インド独立のため、インパール作戦をともに戦ったインド国民軍 | 誇りが育つ日本の歴史

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日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

インド独立のため、インパール作戦をともに戦ったインド国民軍

 

イギリスの植民地だったマレー半島には、インドから派遣された英インド部隊が駐屯していました。

この英インド部隊は将校以外は全員インド人で構成されていましたが、昭和16年12月、日本軍がマレー半島に侵攻したとき、多くのインド兵が捕虜となりました。

 

このインド人捕虜に対して、特務機関であるF機関の人たちが説得にあたりました。

 

F機関とは、タイ王国公使館附武官の、田村浩大佐の下に設置された特務機関であり、機関長は、陸軍参謀本部から派遣された、藤原岩市少佐でした。

 

10人足らずの構成員でしたが、皆、陸軍中野学校出身でした。

F機関の人たちは、丸腰のままインド人捕虜たちと寝起きを共にし、同じアジア人同士が戦うことは愚かなことであると諭しました。

 

そして、イギリスなど白人帝国主義者をアジアから追放して、「アジア人のためのアジア」を復興するという大アジア主義を説きました。

共通の敵であるイギリスに対して、共に戦おうと説得していったのです。

 

その説得に動かされたインド人兵士達は、日本軍の指導のもと独立軍(インド国民軍)を組織して、その司令長官にチャンドラ・ボーズが就任しました。

 

戦前のインドは、200年以上もの長い間、英国の植民地支配の下にありました。

 

チャンドラボーズが、イギリス植民地支配からインド独立のため、義勇軍を組織しました。

チャンドラボーズはイギリス軍により投獄されましたが、脱走し、アフガニスタンからドイツまで逃れました。

 

ドイツでヒトラーと会見する機会があり、インド独立のため支援を要請しましたが、「インドが独立するまで、あと150年はかかるだろう」と、ヒトラーから冷たくあしらわれてしまいました。

 

ヒトラーは、徹底的な白人優越主義者であり、日本などアジア人を劣等民族(ウンターメンシュ)として見下していたので、インドが独立することなど、興味なかったのです。

 

どの国からも相手にされず、ヒトラーからも冷たくあしらわれてしまったチャンドラ・ボーズ。

 

そんな中、唯一チャンドラ・ボーズの独立の理念を理解し、協力をしようと手を差し伸べた国があったのです。

 

それが日本の東條英機でした。

 

東條英機首相は、次のような声明を出しました。

「インドもイギリスの暴虐なる圧政から脱出して、大東亜共栄圏に参加すべき絶好のときである」と。

昭和17年(1942年)2月、イギリスによる植民地支配されていた、難攻不落のシンガポール要塞に、日本軍が侵攻。

 

日本軍の2倍の兵力があったにもかかわらず、たったの10日足らずでイギリス軍は降伏。

 

昭和17年(1942年)8月、イギリス植民地支配に反対する大規模のデモがインド全土で起きました。 

 

イギリス軍は、戦闘機からデモ行進している民衆に対して機銃掃射を行い、940人が死亡、6万人を逮捕しました。

 

昭和18年5月、東京に到着したチャンドラ・ボースは、日比谷公会堂で次のような演説をしました。

「約40年前に、私がようやく小学校に通い始めた頃、アジア民族である日本が世界の巨大な白人帝国のロシアと戦い、大敗させました。

 

このニュースがインド全土に伝わると、興奮の波が全土を覆った。

インドのいたるところで、旅順攻撃や、奉天大会戦や、日本海海戦の勇壮な話によって、沸き立しました。

 

インドの子供達は、東郷元帥や、乃木大将を慕いました。

 

親たちが競って、元帥や大将の写真を手に入れようとしても、それができず、その代わりに市場から日本製の品物を買ってきて、”アジアの希望の光”のシンボルとして家に飾りました。

その間、インドの革命家たちは、どうして日本が白人の超大国を打ち破ることができたのか、学ぶために、日本を訪れた。

 

日本から、岡倉天心を始めとする先覚者がインドを訪れ、アジアを救う精神を説きました。

岡倉こそ『アジアは一つ』と断言した。

偉大な先覚者でした。

 

