大日本帝国憲法は遅れた憲法? | 誇りが育つ日本の歴史

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日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

大日本帝国憲法は遅れた憲法?

 

 

大日本帝国憲法には、”人権尊重”という言葉がないので、遅れた憲法であると批判する方がいます。

 

本当に大日本帝国憲法は遅れた憲法なのでしょうか?

 

明治15年(1882年)3月、伊藤博文は、憲法調査の目的で欧州視察に旅たちました。

 

それまで、岩倉ともみと法制官僚の井上毅(こわし)による、ドイツ型の君主主権官僚制憲法に基づく、新憲法構想の流れができていました。

 

そのような中、伊藤博文は、1年以上も日本を留守にしてまで、憲法調査のために時間と費用を費やしました。

 

欧米各国の憲法はどのようなものだったのでしょうか?

 

イギリス憲法は、議会決議や法律、裁判所の判例、国際条約、慣習等のうち、国家の性格を規定するものの集合体であります。

 

単一の憲法典として成典化されていないため、不文憲法または不成典憲法とよばれます。

 

英国の憲法体系は不文法中心なので、何が慣例なのかの解釈には、権威ある学者の古典的著作に頼るので、これも憲法の一部とされています。

 

1787年、英国から独立してアメリカ合衆国が憲法を制定。

反イギリス主義を徹底して制定されました。

 

当時の米国は、各州が集まってできた共同体のようなもので、一つの国家というより、現在のEUのようなものでした。

 

したがって、アメリカ合衆国憲法も、現在のEU憲法条約のように、それぞれの国(州)の条約に近いものでした。

 

1789年にフランス革命が勃発。

 

1791年、ルイ16世は、革命に対処するために君主主権を制限する憲法を布告。

 

その内容は、イギリス型立憲君主制を参考としました。

 

1792年に王権が停止し、1793年にルイ16世はギロチンで斬首刑にされました。

 

板垣退助は、今までフランスの哲学者であるジャン・ジャック・ルソーを賞賛していましたが、フランスの実情を知ると考えを改めました。

 

1831年7月、オランダから独立したベルギーに、初代国王としてレオポルド1世が即位。

 

ベルギー憲法は、1791年のルイ16世憲法を参考にして制定されました。

 

1848年、プロシアもベルギー憲法を参考に憲法を制定。

 

伊藤博文は最後に、オーストリア・ハンガリー帝国に訪問。

ベルリン大学のルドルフ・フォン・グナイストと、ウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタインと面会しました。

 

シュタインは伊藤らに地球儀を指差して、次にように語りました。

 

「 ヨーロッパ文明その他の諸国は地中海を中心に発展してきたのである。したがって、私の講義もこの地中海の域を出ないと思う。

 

君たちの将来の発展は、反対側の日本海とシナ海を中心に期さなければならない。同様にして君たちの学問も斯くあらなければならない。」と。

 

また、次のようにも語りました。

「憲法はその国の歴史・伝統・文化に立脚したものでなければならないから、一国の憲法を制定しようというからには、まず、その国の歴史を勉強するように」と。

 

シュタインは、憲法とはその国の歴史の顕現である、という考えの持ち主でした。

 

伊藤は衝撃を受けました。

 

憲法とはその国の歴史なのだ、と。

 

江戸幕府末期に、日本は、欧米列強から不平等条約を押し付けられてしまいました。

 

なぜ、そのようになってしまったかというと、欧米列強は、「日本は野蛮な後進国である」と、みなしていたからです。

 

明治維新を成し遂げた、当時の政府首脳たちは、「早く文明国として認めてもらいたい、そして、不平等条約を解消したい」という思いでいました。

 

そのためにも、欧米列強を見習って、憲法を制定する必要があったのです。

 

しかし、伊藤博文がシュタインから聞いた言葉は、「憲法とはその国の歴史である」というのです。

 

それまで、伊藤は、欧州視察旅行中、欧米の憲法を研究して、日本に合った形ではあるにせよ、欧米の憲法を真似して作ろうという発想でした。

 

何故ならば、文明国として認めてもらわなくてはならないので、日本独自の憲法を作ってみても、欧米列強がそれを認めてくれるとは思わなかったからです。

 

伊藤は、この時から、憲法の条文の形式にとらわれることより、まず日本の歴史について深く学び直すことから始めなければならない、と考えを改めました。

 

日本帰国後、伊東 巳代治(いとう みよじ)、金子賢太郎、井上毅(こわし)の3人に起草を指示して、憲法起草作業に入りました。

 

この時、最も重要視されたことは、日本の歴史についてです。

 

井上毅(こわし)は、東京帝国大学で国史を教えていた小中村清矩教授から教えを受けて、その婿養子の池辺義象を助手として、早朝から夜遅くまで古典の研究に没頭しました。

 

