ユダヤ人たちも、何度かに分けて日本に到達しているはずです。
様々な系統がいて、どこかに留まるつもりであったのが、
何かしらの理由でさらに東に進んで海を渡って日本に、
というように、それぞれの事情があるだろうからです。
そして、結論から言うと、日本の神道がユダヤ教とほぼ同一ということです。
縄文時代のアニミズムをうまく吸収したように見せていますが、
後々入ってきた人々が真に崇めていたのは、ある神だと思います。
それが、大国主です。
山陰から畿内に出雲系とされる神社が点在し、太平洋側に移って関東にも。
氷川神社が出雲系と言われます。
諏訪大社も。
海洋に詳しい長野政孝氏が著書「古代史の謎は海路で解ける」で述べていますが、
古代は400年代に入るまで帆の船が主流になることがなく、
300年代に入るまでは丸太を掘った手漕ぎ船が主流であり、
300年代頃に準構造船の手漕ぎとなって補助的に帆が使われ出したとことです。
そのため、手漕ぎ船は進める距離が決まっているので、
多くの停泊できる平地が必要であり、
当時は瀬戸内海は今より平野部が少なくとてもではないですが、
航路として成立しておらず、港として集落もなかったとのことです。
こうした背景で、当時の主要な航路は九州北岸から日本海側であり、
様々なエリアからの集積地が陸続きになる前の島根半島沿岸にあった、
旧杵築大社のあった辺りとのことです。
今の杵築大社は移動した後の場所とのこと。
また、江戸時代でもそうだったが、日本の船は陸揚げして難破を逃れ、
川から川に船を引いて動けるように、船底が平らだったとのこと。
そのため、古代栄えた遺跡が川から川に移れるような川沿いにあり、
また、手漕ぎのみで越えるのが難しい丹後半島には300年代までの遺跡が少なく、
丹後半島西手前の川沿いに遺跡が集中し、
古代この辺りが大いに栄えていたかも説明がつきます。
自分は、この説が正しいと思っています。
これまでの古代史の専門家は、遺跡や古代資料からの分析は行うことが専門ですが、
海の専門家ではありません。
そのため、神武東征のような瀬戸内海利用の航路が
当たり前のようになっていましたが、
海の専門家からすると難しいという否定は大きな意味を持つと思います。
話が逸れました。
日本における早い部類が、杵築大社(現:出雲大社)で神権を行使していました。
この系統は、中国の呉族系だと思います。
海洋民族だった呉は、春秋戦国時代に多くの難民を出したと考えらえるエリアです。
呉の王族は、元々周王室です。
周王室は、元々羌族で、西方出身の民族です。
また、呉は鉄剣の名産地であり、西方のヒッタイトなど鉄器を生み出した民族との
関係性を思わせるところでもあります。
様々な情報を探ると古代中国にも、
白トュルクと赤トゥルクという西方出自(トュルク=トルコ)の人々がいて、
まさに鉄剣生産が得意だったようです。
唐代に、中国は日本のことを「東海姫氏国」と呼んでいました。
周王室の姓が「姫」であり、つまり昔の中国人は、
日本に周王室の末裔が行っていたことを知っていたということでしょう。
日本での稲作は紀元前500よりも古いという説もあるので、
中国から早い段階で移民がいて、呉の滅亡時に王族が移って来たのではと思います。
つまり、西方部族の移動に合わせて、まだまじりっ気のない正統ユダヤ教が来た、
ということだと思います。
ミャオ族は、古代の楚を興したと言いますが、ミャオ族も西方の民族であり、
末裔がある一つの天の神を拝んでいるので、
西方民族は一神教が主流だったと思います。
書き出してみるとまだまだ続きそうです。