この度、日本はインドの仇的であるイギリスに対して、宣戦布告しました。

日本は我々インド人に対して、独立のための千歳一隅の機会を与えてくれました。

我々はそれを自覚し、心から感謝しています。

 

一度、この機会を逃せば、今後、100年以上にわたって独立の機会が訪れることはないでしょう。

勝利は我々のものであり、インドが念願の独立を果たすことを確信しています」と。

この演説は、インドへ向けてラジオ放送されました。

 

昭和18年10月、チャンドラ・ボースを代表とする、自由インド仮政府が成立し、10月24日、イギリス、米国に対して、宣戦布告をしました。

 

昭和18年11月6日、大東亜会議が東京で開催され、”大東亜共同宣言”を決議しました。

 

この大東亜会議は、有色人種によって初めて開催されたサミットでした。

日本、満州国、中国南京政府、フィリピン、ビルマ、タイ、そして自由インド仮政府代表としてチャンドラ・ボースが参加しました。

 

その”大東亜共同宣言”の内容は、以下の通りになります。

 

「世界各国が、民族毎に自分たちの土地を持ち、お互いにたすけあって、ともに国家として発展し、みんなで明るく楽しみをともにするためには、まず世界平和の確立がその根本です。

 

けれども米英は、自国の繁栄のためには、他国や他の民族を無理矢理押さえつけ、とくに東亜諸国に対しては飽くなき侵略と搾取を行い、

 

東亜諸国の人々を奴隷するという野望をむきだしにし、ついには東亜諸国の安定そのものを覆(くつがえ)そうとしています。

 

つまり、東亜諸国の戦争の原因は、そこにその本質があるのです。

 

そこで東亜の各国は、手を取り合って大東亜戦争を戦い抜き、東亜諸国を米英の押さえつけから解放し、

その自存自衞をまっとうするために、次の綱領にもとづいて、大東亜を建設して世界の平和の確立に寄与したいと考えます。

 

1 東亜諸国は、協同して東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設します。

2 東亜諸国は、相互に自主独立を尊重し、互いに助け合い、東亜諸国の親睦を確立します。

3 東亜諸国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、東亜諸国それぞれの文化を高めあいます。

4 東亜諸国は、互いに緊密に連携することで、それぞれの国家の経済の発展を遂げるとともに、東亜諸国の繁栄を推進します。

5 東亜諸国は、世界各国との交流を深め、人種差別を撤廃し、互いによく文化を交流し、すすんで資源を解放して、世界の発展に貢献していきます。」

 

以下は、大東亜会議に出席された、チャンドラ・ボーズ氏の演説になります。

 

「議長(東條首相)閣下、私が昨日及び本日、この大東亜会議の議事を傾聴している際、私の目の前には「パオラマ」のごとく世界の歴史が去来してきました。

 

私は過去100余年もの間、開催された数多くの国際会議を回想しました。そしてかつて私がインドの自由の叫びに耳を傾けてくれる者を求めて、幾日も虚しくさまよったことのある国際連盟の会議。

そして、その廊下やロビーを想起しました。

 

加えてさらにこの歴史的会議(大東亜会議)の議事を聞いていて、私はこの会議とかつて、世界史上に現れた類似の諸会議との間に、大きな差があることを思います。

 

議長閣下、本会議は、戦勝者間で行われる戦利品分割の会議ではないのです。

 

それは弱小国家の犠牲に供する、陰謀、謀略の会議でもなく、また弱小である隣国を騙そうとする会議でもないのです。

 

本会議は解放された諸国民の会議であり、正義、主権、国際関係における互恵主義、及び相互扶助等の原則に基づき、世界のこの地域に新秩序を創建しようとする会議です。

 

私はこのような原則に基づく会議が、日出ずる国(日本)にて開催されたことは、偶然ではないと考える者です。

 

そもそも世界が光明と指導とを東洋に求めたということは、これを持って初めてではないからです。

世界新秩序建設は、過去において、かつ他の地域において、何度も試みられてきましたが、全て失敗に終わりました。

 

それは新秩序創建の指導的立場に立つべきものに利己欲、強欲、及び猜疑心があったためです。

それゆえに、ここに世界が再び光明を東亜に仰がなければならないことになったのは、誠に当然の理であり、歴史的必然なのです。」

 

