【 日本の古代史とユダヤ 】 出雲大社と宇佐八幡と天照大神3 | 國體ワンワールド史観で考察するブログ

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日本の教育への疑問から始まった当ブログは、教育への関心を残しながら落合莞爾氏の國體ワンワールド史観に基づいた情報発信にシフトしています。
また最近はサニワメソッドを活用したスピリチュアル関連の情報発信も行っています。

古代呉の人々が、倭人と呼ばれた考えられます。
呉の人々は海洋民であり、倭人も海洋民です。


また、魏志倭人伝で、「倭国条」ではなく「倭人条」となっているのは、
倭人の都市国家が日本や朝鮮半島に点在していたからだと思います。


中国の史書でも倭人は、朝鮮半島に住んでいたことが記述されています。
呉の人々が、日本や朝鮮半島に住み着いた、ということだと思います。

 

フェニキア人も、各地に植民都市国家を築きましたが、
フェニキア国とは言いません。
ちなみに、ローマと戦ったカルタゴもフェニキア人の都市国家です。


陸の民から見たら、海の民は捉えにくいのだと思います。


そして、呉から来た人々の名残が、日本語に残る「呉音」なのかもしれません。
日本語は「漢音」や「呉音」が併存していますが、
漢音に押されて消滅しないくらい「呉音」が根付いていたからでしょう。
例えば、「日」:ジツ(漢)/ニチ(呉)、「若」:ジャク/ニャク、「米」:ベイ/マイなど。


中国は、昔から漢字が発達し、漢字が表意文字として機能し、
地域によって読み方がマチマチだったので、多くの「方言」が存在しましたが、
まさにその方言の名残が、日本の漢字の読みの多様性に繋がっているのかもしれません。


時代が急に下りますが、300年代に朝鮮半島からの移民が増えたようです。


それは、世界的な寒冷化と無縁ではないです。
ゲルマン民族の大移動もそうですし、フン族など騎馬民族の東西展開も、
寒冷化の影響です。


こういう武力を押し出してくる民族に押される形で、
朝鮮半島からの避難民が増えたと考えられます。


朝鮮半島南端でも、スキタイ人のベルトのバックルなどが出土します。
そして、この頃、いくつかの国に分かれていたのが合さっていき、
百済や新羅が300年代に成立しているのも、異民族の外圧が影響していると考えられます。

 

ところで、日本側の記録には、

豊の国(今の大分県と福岡県の一部)に新羅人が多く住んだ、とあります。


記録は、後世の人々の記録であり、新羅という国というより、
新羅のあった朝鮮半島の東側にいた人々ということだと思います。

 

新羅のエリアの人々は、秦国の政治から逃れてきた人々です。
そのため、秦韓/辰韓やと表記されました。
燕や韓や趙など北側の人々ではなかったかと思いますが、
秦が西方人の混血率が高かったのですが、秦のお隣の趙、魏、韓なども、
それなりに西方人の混血率は高かったと思います。


また、趙の東側には燕もありましたが、
燕は特に騎馬民族との接触が多かったようなので、
同じく西方人の混血率は高かったと思われます。


何が言いたいかというと、中国の春秋戦国時代の戦国時代は、
すでにバビロン捕囚の後の時代であり、
失われた10支族が東方に逃れて根を張っていてもおかしくない時代です。


バビロン捕囚:紀元前607年~紀元前537年。
秦の統一:紀元前221年。
ということで、ユダヤ教にいろいろ混じったかもしれない時代を経ていますが、
秦から逃れてきた人々の中には、ユダヤ教徒もいたと思います。


中国の文明と西方の文明の、両方の知識を持つ彼らは、
大変重宝されたと思います。
また、商才を持っていたので、富を蓄積するのも上手かったと思われます。


新羅エリアから豊の国へ。
豊の国には、宇佐神宮が存在します。
出雲大社の元の名前が杵築大社で、現大分県にも杵築市があります。
杵築大社も宇佐神宮も、2礼「4」拍手1礼と他の神社と礼式が異なります。
いろいろ出雲と豊国は関係があるように思われます。


長野正孝氏が推理していますが、

応神と言われる人物は、豊国エリアを押さえて海運を行い、
準構造船を駆使して、それまでの丸太船で越えられなかった丹後半島を回り、
敦賀の辺りに中継地点を設けた海運王ではなかったか、と言っています。


応神の足跡が、北陸に見られるのはこのためであり、
敦賀王国を作ったのが応神ではなかったのか、という推理を展開しています。
自分もそうだと思います。


また、スサノオ、大国主が出雲で、スサノオは日本に来る前に新羅に舞い降りたという記述が日本書紀にあり、
神功皇后が敦賀に関係があるとされていて、神功皇后の子の応神は宇佐神宮の祭神であり、
神功皇后も新羅遠征をしている、というように、関係者が新羅にリンクしてきます。