蒋介石国民党軍との和平交渉は、なぜ、実現しなかったのか? | 誇りが育つ日本の歴史

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実は、近衛首相の「国民党政府を相手にせず」という声明後も、和平工作が水面下で行われました。

 

玄洋社の頭山満などと一緒に孫文の中国革命に協力して、蒋介石国民党首脳部と親しい関係にあった茅野(萱野)長知氏は、日本と支那の和平工作をします。

 

昭和13年3月に上海のカセイホテルにて国民政府側要人Aと松本蔵次氏が会見。そこで要人Aは「このままで行けば日本と支那は共倒れになる。アジア全体の不幸になる。なんとかして和平の道を講じなければならない」と語りました。

 

その後、二度目の会見で、茅野(萱野)長知氏の和平案を提出します。

1、日華双方とも即時停戦すること

2、日本は中国の主権を尊重し、撤兵を声明すること

3、日本側の要求する満蒙問題の解決については、原則的に

  これを承認するが、具体的には日華両国で協議すること。

 

国民政府側要人Aは、茅野長知氏の手紙を携えて、漢口にいる国民党の行政院長(首相)である孔祥煕にこの和平案を提出し、茅野(萱野)長知氏あての、孔祥煕からの返事を携えて上海に戻ってきました。

 

茅野(萱野)長知氏は、その手紙を日本政府と軍部と協議するために上海から東京に向かいました。

板垣陸軍大臣と近衛首相と協議して、両者ともにこの和平案を承認したので、再び上海に向かいました。

 

そこで、国民党政府の要人Aと会見する予定が、警備の関係で数日遅れることになり、その間、茅野(萱野)長知氏は、松本重治氏(同盟通信社上海支社長)にこの和平交渉の経過について話してしまいました。

 

その後、香港にて、国民党政府考試院(人事院)長である居正夫人が、行政院長(首相)である孔祥煕の代理としてきて、日本と支那(国民党政府)との和平交渉の事務レベルでの下準備はまとまりました。

 

1、国民党政府側は、首席孔祥煕行政院長、副主席居正、

  他要人5名。

1、日本側は、近衛首相又は宇垣外務大臣を首席とし、

  陸軍、海軍代表を加えて構成する。

1、場所は香港湾外の日本側軍艦を用いて洋上会見とする。

1、日華両国代表によって行う取り決め内容は、日華双方とも、

  即時停船命令を発することに署名すること。

1、停戦後の条件は、両国間で具体的に協議すること。

 

この時、居正夫人は茅野(萱野)長知氏に次のように語りました。

「戦争をやめてしまえばあとはどうにでもなります。それに日本側からすれば、中国政府の代表五人を日本の軍艦に乗せて談判するんじゃありませんか?

捕虜にしたのも同然でしょう。これで、日本側の面目が立つでしょう。あとはなんとかなります。」と。

 

しかし、ここまで和平交渉がまとまったのもつかの間、茅野長知氏と松本蔵次氏が東京に戻り、板垣陸軍大臣と会って報告すると、状況が一変していました。

 

板垣陸軍大臣は「中国側に全く戦意なし、このままで押せば、国民政府は無条件で降伏する。日本側から停戦協定の申し出をする必要は無くなった」というのです。

 

茅野(萱野)長知氏が東京に戻る前に、松本重治と国民党政府の高宗武(こう・そうぶ)が東京に来て、板垣陸軍大臣や近衛首相に、先ほどのような情報を伝えていたのです。

 

板垣陸軍大臣はその情報を信用し、和平の方針を改めます。そして、近衛首相もそれを受けて、和平交渉は白紙となってしまいました。

 

その後、茅野(萱野)長知氏は上海の国民党政府の要人Aに会って、説明すると、上海から電報で漢口にある国民党政府に確認をとりました。すると、その高宗武(こう・そうぶ)が「日本側に戦意なし、中国が抗日戦を継続すれば、日本側は無条件で停戦、撤兵する」という秘密電報が入っていたということです。

高宗武(こう・そうぶ)は、全く日本と真逆の情報を送っていたということになります。

 

板垣陸軍大臣は、ついこの間まで和平に同意していたのに、一体、なぜそんなに簡単に、信用してしまったのでしょうか?

 

松本重治は尾崎秀実と同じ近衛内閣のブレーンでして、朝飯会でも一緒でした。尾崎秀実から影響も受けていたでしょうし、陸軍軍人へ戦争を継続させるための、ツボをついた交渉の仕方も心得ていたのかもしれません。

 

この高宗武と松本重治の行動により、日本と国民党との和平交渉は永遠に実現することがなくなり、その後の日本の敗戦への道を決定づける結果となりました。

 

この時の宇垣一成外務大臣は、この和平工作に期待をかけていました。しかし、陸軍から中国外交の外務省外しの工作を受け、外務大臣を辞任してしまいました。

 

もし、和平交渉が成立していたら、中国大陸には、共産党国家は成立していなかったかもしれません。

 

また、日本は南仏印進駐(フランス領インドシナへの進駐)する必要もなかったでしょう。

なぜなら、南仏印進駐は、蒋介石軍へのイギリス、アメリカからの軍事物資援助ルートを抑えることがその目的だったからです。

 

そして、アメリカ、イギリスと戦争することもなかったでしょう。

なぜなら、日米交渉での最大の懸念材料は、日本陸軍による南仏印進駐だったからです。

 

そう考えると、この成立一歩手前まで行っていた、蒋介石国民党との和平交渉を決裂させた人物である、高宗武と松本重治、そして、彼らに大きな影響を与えていたであろう尾崎秀実は、日本の運命を大きく狂わせてしまいました。

 

これも、コミンテルンの描いたシナリオ通りに事が運びました。