南京事変の証言 都新聞 小池秋羊記者 | 誇りが育つ日本の歴史

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南京事変の証言 都新聞 小池秋羊記者

 

 

南京事変の証言

都新聞 小池秋羊記者

聞き手 阿羅健一氏

 

ー南京城に入るのは何日ですか?

 

小池「13日か14日かはっきりしませんが、多分、13日だったと思います。師団司令部が南京に入るというので、我々も中山門から入りました。すでに第16師団の歩兵は残敵掃討ということで、中山門方面から南京市街地をしらみつぶしにして進んだ後でした。

 

我々も中山東路を行きましたが、城内はどの家も空き家で、物音一つしない死の大市街でした。犬、猫の姿一つ見受けられず、不思議な妖気が漂い、街路は激戦の跡とも見受けられない整然とした街並みで、びっくりしてしまいました。

 

私たち記者団、すなわち、報知、読売、上海日報、それと都の一行、6、7人は、南京城外到着以来、中島師団司令部から食料の給与を受けておりました。

 

その中に師団付の従軍僧という人物が一人参加しており、彼が師団との連絡係をやってくれました。

 

城内を記者団一行は徒歩で観察していましたが、その時、中正路の奥の方から家事が起こり、誰一人いない空家街は、濛々たる黒煙に包まれ、消火する人もいないままに、燃えつのって、一層すさまじさ拡大していました。

 

そこへ、2台の自動車に分乗した外国人たちがやってきて、街を縦横に疾走して、パチパチとカメラのシャッターを切ってました。

 

そして、彼らは一応の取材をすると疾風のように現場を去って行きました。

 

後になって、この一行は、南京における日本軍の蛮行、というスクープを打電した「ニューヨーク・タイムス」のティルマン・ダーディン記者たちであったらしいことがわかりました。」

 

ーその時の南京の様子はどうでした?

 

小池「その時のことだと思いますが、難民区に行くと、補助憲兵というのがいて、難民区に潜入している敗残兵を連れ出していました。

 

連れて行かれる中国人の親か兄弟かが、兵隊でない、と補助憲兵にすがっているのもいましたが、その光景はまともに見ることができませんでした。

 

それでも補助憲兵は連れて行ったようです。」

 

ー何人位の敗残兵を連れて行ったのですか?

 

小池「10人か20人かにまとめて連れて行きました。多分射殺したと思います。」

 

どこでですか?

 

小池「直接見ていませんが、郊外に連れて行って射殺したのではないでしょうか?」

 

ーその他の難民区の様子はどうでした?

 

小池「敗残兵探しの時は難民も動揺していましたが、一般には平静でした。また、食料がなく飢餓状態で、食料をくれ、と我々にすがりつく人もいました。

 

私たちの宿舎には発見された米が何俵もありましたので、難民区のリーダーを宿舎に連れて行き、米や副食品などを大八車2台分やりました。

 

難民区には6、7万人いたので、これだけでは全く足りなかったと思います。」

 

ー難民区の様子など記事にして送っていましたか?

 

小池「ええ、私なりに歩いて見た話を書いていました。私たちは無電は持っていませんでしたので、上海から来ていた軍の報道部の人に頼んで軍の無電で送りました。」

 

ーその後の南京の様子はどうでしたか

 

小池「南京城内はあちこち行きましたが、私たちは車を持っていなかったので、行動半径は限られていました。

 

入城式の時は、松井大将の入城する様子を中山門の上からロングで撮り、カメラマンの吉野はプロですから、近くから松井大将のアップを撮りました。

 

また、正月用の写真ということで、一個小隊が紫金山で万歳している写真を撮りました。これはやらせです。」

 

ーいつまで南京にいましたか

 

小池「12月24日には上海に帰りたかったので、軍に話に行き、22日に上海行きの船に乗らせてもらうことにしました。

 

船で一泊して、23日に上海についたと思います。24日にイブは上海のフランス租界で祝っていましたから」

 

ー南京では虐殺があったと言われていますが

 

小池「虐殺されたものか、戦死体かわかりませんが、中央ロータリーのそばに作りかけのビルがあり、その地下に数体の死体がありました。地下に水が溜まっていて、この水が血で赤くなっており、青白い死体をみた時はぞっとしました。

 

それと、だ江門だったと思いますが、軍のトラックでここに行った時、車になんども轢かれてせんべいの様になっていた死体が一体ありました。

 

下関から出発する時は下関にあるドック、それはグランド・スタンドのような鍋型の造船所ですが、そこに累々たる死体が投げ込まれていたのも目撃しました。」

 

ードックの死体はどのくらいですか

 

小池「5体や10体じゃなかったと思います。何十体かあったと思います。これは戦死体だと思います。」

 

ーそのほかに死体はありませんでしたか

 

小池「ありませんでした」

 

ー南京で虐殺の話を聞いたことはありませんか

 

小池「ありません」

 

ー噂話といった類のものはどうでしたか?

