終戦後の樺太、千島での戦い | 誇りが育つ日本の歴史

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日本では自殺者が増え続けています。
自虐史観を押し付けられ、日本の建国の歴史が書かれている神話を、教わらない事が、その主な原因です。
少しでもそのような精神的な貧乏状態を改善していきたいです。

昭和20年8月、樺太駐留軍では、ソ連軍による侵略ではなく、米国からの侵略を想定していました。

 

なぜなら、ソ連とは中立条約を結んでいたためです。

 

日本の感覚からですと、中立条約を結んでいる国とは戦争しないという考えになりますが、ソ連にはその考えは通用しませんでした。

 

樺太を守備していた日本の第88師団(峰木十一郎中将)は約2万人の兵隊が配備されていました。

 

千島列島の4島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞島)には、第89師団の2万人が配置され、

 

千島列島の北端(占守島(シュムシュ)、幌莚島(パラムシル))には、91師団(堤不さ貴(つつみふさき)中将)の2万6千人が配置されていました。

 

8月15日、ソ連のワシレンスキー司令官は、プルカーエフ第二極東司令官とユマシェフ司令官に対し、

 

北千島(占守島(シュムシュ)、幌莚島(パラムシル)、阿頼度(アライト)、志林規(シリンき))を占領するよう命じました。

 

トルーマン大統領は8月15日、マッカーサーに出した命令書(一般命令第一号)をスターリンにも知らせました。

 

その中で、「満州、北緯38度線以北の朝鮮、樺太」の日本軍はソ連軍司令官に降伏する旨が規定されていました。

 

これに対し、スターリンは、「ヤルタ協定の従ってソ連軍に日本軍が降伏すべき地域に、千島諸島全てと、北海道の北半分(釧路と留萌を結ぶ線より北側)を含める事」、を要求しました。

 

8月16日、スターリンは、ワシレフスキー極東ソ連軍司令官に北海道北部と南千島を9月1日(降伏文書調印式の前日)までに占領することを指示していました。

 

樺太の第88師団と千島の91師団は、15日正午の玉音放送に続き、札幌の第5方面軍から「18日16時の時点で停戦し、こちらから軍使を派遣」

 

「その場合も、なお敵が戦闘をしかけて来たら、自衛のための戦闘は妨げず」との命令を受け、戦車の備砲を撤去したり、化学兵器を廃棄したりして武装解除の準備をしていました。

 

8月18日早朝、カムチャッカ半島からソ連軍が占守島(シュムシュ)の竹田浜から上陸。

 

札幌の第5方面軍司令官の樋口季一郎中将は、千島の第91師団に「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と指令を出した。

 

第91師団(堤不夾貴(つつみ・ふさき)中将)は国籍不明の軍隊に対し反撃。日本軍がソ連軍を殲滅できる有利な態勢となった。

 

しかし、18日正午、札幌の第5方面軍司令部は、樺太の第88師団の峰木十一郎師団長と、第91師団の堤不夾貴師団長に正当防衛以外の軍事行動を禁じたため、16時以降、積極的戦闘を停止しました。

 

そして、8月18日、トルーマン米国大統領は、スターリンから要求されていた北海道北部(留萌と釧路を結ぶ線より北側)の占領を拒否。

 

もし、18日の日本の第91師団の反撃と、トルーマン大統領の拒否回答がなかったら、北海道北半分はソ連領となっていました。

 

8月20日に第5方面軍司令部は、第88師団に停戦交渉を命令。

 

8月21日にソ連軍と日本の第91師団との間で休戦協定が成立。

翌22日に知取(しるとる)でソ連軍と日本の第88師団との間で停戦協定が成立。

 

8月22日、スターリンは、「北海道北部の占領を拒否されるとは期待していなかった」、とトルーマンに回答し、ワシレフスキーへ北海道北部の占領命令を撤回しました。

 

樺太では、地上戦と空爆によって2、000人の居留民が殺害されました。

 

また、8月22日、樺太から北海道に向けて運行中の避難民を乗せた輸送船(小笠原丸、第二新興丸、泰東丸)が、留萌沖で撃沈され1、700人が殺害されました。

 

ソ連軍は24日に樺太の豊原、25日に樺太の大泊を占領しました。

 

一方、ソ連太平洋艦隊司令部は、26日、北太平洋艦隊に択捉と国後への上陸を命じました。

 

南千島には千島北部、中部とは別の舞台を担当させたこと自体が、南千島の位置付けを物語っていると言えます。

 

8月28日に択捉島、9月1日に国後島、色丹島、9月5日までに歯舞諸島に上陸。

 

択捉島でも国後島でも、上陸したソ連軍はまず、「この島にはアメリカ兵はいるか?」と聞いたことは、

 

ソ連がアメリカ軍の動向を気にしながら南千島作戦を強行したことを裏付けていました。

(「我らの北方領土・ソ連占領編」千島歯舞諸島居住者連盟)

 

9月2日、戦艦ミズーリの降伏文書調印式の日に、「同志、スターリンの国民への呼びかけ」という声明を発表しました。

 

その内容は、

「1904年日露戦争におけるロシア軍の敗北は国民に苦しい記憶を残した。その敗北は我が国家の不名誉となった。

 

我が国家は日本を撃破しその恥を拭う日が来ることを信じ、その日の来るのを待っていた。

 

我々前世代の人間は40年間その日の来るのを待っていたが、今その日は来たのである。」と。

 

日本への報復の機会を伺っていたソ連に対して、日本は日ソ中立条約を結びました。

 

そして、ドイツ降伏後、ソ連が、ヨーロッパからシベリア方面に、大規模な軍事移動をおこなっている、という報告を受けていながら、ソ連が日本に攻めて来ることはないと、8月8日の宣戦布告の時まで、日本は信じていました。

 

さらに、日本は、ソ連に対して、米国との講和を仲介してほしいと依頼していたのです。

 

日本人居留民に対するソ連軍の蛮行は、凄まじいものがありました。

それが12歳であろうと70歳近い老婆であろうと。

 

そして、人前でも白昼でも堂々と、また雪の上であろうと、そういうことは全く頓着しなかった。

 

女性たちは頭は丸坊主になり、顔に墨を塗り、男装して難を逃れようとしたが、彼らは一人一人旨を触って女であることを確かめると引き立てていった。(「戦後引き揚げの記録」岩槻泰雄著)

 

樺太庁はソ連侵略後の8月13日から22日まで住民の緊急疎開を行い、7万6千人の人が、北海道に避難しました。

 

8月23日以後は渡航が禁止されてしまいましたが、その後も2万4千人あまりの人が北海道に避難し、合わせて約10万人の人たちが避難しました。

 

樺太に残された住民、約28万人(民間人26万7千人、軍人1万2千人)は、米ソ協定に基づき、昭和21年12月から24年7月までに真岡から函館港へ引き上げて来ました。

(「樺太終戦史」全国樺太連盟 著)

 

南千島(北方領土)からの引き上げは、米ソ協定により、9、600人の一般住民が北方領土から、樺太経由で函館に、強制的に退去させられました。

 

(参考図書:「シベリア抑留」長勢了治著)