インド国民軍を編成しインド独立に貢献したF機関長 藤原岩市少将
日本海軍が真珠湾を攻撃と同時に、日本陸軍がマレー半島上陸作戦を行いました。
イギリスの統治下にあったマレー半島には、インドから派遣された英インド軍が駐屯していました。
英インド軍は、将校のみがイギリス人で、将校以下全ての兵隊がインド人で構成されていました。
日本陸軍の進撃で、数万人規模のインド人兵士が捕虜となりました。
そして、このインド人兵士に対して、イギリスからインドを独立されるために、説得に当たったのが、F機関でした。
F機関とは、タイ王国公使館附武官の、田村浩大佐の下に設置された特務機関であり、機関長は、陸軍参謀本部から派遣された、藤原岩市少佐でした。
10人足らずの構成員でしたが、皆、陸軍中野学校出身でした。
F機関の人たちは、丸腰のままインド人捕虜たちと寝起きを共にし、同じアジア人同士が戦うことは愚かなことであると諭しました。
そして、イギリスなど白人帝国主義者をアジアから追放して、「アジア人のためのアジア」を復興するという大アジア主義を説きました。
共通の敵であるイギリスに対して、共に戦おうと説得しました。
藤原少佐は、ある食事の際、インド人兵士と会食しました。インド人たちと地べたに車座に座り、カレーをインド式に手づかみに食べました。
その様子を見ていたインド人兵士たちは衝撃を受けました。
なぜなら、それまで統率していたイギリス人将校たちは、皆、テーブルクロスの上に並べられた食器に、西洋式にナイフとフォークを使って食事をしていたからです。
イギリス人とインド人の間には、人種差別の壁がはっきりと存在していました。
このカレー事件がきっかけとなり、インド人捕虜たちが、次第にF機関の説得に応じるようになっていきました。
最終的には5万人規模の組織となり、インド国民軍が創設されました。
その最高司令官に、チャンドラ・ボーズが就任しました。
F機関は、岩畔豪雄陸軍大佐を機関長とする250名の人数を抱える岩畔機関に発展し、その後、山本敏大佐が機関長となる、光機関となりました。
その数、500名となり、インド国民軍を支援していきました。
インド国民軍は日本陸軍と共に、ビルマからインドに向かい進軍していきました。(インパール作戦)
この行軍は、雨季の時期の猛烈なスコールと、マラリア、食料補給が途絶えてしまったこのなどのため、途中で退却することになりました。
チャンドラ・ボーズは、最後の一兵まで残って戦う、と退却を拒否しましたが、日本将校に説得されて、仕方なく撤退せざるを得ませんでした。
しかし、無駄なことはありません。
このインパール作戦のおかげで、インドは独立を成し遂げることができたのです。
昭和20年(1945年)11月に、インド国民軍がエリザベス女王に銃を向けた反逆罪の罪で、将校3名が代表に選ばれて、軍事裁判にかけられました。
その裁判で、証人として、藤原岩市元少将が呼ばれました。
その裁判中、インド国内では10万人規模のデモが起こったため、刑の執行は行われませんでした。
昭和21年(1946年)3月、シンガポールのチャンギー刑務所に送られ、厳しい尋問を受けた後、クアラルンプールに送られました。
そこで、藤原岩市元少将は、イギリス軍から、”輝かしい功績”と評価されて、F機関とインド国民軍との関わりについて、取り調べを受けました。
イギリス軍は、なぜ、捕虜として捉えられたインド人兵士が、インド国民軍を結成して、日本軍と共にインパール作戦を戦うまでになったのか、とその理由を知りたがったのです。
日本降伏の2年後である、昭和22年8月14日、パキスタンが、15日にインドが、それぞれイギリスから分離独立することができました。
参考図書
帝国陸軍見果てぬ「防共回廊」関岡英之著 祥伝社