秀吉の朝鮮出兵 | 誇りが育つ日本の歴史

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自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

秀吉の朝鮮出兵

秀吉が朝鮮半島にむけて出兵しました。(朝鮮出兵)

これは、殿のご乱心とか老獪(年寄りのもうろく)などと言われています。

 

でも、実は、殿のご乱心でもなく、日本国を救うためにやむにやまれぬ決断だったのでした。

 

 

当時のアジア諸国はどのような状況だったのでしょうか?

 

日本以外の多くのアジア諸国は、スペインやポルトガルの植民地となっていました。

 

植民地化されていった経緯は、キリスト教宣教師たちが先遣隊として入っていったのちに軍隊が派兵されるといったパターンでした。

 

フィリピンも同じように侵略されました。

 

1591年秋、秀吉は、長崎で貿易商を行っていた原田孫七郎を、スペインに占領されたフィリピンの総督に、派遣しました。

 

原田孫七郎は秀吉からの書状とともに、浅野長吉と松浦鎮信からの書状も太守ダスマリナズに渡しました。

 

そののち、太守ダスマリナズは、スペインのフィリップ2世に報告書を送りました。

 

その書状の内容は、以下のとおりでした。

 

「城中、すべからく統一する也。これによって三韓、琉球、邦異域、塞を欺いて来亭す。

 

今や大明国を征せんと欲する。しかし、我がところに非ず。天の授くるところなり。

 

この国のごときはいまだ聴豊を通じず。

 

ゆえにまず、群卒をして、基地を打たしめんと欲するといえども、原田孫七郎商船の便をもって、時にこれに来往す。

 

故に近臣WPを紹介して曰く、某、早々、その国に至りて、備えに本朝発船の趣を説くべし。

 

然らばすなわち、解散献筒すべしとうんぬん。蚊帳を出でずして、勝を千里に決するは、故人の至言なり。

 

故に褐夫の言に聴いて而して暫く、将士に命ぜず。

 

来春、九州肥前に営すべく、時日を移さず、降幡を偃(ふ)せて来服すべし。

 

もし匍匐膝行(ほふくしっこう)遅延するにおいては、速やかに征伐を加うべきや、必せり。悔ゆるなかれ。不宣」

天正19年季秋15日

(「西班牙(スペイン)古文書を通じて見たる日本と比律賓(フィリピン)」奈良静馬 著 大日本雄弁会講談社) 

 

訳すると、来年の春に、九州の肥前に兵を集める。時を移さず、日本に朝貢するように。もし、それが遅れるならば、すぐにでも征伐する。後悔するなかれ。というような降伏を勧告するものでした。

 

朝貢とは、皇帝に対して周辺諸国(君主)が貢物を献上し、皇帝側は恩恵として返礼品をもたせて帰国させることで外交秩序を築くものです。(ウエキペディア)

 

秀吉は、当時の超大国であったフィリピンに対して、日本に貢物を献上して、臣下の礼をとることを要求したのです。

 

なぜ、秀吉はそのような行動をとったのでしょうか?

 

アジア諸国で、当時の最新鋭の武器であった鉄砲を自国で量産する国は、日本以外にありませんでした。

 

したがって、スペインやポルトガルがアジア諸国を侵略していくことは容易にできました。

 

しかし、日本だけはアジアで唯一、鉄砲を量産していた国です。しかもその鉄砲保有量は世界一でした。

 

また、日本は戦国時代でしたので、刀や鎧兜なども普及しており、戦いになれた武将が日本中にたくさんいました。

 

その現状を視察したスペインは、日本を侵略することに躊躇していました。

 

その一方で、秀吉は、スペインに占領されたフィリピンの現状を視察した、貿易商の原田孫七郎から、フィリピンを侵略すべしという進言を何度も受けていました。

 

秀吉は、その進言を受けて恫喝外交を行いました。

 

秀吉からの書簡を受け取ったフィリピンでは、秀吉が、ルソン島を1952年10月までに攻めてくると警戒していました。

 

フィリピンからは、フレー・ジュアン・コボスを使者として、原田孫七郎一行に同行させました。

 

コボスは、秀吉に服従することについてはっきりした意思を避けたため、秀吉は、原田喜右衛門をフィリピンのマニラに派遣して、つぎのような書面を太守に渡しました。

 

「この地球上、天が下に住む者はすべてわが家来なり。余に対して恭順の意を致す者は平和と安堵を得、何らの恐怖なくして住むことを得べし。

 

しかしながら、余に恭順を表せざる者に対しては、余は直に我が将卒を送りて、先ごろ朝鮮王に対して為せるが如く武力を行使すべし。

 

これ朝鮮王が余に恭順を表することを拒みたるが故にして、余はシナ王の王宮に近づき、朝鮮の旅屯まで略取し、

 

さらに城砦及びその地方を奪い、朝鮮全土を平静に帰せしめたり。」

(「西班牙(スペイン)古文書を通じて見たる日本と比律賓(フィリピン)」奈良静馬 著 大日本雄弁会講談社)

 

フランシスコ会派の宣教師であるゴンザレスたちは、原田一行の船に乗り、日本に向かいました。

 

そして、スペイン国王からの返答があるまで、人質として日本に滞在することを懇願しました。

 

この時の宣教師たちの活動の様子はどうだったのでしょうか?

