鰹節は、インドの市場にも売られている

和風だしの疑義


着物もアオザイやチョゴリなど

一部共通の仕立てがある

着物の疑義


そもそも織物はイギリスの産業革命で

世界中の進化を加速させた


国なんて関係ないという主張でグラデーションの一角を支配できることは間違いない


でも


それ


日本なんですか?


日本じゃなくてもいいなら、

日本を次ぐ必須要件はないよね?


世界に追いつけと

日本ダサいを重ねた戦後90年が

もたらした


外国人がイメージしている日本を

保ってほしいという

糸の切れたタコのような先導。


日本に生まれてよかった。

外国人のペット幸せ。


飼い主によっては

お猫様と下僕だもの。


ペットのほうが偉いもの。


そんな人生を強制的に選択させられている。


日本語は、外国人には難しいそうだ。

漢字と英語も日本限定だからね。


そういう問題ではないと

他人事の人は

まず日系人で間違いない。

日系人のグラデーション日本寄りってだけ。


でも

その「限定」の中で、限定ではない条件よりも具体的に世界を表すことができるから、

日本は「弱いくせにすごい」という立場になって、弱いけど守らねばならない国、になった。


植物なら、成長点を刈り取ると脇芽が出るのだけど、そもそも霊長類の脇芽である人間の進化の成長点から、新たな進化が出る様子は、無いわけよ。


ブータンの国旗は、ひらがなの影だけど

ブータンの言葉は、日本語ほど単純に世界を網羅できてはいない。


何が違うのか


日本語は、その言葉が生きているということを

人間の命に担保させている。

言葉が上滑りせず、命と連動している


覚悟の結晶なわけ。


文化は、みんなで継いでいるから

心配ない

いやいや。

その文化を「日本の」と限定する条件を

その文化集団は、説明できない。

つまり

その文化は、その集団のもので

「日本のもの」と固執できる理由を証明できない。

ということになる。


今生きている人だけが、

十分日本だよ!と盛り上がっても

おままごとの設定にしかならない。


現実に価値のあるものにするには

ギネスブックの記録のように

「数字」の後押しがいる。


数字の後押しのある証明には

時代を超え、人が変わっても継がれる

品質がある。


金の品位が、貴金属の基準なら

命の品位は、命で基準しなければならない

命の価値が社会評価とか人の評判を根っこにすることは、おままごとの「設定」に過ぎないのだ。


命名権は、そういった意味で

新しい日本を日本品質から切り離す売国行為の横行と言える。


家を守ると言いながら

八角掛矢を振り回していて

怖い。