログを開設。
山口県の大学生が日本史について日々綴ります。
日本史の共通テスト攻略に向けての投稿が主となります。

こんにちは。

 

ご無沙汰しております。1か月以上ブログを更新していませんでした。

 

元気にやっておりますので、ご安心ください。

 

前回、「笠置山」について少し触れた状態でブログを終わりました。

 

今回の視点は、「後醍醐天皇の政治」です。

 

「笠置山」は、後醍醐天皇にもゆかりのある土地だったというわけです。

 

それでは、さっそく写真などを見ながら後醍醐天皇についてみていきましょう。

 

 

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後醍醐天皇は、ネット辞書にはこのように載っています。

 

院政を廃して天皇親政を行い、正中の変、元弘の乱を経て鎌倉幕府を滅ぼし建武新政を行った。

【出典:後醍醐天皇(ごだいごてんのう)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

 

この一文を細かく説明していきます。

 

 

院政を廃して天皇親政を行った

もともと鎌倉時代中期の朝廷は、「持明院統」と「大覚寺統」に分裂していました。

(※後嵯峨天皇はどちらの系統に皇位継承するかを決めず、幕府に一任していた)

 

そして、その両統が交代で皇位に就く「両統迭立」という方式がとられていたのです。

 

 

後醍醐天皇は1318年に即位します。そして、院政を廃止し、天皇親政を開始し、天皇権限を強化しようとします。

 

 

正中の変、元弘の変

 

天皇権限の強化の背景には、時の執権北条高時と、その内管領長崎高資の専制への反発があったのです。            (※北条高時…9代目執権、最後の得宗、政治を内管領任せにしていた)

 

そこで、おこした討幕計画が「正中の変」と「元弘の変」なのです。


正中の変(1324)…後醍醐天皇の討幕計画(失敗)

元弘の変(1331}…後醍醐天皇の再度の討幕計画(失敗) → 笠置山に逃れる

 

笠置山に逃れるものの、後醍醐天皇は捕らえられ、隠岐に配流されるに至ったというわけです。

 

 

 

鎌倉幕府を滅ぼし、建武新政を行った

 

後醍醐天皇は、隠岐から脱出します。その時に後醍醐天皇に味方したのが名和長年です。

 

名和長年とは・・・

伯耆国の名和庄[大山町名和]の地頭で、日本海海運にも関わる有力な武将だった。後醍醐天皇が隠岐から脱出[1333]して、伯耆国に到着すると、天皇に味方して船上山に城を構え、幕府軍と戦った。

 

後醍醐天皇が隠岐にいる間も、護良親王(後醍醐天皇の皇子)や楠木正成は悪党などを集めて放棄していました。

 

後醍醐天皇が隠岐から脱出すると、反幕勢力が挙兵します。足利高氏が幕府側から離反し、六波羅探題の攻略に成功します。

 

また、新田義貞らの軍は稲村ヶ崎から鎌倉に突入し、北条高時が敗北しました。それは、鎌倉幕府の滅亡を意味しているのです。

 

稲村ヶ崎といえば、サザンゆかりの地でもあります。≪君こそスターだ≫の歌いだしにも

 ♪稲村ヶ崎は今日も雨 海啼く南風  とあります。

 

 

どうでしょうか、

院政を廃して天皇親政を行い、正中の変、元弘の乱を経て鎌倉幕府を滅ぼし建武新政を行った。

 

というこの一文でも、詳しく見てみるとこのようなストーリーが隠されています。

 

流れを知ることは日本史の学習にとっても重要なことです。つい流してしまうことも多いですが、かみ砕いて考えられると面白いですよ。

 

 

後醍醐天皇の政治に入ると長くなりすぎてしまうので、今回はここまでにしておきます。

 

マイペースな投稿になりますが、気長に見ていただけたら嬉しいです。

 

それでは、次回お会いしましょう。