 

「スペイン太守の使節は、人質の名義にて、上方に滞在し。さらに伏見において秀吉に謁したる際、彼ら専用の家屋を構えんことを願った。

 

秀吉は前田玄以をして、その地書を与えしめた。前田は諸教師に向かって、説教、および宣伝の事を禁ずる旨をつげ、旧南蛮時の敷地を与えた。

 

然るに彼らはその訓戒をも顧みず、礼拝堂一宇、密教所一宇、僧院一宇を建築し、これをノートルダム、ホルチュウンキュルと称し、

 

1594年(文禄3年)10月14日、初めてミサ教を誦し、爾後日曜日、及び祝祭日には、怠りなくおおっぴらに礼拝した」

(『近世日本国民 史豊臣氏時代. 庚篇』徳富蘇峰著)

 

日本滞在中に、フランシスコ会派の宣教師たちは、京都だけでなく大阪や長崎などで布教活動を続けていき、信者の数を大量に増やしていきました。

 

彼らは、人質とは名ばかりで日本国内の基盤つくりを目的としていたのです。

 

1596年に、フィリピン太守のダスマリナスが死去し、ドン・フランシスコ・テロ・デ・グズマンが新太守に就任。

 

新太守は、同年6月12日にメキシコに向けて船を出しましたが、東シナ海で遭難してしまい、日本の土佐(高知県)の浦戸に漂着しました。(サン・フェリーペ号事件)

 

当時の5奉行であった増田長盛が、遭難した船の取り調べをしました。そのとき、船の乗組員が地図を見せながら、スペイン国は、世界中を支配している超大国であると説明。

 

増田長盛が、一体どのようにして世界中を侵略していったのかと聞くと、次のように説明しました。

 

「スペイン国王は、まず宣教師を派遣して布教活動をおこない、地元住民をキリスト教に改宗させていく。

 

ある程度クリスチャンが増えてきたころを見計らって、軍隊をスペイン本国から送り込む。

 

派遣された軍隊と、クリスチャンに改宗した地元住民たちを使って内乱を起こさせて、その混乱のすきをついて、ねらった国の領土を侵略していく」と。

 

当時のキリスト教宣教師は、純粋に宗教の布教活動をおこなうというのではなく、軍事的に侵略していくための先遣隊という任務をもっていたのです。

 

増田長盛から報告を受けた秀吉は、フランシスコ会派のクリスチャン26人を逮捕して国外追放の処分をしました。

 

これに対して長崎を拠点として活動していたキリスト教のイエズス会派(ポルトガル人)は、26人の処分を取り消すように要求するのではなく、死刑にするように懇願しました。

 

なぜでしょうか?

 

1597年2月5日、長崎の西坂の丘にて、十字架に貼り付けにされた26人(日本人20人、フィリピンのフランシスコ会派の使者6人)は、処刑されました。(日本二十六聖人)

 

その処刑の話を、フィリピンで聞いたときの住民の様子は次のようでした。

 

「住民はこの報道を受け取って悲歎に沈むとともに、秀吉を無道者として大いに憤った。

 

サン・フィリップ号およびその積荷貨物は価格百万ペソと見積もられた。

 

フィリピンに帰った船員は、日本にいるポルトガル人(イエズス会派)は、スペイン人(フランシスコ会派)が日本から追い出されることを希望して、彼らになん等の援助も与えなかった、と憤慨して語った。

 

また、日本のイエズス会派の宣教師が彼らに対して冷淡であったことを訴えた。

 

また、ある者は、秀吉が、フランシスコ会司祭らを処刑する決心を固めた主な原因は、イエズス会(ポルトガル人)の宣教師がことさらにフランシスコ会(スペイン人)の宣教師のことを、悪しざまに伝えたためであると言った。」

(「西班牙(スペイン)古文書を通じて見たる日本と比律賓(フィリピン)」奈良静馬 著 大日本雄弁会講談社)

 

同じカトリック会ですが、イエズス会派とフランシスコ会派の宣教師は犬猿の仲だったのです。

 

(増田長盛の秀吉への報告も、イエズス会派の陰謀であるという説もあります。)