井上のあまりの熱の入れようのため、体を壊してしまったので、池辺義象が心配して、温泉療養に連れ出しました。

 

しかし、そこでも井上の頭の中は、日本の歴史のことでいっぱいでした。

 

調べたいことがあると、すぐに東京に戻ってきてしまいました。

 

 

明治17年(1884年)12月4日、朝鮮半島で、事大主義とする守旧派(事大党)に対し、朝鮮の近代化を目指す開化派によるクーデターが発生。

甲申政変(こうしんせいへん)

 

日本は、清国と危うく戦争が始まるほど緊張状態となりましたが、外交により戦争を回避。

 

明治18年(1885年)、明治2年(1869年)に導入された太政官制度を廃止して、新たに内閣制度を創設しました。

 

これにより、太政大臣であった三条実美は内大臣に就任しました。

 

明治21年(1888年)4月から伊藤は、総理大臣を黒田清隆に譲り、枢密院議長に就任。

 

枢密院とは憲法を審議する機関です。

 

明治天皇は、枢密院でのすべての会議に出席されました。

一言も発言せず、不動のままじっと会議の行方を見守っていました。

 

臣下の人たちは、緊張した雰囲気の中、審議を進めていきました。

 

明治22年、大日本帝国憲法が発布。国民は歓喜しました。

 

憲法とは、国家経営の最高法規であります。

 

日本国の長い歴史の中で培われたものが反映されていくためには、現時点で生きている人間だけで決めて良いものではありません。

 

現時点で生きている人間は、長い歴史の中では極々わずかです。

 

長老と言われる人でも、2000年以上の歴史のある日本で生きてきた先人たちに比べれば、若輩者に過ぎません。

 

そのような謙虚さに立つと、今生きている人たちだけの知恵を振り絞ってみたところで、たかが知れています。

 

では、その人知を超えた知恵をどこから得たら良いでしょうか?

 

それは、歴史から学ぶということであります。

 

シュタインが語った、「憲法とはその国の歴史そのものである」という意味は、そこにあるのです。

 

明治憲法の第二章に「臣民の権利」が規定されています。

しかし、この章には「人権」という言葉が入っていません。

 

何故でしょうか?

 

憲法を解説した書「大日本帝国憲法義解」には次のように書かれています。

 

「租宗の政治は専ら臣民を愛重して名くるに大御宝(おおみたから)の称を以ってしたり」と。

 

君(天皇)は、民(国民)を宝として愛し、民は、君の徳を感謝して、生活していきました。

 

君と民とは一体であり、争う対象ではありませんでした。

 

 昔、仁徳天皇(16代)がいました。

 

 仁徳天皇が即位して4年目、高台にのぼって民の様子を見ていたところ、家々から炊事の煙が立ち上っていないことに気づきました。

 

なぜ、煙が立ち上っていないかを家臣に聞いたところ、民が貧しい生活をしており、税金を払えない状況でご飯も食べられない状態であることを伝えました。

 そこで仁徳天皇は、民が苦しいのであれば、3年間無税として、その後もさらに3年間無税にしました。

 

気候も順調で国民は豊かになり、高台に立つと炊事の煙があちこちに上がっているのが見え、民の生活は見違えるように豊かになりました。

 

それを見て仁徳天皇は喜ばれ「自分は、すでに富んだ」と言われました。

 

しかし仁徳天皇の着物や履物は破れ、宮殿も荒れ果てていましたがそのままにしていました。

 

それを耳にされた皇后は「宮殿が崩れ、雨漏りもしているのに、どうして富んだと言われるのですか」と言いました。

すると仁徳天皇は「昔の聖王は民の一人でも飢え寒がる者があるときは自分を顧みて自分を責めた。

 

今、民が貧しいということは自分も貧しいのだ。民が富んでいるということは自分も富んでいる」ということを答えました。

 

やがて民が仁徳天皇に感謝し、朽ち果てている宮殿作りに励んだり、税を受け取ってもらいに行きました。

 

宮殿はすぐに完成し、それ以来仁徳天皇を「聖帝(ひじりのみかど)」と称えるようになりました。

(「民のかまど」)

 

毎年、大晦日には、天皇は皇居の中にあります、賢所にて、「1年間の国民の罪や穢れをすべて、私の体を通してお許しください。」とひたすらお祈りしていただきます。

(大祓の儀)

 

そして、その願いが天に届くと、翌日の元旦に東の空から太陽が昇ってきます。

 

東京裁判のキーナン検事は、東京裁判終了後、昭和天皇と会見した時の述懐を、次のように語りました。

 

「天皇は全く嘘のない正直なお方だと思った。日本人は、天皇を真摯であり、学者であるとだけ思っているが、私はよく知っている。

 