ボーズ氏は、

「本会議は、戦勝者間で行われる戦利品分割の会議ではないのです。それは弱小国家の犠牲に供する、陰謀、謀略の会議でもなく、また弱小である隣国を騙そうとする会議でもないのです。」

と語りました。

 

このような”大東亜共同宣言”にある理想の元に、日本は大東亜戦争を戦ったのです。

 

昭和19年3月、日本軍がインド国民軍(INA)とともに、インドビルマ国境から、インパールを目指して進軍しました。(インパール作戦)

 

「チャロ、チャロ、デリー!」(進め、進め、デリーへ)を合言葉に、「我らの国旗を、デリーのレッドフォードに掲げよ!」とチャンドラボーズは激励して、進軍していきました。

 

「チャロ、デリー!」は軍歌となって、今でも多くのインド人が歌っているそうです。

この行軍は、雨季の時期の猛烈なスコールと、マラリア、食料補給が途絶えてしまったこのなどのため、途中で退却することになりました。

 

チャンドラ・ボーズは、最後の一兵まで残って戦う、と退却を拒否しましたが、日本将校に説得されて、仕方なく撤退せざるを得ませんでした。

 

昭和19年11月、チャンドラ・ボースが再来日して、日比谷公会堂で次のように演説しました。

「アジアに住むインド人は、人的、物的資源を総動員して、、日本と生死を共にする」と。

 

日本の力無しに、アジアの解放は成し遂げられなかったのです。

しかし、昭和20年8月15日、日本降伏。

 

日本が武器をおいても、チャンドラ・ボースは、インド独立を諦めませんでした。

インパール作戦の残存兵を中心として、今度はソ連の支援を取り付け、再びインドのデリーを目指して進撃する計画を立てました。

 

ソ連に向かうため、サイゴンから台北に到着し、そこから日本の輸送機に乗って大連に向かう際、輸送機が墜落。

 

この事故で重傷を負ったチャンドラ・ボースは、しばらくして亡くなりました。

死の間際に、チャンドラ・ボースはハブビル・ラーマン大佐に言いました。

「ハビブ、私はまもなく死ぬだろう。祖国の人々にインドの自由のために戦い続けるよう伝えてくれ。」と。

 

イギリスは、インド国防軍(INA)の将校たちを、エリザベス女王に銃を向けた反逆罪として、軍事裁判を行いました。

 

インドの三大宗教であるイスラム教、ヒンズー教、シーク教別にそれぞれの信徒の将校たちを一人ずつ選び、3人を代表として被告席に座らせました。

 

昭和20年11月5日、軍事裁判が始まりました。その裁判で、証人として、F機関の藤原岩市元少将が、占領中の日本から呼ばれました。

 

藤原岩市元少将と同様に、証人としてインドのデリーに派遣されていた、沢田駐ビルマ大使が、被告人たちに対して次のように提案しました。

 

「みなさんは、INAは日本軍の手先として、インド将兵は自由意志によらず、日本軍によって強制されたと主張して、罪を軽くするのが良策だと思います。」と。

 

この提案を聞いて、インド人たちは怒り出して、次のようなことを口々に言いました。

「インド人を侮らないでほしい。INAは、日本軍と対等な立場で、共同作戦を行った独立軍である。日本軍の傀儡では決してない。

 

そのようなことを、絶対に言って欲しくない。その結果として被告全員が死刑となっても、インド国民に悔いはない」と。

 

裁判が行われたレッドフォード周辺では、不当な裁判に対する抗議行動を行っていた市民に対して、警官が発砲して、数百人の死傷者が出ました。

この抗議行動は、インド全土に広がっていきました。

「彼らは戦犯などではない、愛国者だ!」

 

インド民衆が一斉に蜂起。

 

昭和21年1月3日、イギリスは、事態の収拾ができなくなったため、被告への刑の執行停止を発表しました。

 

昭和21年(1946年)3月、シンガポールのチャンギー刑務所に送られ、厳しい尋問を受けた後、クアラルンプールに送られました。

 