 

小池「中国兵が食えなくなって、自ら捕虜になったという話は聞きました。」

 

ー先ほどの話では、外人記者に会ったということですが

 

小池「彼らは一人が1台ずつ車を持ってて、城内の掃討作戦や火事の現場を撮ったり、難民区にも入って写真を撮ってました。

 

あまり頻繁に撮っているのでびっくりしたほどです。

 

私は一度、第16師団の城内掃討作戦で兵隊が略奪しているのを見ていますし、食べ物の略奪は上が黙認していたようなので、これらが記事になっては大変だと思い、このことを調べるといって、各城門で外人記者を抑えようとしたらしいのです。

 

しかし、実際、やろうとした時には記者がもう上海に帰った後でした。

 

それが、「シャンハイ・イブニング・ポスト」とか「ノースチャイナ・デイリー・ニュース」に記事になって出ました。

 

先ほど言ったように、「ニューヨーク・タイムス」などの海外の新聞にも出たわけです。」

 

ー「シャンハイ・イブニング・ポスト」や「ノースチャイナ・デイリーニュース」などを小池さん自身ご覧になったのですか

 

小池「ええ。上海に戻ってから見ました。そう言った中立国系の新聞だけでなく、中国の新聞にも出ていました。」

 

ーどう言う内容でした?

 

小池「はっきり覚えてませんが、日本軍が南京で略奪をやったとかそういうものだったと思います。

 

我々は軍の報道部に行って取材しましたが、都新聞の3人の記者では取材力が限られていましたので、前線に行くより英字新聞から情報を得ることにしていました。

 

ですからイギリスの共同租界に行って、新聞を読むのを日課にしていました。」

 

ーそういった新聞は反日宣伝の記事も多かったと思いますが、どう判断なさってましたか?

 

小池「もちろん共同租界に行けば、日本人は危険ですし、辻には、親日の中国人が日奸と行って殺されて、さらし首にされていました。

 

イギリスも反日ですから、取り締まりもしないでそのままにしています。

 

私がよく新聞を買いに行ったケリーというイギリスの本屋には反日の本がたくさん売ってました。

 

こういうところですから、中立国の英字新聞といっても、中国寄りの記事で、そのままでは使えません。

 

でも中国側の立場がわかります。私はそれらを頭に入れて記事を書いていました」

 

ー戦後、南京では何十万人かの虐殺があったと言われてますが

 

小池「私自身が南京で見た死体はさっき言った通りです。ただ、私は、南京全体を見ていた訳ではなく、行動が限られていましたので、他のことはわかりません。

 

ですから、私の見ていない場所で虐殺があったと言われれば、否定はできません。」

 

この対談の中で、”日本兵は難民区の敗残兵を摘発した”とありました。

 

南京城が陥落した後、中国兵の多くは敗走しました。

 

その時、軍服を脱いで、一般人民から服を奪い、便衣兵となって一般人民が避難している難民区(安全区)に潜り込んだり、下関から揚子江に向かって敗走したりしました。

 

南京城に入った日本兵は、その便衣兵たちを摘発するために、難民区に入りました。

 

なぜ、便衣兵を摘発したかというと、彼らは軍服を脱いだ兵隊であり、隙あれば日本兵を攻撃してくる可能性があったからです。

 

南京事変に限らず、中国戦線では、この便衣兵に日本兵は苦しめられました。

 

軍服を着ていない便衣兵は、一般人民と区別がつかないので、油断していると、日本兵がやられてしまうということが多発したからです。

 

参考図書

「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一著

 

画像 

佐藤振寿氏撮影、昭和12年12月15日、佐藤氏の手記より

 

「12月15日、南京中央部。中山路と中山北路の西側の一区画で、場内に残留した南京市民。

 

安全区の中に難民区もあって、ここを訪れた時に、両者の識別は難しかった。

 

ともかくもバラックの様な家に居留していた。背景の高級住宅と対比すると、難民と言えるだろう」