女系による皇位継承した天皇は、日本の歴史上存在しません。 | 誇りが育つ日本の歴史

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自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

女系による皇位継承した天皇は、日本の歴史上存在しません。

 

 

女系による、皇位継承が可能となってしまうと、どういうことになるでしょうか?

 

舒明天皇(じょめいてんのう)(34代)の崩御に伴い、継嗣となる皇子が定まらなかったので、皇極元年(642年)1月15日、 舒明天皇の皇后が、皇極天皇(35代)として即位しました。この時49歳。

 

在位中は、蘇我蝦夷を大臣として、その子である蘇我入鹿(そがのいるか)が、国政を執り行いました。

 

皇極4年6月12日(西暦645年7月10日)、舒明天皇(じょめいてんのう)の次男である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)らが、宮中で蘇我入鹿を倒しました。

(大化の改新)

 

その2日後の6月14日(西暦645年7月12日)、皇極天皇は同母弟の軽皇子(孝徳天皇)(36代)に、生前に皇位を譲りました。

(日本史上初の譲位)

 

孝徳天皇の崩御後、斉明元年1月3日(西暦655年)、その前の皇極天皇が、斉明天皇(37代)として再び皇位に就任しました。

(日本史上初の重祚)

 

重祚(ちょうそ)は、一度退位した君主が再び即位することです。政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執り行いました。

 

斉明5年(西暦660年)に百済が唐と新羅の連合軍によって滅ぼされました。

 

これを受け、朝鮮半島に遠征軍を派遣することが決定。

 

しかし、遠征軍が出発する前の斉明天皇7年7月24日(西暦661年8月24日)、斉明天皇が崩御。

 

斉明天皇の崩御の際、中大兄皇子は即位せずに称制(しょうせい)にて、政治を執り行いました。

 

称制(しょうせい)とは、君主が死亡した後、次代の君主となる者(皇太子等)や先の君主の后が、即位せずに政務を執ることです。

 

摂政と似ていますが、摂政の場合は、天皇が同時に存在しているのに対し、称制の場合は、天皇がいません。

 

日本軍は朝鮮半島南部に上陸し、天智2年7月20日(西暦663年8月28日)、唐と新羅の連合軍と戦いましたが、敗北。(白村江の戦い)

 

その5年後、天智7年1月3日(西暦668年2月20日)舒明天皇(34代)の次男である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、正式に天智天皇(てんちてんのう)(38代)として即位しました。

 

この舒明天皇(34代)と天智天皇(38代)の即位の間、舒明天皇の皇后は、皇極天皇(35代)として、また斉明天皇(37代)として、2度も即位。

 

女性天皇でありますが、次の孝徳天皇(36代)は、敏達天皇(30代)の孫であり、次の天智天皇(38代)は、舒明天皇(34代)の息子でした。

 

つまり、一時的に女性天皇が即位しても、その子や孫が天皇として即位することはなく、男系の子や孫が即位しました。

 

西暦707年7月18日、文武天皇(42代)が病に倒れ、25歳で崩御。

 

残された孫の首(おびと)皇子(後の聖武天皇)はまだ幼かったため、中継ぎとして、西暦707年8月18日 、文武天皇の母が、元明天皇(げんめいてんのう)(43代)として即位。

 

元明天皇は、天智天皇(中大兄皇子)(38代)の子供でもありました。

 

和銅3年3月10日(西暦710年4月13日)、藤原京から平城京に遷都。

 

和銅5年(西暦712年)に、天武天皇の代からの勅令であった『古事記』が献上。

 

霊亀元年9月2日(西暦715年10月3日)、皇太子である甥の首皇子(聖武天皇)がまだ若いため、母親である元明天皇(43代)から譲位を受けて、娘の元正天皇(げんしょうてんのう)(44代)が即位。

 

史上初めて母親から、娘に皇位継承がされました。

 

しかし、元正天皇(女性)は天武天皇(男性)(40代)の孫でありますので、男系の血筋をひく女性皇族間の皇位継承ということになります。

 

以上のように、女系による皇位継承をした天皇は、日本の歴史上存在しません。

 

進化生物学者の蔵琢也氏は、遺伝子的に次のように説明しました。

 

「女子のXX型は遺伝子が混じり合うため、世代ごとに祖先の遺伝子が薄まっていきますが、男子のXY型はY染色体が親から子へと完全な形で伝わる。

 

血のつながりとは、科学的に言えば遺伝子の共有率のことで、男子皇族だけに代々受け継がれてきたY染色体は性や家紋に似ていると言える。

 

しかし、体の細胞に刻印されているという意味で、はるかに強い実態を持つ。

 

皇室には、神武天皇以来、Y染色体という刻印が連綿と受け継がれてきた。

 

国民や世界の人々はそれでこそ皇室の中に2千年の歴史の重みを感じる。女系相続は、過去と現在の遺伝子的なつながりを断ち切るという意味で間違いである。」

(蔵琢也氏 産経新聞 平成17年11月30日付)

 

また、渡部昇一氏は、皇位継承について、「種」と「畑」という言葉で、次のように説明しました。

 

「戦国時代にどんなに皇室が微力になっても、暮らし向きが苦しくなっても、大名たちは早く京都に上って、天皇を担いで、自ら正当性の証にしようと考えた。

 

徳川幕府になっても直轄地と旗本知行地を合わせて、8百万石に対し、皇室はせいぜい3万石くらいのものだったらしいのです。

 

しかし、勅使がやってくると、徳川幕府はその応接に緊張しました。元禄忠臣蔵の吉良上野介は、その責任者でした。

 

幕府を緊張させたものが、「種」の力なのです。これは、いかなる権力も財力も取って代わることはできない。

 

これが皇室の本質なのです。

 

しかし、女系を容認すれば、「種」ではなく「畑」でも良いことになるわけです。

 

地質が多少変わっても「種」が同じならば同じ芽が出ますが、「畑」に違う種が飛んできて、根付いたら違う芽が出るわけです。

 

私は、荒地や植生の破壊された土地に侵入・繁殖するセイタカアワダチソウに例えているのですが、「種」が一系ではなくなったら、日本が「日本文明」の国ではなくなるのです。

 

そのことがわかっていたから、「種」の系統はひたすら守りながらも、「畑」にはこだわらなかったのです。」と。

(渡部昇一氏)

 

皇室典範の第一条には、「皇位は、皇族に属する男系の男子が、これを継承する」と規定されています。

 

皇室典範は、2500年以上にわたり受け継がれてきた不文律を、明文化したものであります。

 

この皇位継承の規定を、”男尊女卑である”とか、”男女平等社会に反する”、といった世間受けしやすいコメントで、マスメディアや有識者会議にて発言する方々により、女系でも可能にするというように、変えられようとしています。

 

そして今、国会で、女性宮家の創設が法律で可決されようとしています。

 

また、天皇家の家系図を見ると、必ずしも直系が皇位継承しているわけではありません。傍系であっても、神武天皇の子孫ということには変わりありません。

 

従いまして、直系である女性が、傍系である男性よりも皇位継承の順位は優先される、ということにはなりません。

 

もし、皇位継承が、女系でも可能となってしまいましたら、それは、2600年以上前から受け継がれてきました、神武天皇の血が途絶えてしまうことでしょう。

 

そして、日本の長い歴史も幕を閉じることとなります。

 

参考図書

「日本を弑する人々 国を危うくする偽善者を名指しで糺す」

渡部昇一、稲田朋美、八木秀次著