64天安門事件で虐殺された学生の人数は一万人以上。
天安門事件(六四天安門事件)では、どれほどの学生が虐殺されたのでしょうか?
天安門事件とは、平成元年(1989年)6月4日、北京市内にある天安門広場(Tiananmen Square)で、7週間にわたりハンガーストライキをつづけていた、無防備の学生たちに向けて、人民解放軍が出動して武力で鎮圧した事件です。
6月末、中国共産党は、北京市内で起きた「反革命暴動」を鎮圧し、市民200人と治安部隊数十人が死亡したと発表しました。
その後、死者数は数百人~1000人以上と、様々に推計されていましたが、中国共産党は、厳しい情報統制を敷いているので、事件の真相はいまだに明らかになっていませんでした。
2017年10月、ロンドンの英国立公文書館に保管されていた、以下の天安門事件に関する機密文書が公開となりました。
事件直後の6月5日、アラン・ドナルド(Alan Donald)駐中国英国大使(当時)は、極秘電文で英国政府に報告。
その報告には、中国人民解放軍が殺害した学生の人数は少なくとも1万人に上るとありました。
(Minimum estimate of civilian dead 10,000)
アラン・ドナルド大使は、「中国国務院委員を務める親しい友人から聞いた情報を伝えてきた」とし、「事実と憶測と噂を慎重に区別」した人物から入手した数字だと説明。
ちなみに中国国務院とは、内閣に相当 します。
アラン・ドナルド駐中国英国大使の極秘電文には、つぎのような報告がありました。
「事件の前日の6月2日、39軍が2,3日以内に天安門広場に進軍する指令を受けた」と打電。
「6月3日の夜、既に、天安門広場に入っていた瀋陽軍区の兵士の第1グループは、学生を一般の人から分離し、学生は1時間以内に天安門広場から退去するように案内した。
しかし、その5分後には山西省の第27軍の装甲兵員輸送車(APC)が学生と兵士に向けて無差別に発砲。兵士は散弾銃を乱射しました。
生き残った1000人の学生は、逃げ道を案内されたが、そこで待ち伏せていた兵士により機関銃による掃射を受けた。
装甲兵員輸送車(APC)は、瀋陽軍区(SMR)の兵士たちに追いついた。
学生たちは腕を組んで対抗しようとしたが、兵士たちを含めてひき殺されてしまった。
そして、装甲兵員輸送車(APC)は何度も何度も遺体をひき、『パイ』を作り、ブルドーザーが遺体を集めていった。
遺体は焼却され、ホースで排水溝に流されていった。
負傷した女子学生4人が命乞いをしたが、銃剣で刺されてしまった。
楊尚昆(よう・しょうこん)党国家主席と、友人の鄧小平最高指導者は、内戦勃発の危機が迫っている(imminent)と考えていた。
中国当局は、山西省の第27軍を最も信用しているので、天安門広場に第27軍を送り込んだと思われる」と。
事件当時、軍隊の出動を命じたのは、”改革開放”のスローガンで有名な、鄧小平最高指導者でした。
鄧小平最高指導者が進めた”改革開放”により、松下電器など多くの日本企業が中国に進出していきました。
また、欧米諸国からも積極的に外資を受け入れることにより、中国は経済発展をしてきました。
ところで、なぜ多くの学生たちは、天安門広場に集まったのでしょうか?
平成元年(1989年)4月に胡耀邦元党総書記が死亡したことがきっかけになって、民主化を求めて、天安門広場に集まってきたのです。
しかし、中国共産党は、学生たちの民主化を求める声を全く無視して、武力を行使して、暴力により鎮圧しました。
これが中国共産党の実相です。
参考図書
「64機密文書」香港01