【ギータ・パンデ署名記事】

 

 

パラス氏が孤児院や警察に聞いて回ったが、何もわからなかった。

 

 

バブルが覚えていたのは、自分が電車に乗った駅の外の光景だ。大きな電車のエンジンが飾ってあった。

それで、パラス氏はわかった。アグラだと。

 

そこの警察署の記録を読むと、2010年6月にふたりの父親の捜索願いがあった。

 

しかし、そこに記載されていた住所に行ったときには、借家を引き払った後だった。

 

 

 

一方、姉のラキは、母親の名前と、母親の首筋に痣があると話した。

 

それを聞いて、パラスは、アグラの日雇い労働者が集まる場所へ行った。

そこには、毎朝、仕事を求めて、日雇い労働者が集まるからだ。

 

そこで、ニトゥクマリに会うことはできなかったが、彼女を知ってるという人物に会うことができた。

そして、その人物に、伝言を伝えた。

 

 

わが子の消息を知るとすぐに、彼女は警察に行った。

 

そして、警察がパラス氏に連絡したのだった。

 

 

 

パラス氏は、ニトゥクマリに会うと、姉弟の写真を見せた。

それから、警察署に出された捜索願の写しも。

 

 

そして、ふたりとビデオ電話で話した。

 

13年の歳月を経ていたが、お互い、すぐにわかった。

 

 

 

ラキを叩いたことをどれほど後悔したことか、とニトゥクマリはパラス氏に語った。

 

と同時に、ふたりの子を探すのに、あれこれ手を尽くしたことも。

 

 

 

 

「誰かがパトナ(隣の州)で物乞いしてるのを見かけたって言うのを聞いて、借金して、そこまで行った。

とにかく無事に帰ってきてほしいと願って、ヒンドゥー寺院、モスク、シク寺院、キリスト教会、あらゆるところにお願いしに行った。」

 

 

 

「パラスさんは、わたしたちの家族を1週間で見つけ出してくれた。

わたしがどれだけ何度もお願いしても、警察もNGOの人もできなかったこと。

腹が立ったけど、今はこうしておかあさんと話ができて、すごく嬉しい。」

 

 

「おかあさんは、泣きながら、どうして出て行ったの?と訊いたけど、出て行ったんじゃないよ、迷子になったんだよ。」