その裁判中、インド国内では10万人規模のデモが起こったため、刑の執行は行われませんでした。

そこで、藤原岩市元少将は、イギリス軍から、”輝かしい功績”と評価されて、F機関とインド国民軍との関わりについて、取り調べを受けました。

 

イギリス軍は、なぜ、捕虜として捉えられたインド人兵士が、インド国民軍を結成して、日本軍と共にインパール作戦を戦うまでになったのか、とその理由を知りたがったのです。

 

ニューデリーでは、釈放祝賀会が大規模に行われ、会場には、今は亡き、チャンドラ・ボーズの巨大な肖像画が飾られました。

 

しかし、イギリスは、「被告については問責しないが、イギリス軍に対する殺人の被人道的犯罪については、裁く」と発表。

 

イギリス軍が、それまでの数百年にわたり行ってきた、インド人に対する被人道的な拷問虐殺については、一切不問としてです。

 

抗議デモが、インド全土で再び起こりました。

 

イギリスはこのような状況にもかかわらず、昭和21年2月7日ニューデリーにて盛大な対日戦勝祝賀パレードを行う計画でした。

 

しかし、ニューデリーでは全戸に弔旗が掲げられ、商店も学校も工場も全て休みとなり、数万人規模のデモ行進が行われました。

昭和22年8月15日、イギリスはインドの統治権を放棄。ついに悲願であった、インド独立を果たすことができました。

 

チャンドラボーズの志が、死んだ後も引き継がれたのです。

 

そして、200年以上にわたるイギリスの植民地支配から終止符が打たれました。

軍事(報復)裁判のインド側の弁護団長だったデサイ氏は、インド独立後に次のように語りました。

 

「日本軍がインド国民軍を編成して、武器を取って進軍させてくれた。(インパール作戦)

この進軍が、インド全土で国民運動となって、イギリスに独立を認めさせる契機となった。インド独立をもたらしたのは、日本軍であった。」と。

 

元インド国民軍デロン中佐は、手紙に次のように書きました。

「日本はチャンドラボーズとともに、インド独立のために戦ってくれました。

 

インドは、日本軍の犠牲のもとに独立することができたのです。

 

もし、あんなに犠牲者を出すことなく、また、インド国民軍と協力しないでインドに侵攻したならば、イギリス軍のインド部隊は、自分たちの方針を変えなかったでしょう。

 

25万のインド部隊が方針を変えたことにより、イギリスから独立することができたのです。」

 

元インド国民軍ヤダバ大尉

「我々インド国民軍将兵は、インドを解放するためにともに戦った戦友として、インパールの戦場に散華した日本帝国陸軍将兵に対して、最も甚大なる敬意を表します。

インド国民は大義のために命を捧げた勇敢な日本将兵に対する恩義を末代に至るまで、決して忘れません。」

 

元インド国民軍ヤダフ大尉

「インドが日本おおかげを被っていることは、言語に尽くせない大きなものがあります。

 偉大な日本国は、インドを解放するために可能な限りの軍事援助を提供しました。

何十万に上る日本軍兵士がインド国民軍の戦友として、ともに血と汗と涙を流してくれました。

インド国民軍は、日本帝国陸軍がインドの大義のために払った尊い犠牲を、永久に忘れません。

インドの独立は、日本陸軍によってもたらされました」

 

ロンドン大学教授である、エリック・ホプスバウ博士は次のように語りました。

「インドの独立は、ガンジーやネールが率いた国民会議派が展開した、非暴力の独立運動によるものではない。

 

日本軍と、チャンドラボーズが率いたインド国民軍(INA)が協力して、ビルマを経由してインドへ侵攻した、インパール作戦によって成し遂げられたものである」

 

日本軍参謀の無謀な作戦によって、多くの犠牲を出したインパール作戦。

 

しかし、この戦いは無謀な作戦でもなく、この戦いによる犠牲者は犬死でもありませんでした。

日本陸軍とインド国民軍との連合軍による、インパール作戦があったおかげで、インドが独立することができたからです。

 

参考図書

「なぜアメリカは対日戦争を仕掛けたのか」加瀬英明、ヘンリーストークス著 

「帝国陸軍見果てぬ「防共回廊」」関岡英之著 祥伝社