ベトナム戦争で行われた、韓国軍によるベトナム大虐殺 | 誇りが育つ日本の歴史

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ベトナム戦争で行われた、韓国軍によるベトナム大虐殺

 

 

ベトナム戦争時、韓国軍はベトナム虐殺しましたが、韓国のベトナム派遣軍最高司令官は「誰に対しても償う必要はない」と語りました。

 

昭和36年(1961年)5月16日の軍事クーデターにより樹立された軍事政権で国家再建最高会議議長に就任した朴正煕は、同年11月、米国のケネディ大統領に米軍の傭兵としてベトナム戦争に参加したいと打診しました。

 

ケネディ大統領は受け入れを拒否していましたが、ジョンソン大統領に政権が交代すると朴正煕の要望を受け入れ、韓国軍はベトナムに派兵されていきました。

 

25歳から35歳まで、北ベトナム軍の砲兵部隊で中尉だったトンさんの証言です。

 

トンさんは、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)を援助するために、ホーチミンを通って南下しました。

 

米軍は、北ベトナム軍やベトコンを見つけては、戦闘爆撃機により爆弾を投下し、次にヘリコプターによる空中からの攻撃により、草木がなくなるくらいの大量の爆弾を投下する「索敵撃滅作戦」を展開していきました。

 

一方、米軍の傭兵としてベトナム戦争に参加した韓国軍は、主にヘリコプターで農村に入り、村人たちに食事を提供するといって1箇所に集めて、村の女、子供、老人、赤ん坊を抱いた母親を、見境なく撃ち殺していきました。

 

女性に対しては強姦(レイプ)をした上で、殺害していきました。

 

そして、証拠隠滅のため、村の家に火をつけて牛などの家畜も殺していきました。

 

北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)はもちろんですが、村の女性までも立ち上がり武器を手に取り、韓国軍に立ち向かっていきました。

 

韓国軍は問題外に弱かったとトン氏は語りました。

 

北ベトナム軍や解放民族戦線(ベトコン)は、米軍と戦闘をする際、村の中に入って戦闘を絶対にしなかったそうです。なぜなら、村が破壊されることを恐れたからです。

 

村から外れた場所で戦闘をし、米軍は民間人を虐殺しなかったといいます。

 

(一度だけ米軍は、昭和43年(1968年)3月16日、ソンミ村で504名が犠牲になった虐殺事件をおこしました。責任者であるウィリアム・カリー(William Calley)中尉は、昭和44年(1969年)9月5日に起訴され終身刑を宣告されましたが、のちに減刑されて、3年半の自宅軟禁に服しました。)

 

20歳から24歳まで元解放軍として戦った、ラムさんの証言。

 

「韓国兵はとても残虐で、ベトナム人を見ると無差別で殺戮しました。朝、食事をやるからといって集めておいて、突然、銃撃し、手榴弾で殺しました。」と。

 

カムラン村には48人の南ベトナム解放軍がおり、韓国軍が村を襲撃したと聞いて、攻撃を仕掛けました。

 

500名ほどいた韓国軍を48名で撃退した、と語りました。

カムラン村では、昭和41年(1966年)8月14日、84名の女子、老人、子供が、韓国軍によって虐殺されました。

 

17歳から27歳まで元解放軍として戦った、ティさんの証言。

 

「韓国軍がヘリコプターでディエンニエン村にやってきた。子供、妊婦、若い女性、婦人、老人が集められて、小銃、手榴弾、機関銃で虐殺されました。

 

韓国軍は農家を破壊するときは、必ず牛を殺します。野良仕事ができないようにして、村人を苦しめます。」と。

 

韓国軍が村を襲撃したという報告を受け、ティさんが所属する解放軍が韓国軍を撃退するために戦闘を開始。200名いた解放軍はフランス製の旧式銃で、約600名の韓国軍を撃退しました。

 

ディエンニエン村では、昭和41年(1966年)10月9日、112名の女子、老人、子供が、韓国軍によって虐殺されました。

 

10歳の少年だったグンさんの証言。

 

「両親と兄弟の八人が、韓国兵によって虐殺されました。兵隊が立ち去った後、死体の下から這い出して逃げました。今も、韓国人に強い恨みがあります。

 

村に来た韓国軍は強制的に子供、女子、老人など村人を集めた後、突然、小銃、機関銃、手榴弾で次々と虐殺をしていきました。

 

逃げる人びとの悲鳴とともに、あたり一面血で染まりました。

父はまだ息があったので近くの病院に運ばれましたが、そこで死亡しました。」と。

 

現場で亡くなった人以外は、慰霊碑に名前が刻まれていませんので、グンさんのお父さんは、虐殺の犠牲者として名前が記録されませんでした。

 

グンさんは、お母さんに守られるように抱きかかえられていたので、奇跡的に生き延びることができたそうです。

 

昭和41年(1966年)10月9日、フォックビン村で女性46名、男性12名、不明10名の68名の方が、韓国軍によって虐殺されました。

 

このようにベトナム各地では、韓国軍によって村が焼き払われ、村人が虐殺された場所に、慰霊碑がたくさんに作られています。

 

韓国軍によるベトナム人虐殺の犠牲者は、数万人と言われています。

 

また、韓国人兵士によって、ベトナム人女性が強姦(レイプ)されてできた孤児(ライダイハン)も、数千人から1万人以上いると言われています。

 

韓国では、ベトナム戦争について、共産主義を防ぎ、自由のために戦った聖戦であるように教えられています。

 

平成11年(1999年)5月、韓国のハンギョレ新聞社の週刊誌「ハンギョレ21」に、韓国人歴史研究者の具秀ジョン(ク・スジョン)氏が、韓国軍によるベトナム虐殺を記事にしました。

(平成11年5月6日号)

 

米「ニューズウィーク」が、「暴かれた英雄の犯罪」というタイトルで、ベトナム戦争で行なわれた韓国軍によるベトナム虐殺を取り上げました。(平成12年4月21日号)

 

平成12年(2000年)6月27日、ベトナム戦争に従軍した退役軍人、約2000人が、ハンギョレ新聞社に乱入しコンピュータなどを破壊。

 

韓国軍のベトナム派遣軍最高司令官だった蔡命新は、「ニューズウィーク」のインタビューで次のように語りました。

 

「誰に対しても償う必要はない。あれは戦争だった」と。

 

参考図書

「韓国の大量虐殺事件を告発する」北岡俊明、北岡正敏共著