天皇は、非常に強い性格の持ち主だ。こういう天皇をあの裁判中に法廷に引きずり出したら、陛下は、必ず被告席を指して、ここにいる者たちは全部自分の命令によって戦争を遂行したのである。

 

責任は、全部自分にあるのだから、直ちに全員を釈放して、自分を処刑してくれ、と言ったに違いない。

 

こんな立派なことを言われたら、俺としても、全く打つ手がなくなってしまい、わがアメリカの円満なる占領政策などどこかに吹っ飛んでしまっただろう。

 

我は、天皇に直接会って、あの時陛下を証人台に立たせなくてよかった。とつくづく思ったよ。」と。

(「鬼検事キーナン行状記」文芸春秋 昭和34年10月号)

 

昭和20年8月9日夜11時から、御前会議が開かれました。

鈴木内閣の書記官長だった迫水氏は、この時の様子を次のように語っています。

 

「列席者は、総理、外務、陸軍、海軍の4大臣、陸軍参謀総長、海軍参謀総長、平沼枢密院議長、の7名が正規の構成員であり、

 

陪席員は、私、陸海軍の軍務局長、内閣総合計書局長官の4名、合計11名であります。

 

会議場は宮中防空壕内の一室で地下10メートル、約15坪でありました。

 

陛下が入ってこられてから、私がポツダム宣言を読み上げました。

 

外相はポツダム宣言を受諾して戦争を終わらせるべきと答え、

 

次に阿南陸軍大臣が、外相に反対意見を述べ、米内海軍大臣、平沼枢密院議長、外務大臣に賛成。参謀総長、軍令部総長は阿南陸軍大臣と同意見。

 

全ての意見が出揃ったあと、鈴木総理が立って、言いました。

『ただ今まで意見はまとまりません。しかし、自体は緊迫しております。

 

誠に恐れ多いことではありますが、ここに天皇陛下の思し召しをお伺いして、それによって私どもの意見をまとめたいと思います。』と。

 

それを受けて陛下は、『それなら自分の意見を言おう』と仰せられ『自分の意見は外務大臣と同意見である』と仰せられました。

 

次の瞬間、そこに居合わせた人々はみな涙をこぼし、号泣する人もいました。

 

建国2600余年、日本の初めて敗れた日であります。

 

続いて陛下は『念のために理由を言っておく』と仰せられました。

 

『大東亜戦争が始まってから陸海軍がしてきたことを見ると、どうも予定と結果がだいぶ違う場合が多い。

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自分の任務は、祖先から受け継いだこの日本を、子孫に伝えることである。

 

今日となっては一人でも多くの日本人に生き残ってもらって、その人たちが将来再び、立ち上がってもらう他に、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。

 

このまま戦い続けることは世界人類にとっても不幸である。

 

自分は明治天皇の三國干渉の時のお心持ちも考え、自分のことはどうなっても構わない。

 

耐え難きこと偲びがたきことであるが、この戦争をやめる決心をした次第である。』」

(「終戦の真相」迫水久常著)

 

”自分のことはどうなっても構わない。”と語られました昭和天皇。

 

そして、”自分の任務は、祖先から受け継いだこの日本を、子孫に伝えることである。”と仰りました。

 

民(国民)の不幸は君(天皇)の不幸、

民(国民)の幸福は君(天皇)の幸福。

 

君民一体で、日本が治められていました。

 

一方、キリスト教国のヨーロッパではどのような統治が行われていたのでしょうか?

 

ヨーロッパでは、教皇、僧侶、皇帝、国王、諸侯らは、領地を持っていました。

 

彼らは、土地だけれなく、そこに住む人民も所有していました。

 

ですので、人間は生まれながらにして、生命、自由、財産を侵されない権利を持っている、と啓蒙する必要がありました。

 

欧米では、人権を認めないような国は”文明国”ではないという認識がありました。

 

したがって、開国したばかりの日本は、この欧米基準の「人権尊重」を憲法に規定する必要があったのです。

 

しかし、井上毅(こわし)らは、この”人権”という言葉をあえて入れませんでした。

 

日本国は、古代、神世の時代から、民は宝(人権尊重)として成り立っていたからです。

 

憲法はその国の歴史そのものである、というシュタインのアドバイスを受けて、井上があえて、入れなかったのです。

 

憲法制定後、金子堅太郎は、大日本帝国憲法とそれを解説した憲法義解を英訳したものを、シュタインに持参し意見を伺いました。

 

シュタインは次のように助言しました。

 

「有色人種で初めて憲法を制定したオスマン・トルコ憲法は、わずか2年で停止してしまった。そのようにならないように、憲法の精神を国民に徹底的に教育するように」と。

 

憲法の精神、それは、日本の歴史ということです。

 

参考図書

「帝国憲法物語 日本人が捨ててしまった贈り物」倉山満著

「古事記と現代の予言」谷口雅春著