◆◇◆ドイツに来てから 無意識のうちに頑張りすぎてたわたしが
28年後に自分探しをする マイストーリー◆◇◆ その3
前回の その2 「QE2での出会い、そしてドイツへ」の続きです。
人は時に、意識的にせよ、無意識的にせよ、
猛スピードで人生を駆け抜けることがあるようです。
QE2で出会った「ガイジン」と、数ヶ月のうちに結婚することを決め、
あっという間にドイツに来て、結婚したかと思うと、
その数ヶ月後には第一子出産・・・
という、29歳当時の私の猛スピード駆け抜けぶりは、
なかなか他の追随を許さないものではないかと自負するものです。
長女出産、家族の絆を再確認する
つわりが~、とか、胎動が~、とか言う話は、
昔のことなので、もうほとんど忘却のかなたになっているのですが、
実は出産も猛スピードの私でした。
夜中の2時過ぎに陣痛が始まって、
朝の6時半には長女が生まれていました。
私はそれまで、家族の絆とかそれほど強く感じたことがない、
ぼーっと生きていた人間でした。
それは、一番下の妹まで6歳ちょっとしか離れていない
4人兄弟の長女で、割と放って育てられたせいもあるかと思うのですが、
自分一人で大きくなったような気がしていました。
(もちろん、そんなことないのは、今では十分理解していますが)
でも、子供が生まれるとさすがに可愛くて、
この可愛さを他のみんなにもシェアしようと、
せっせと日々の成長過程を書いては、ファックスで
(まだ電子メールなどのない時代でした)実家に送ったものです。
今となっては、当時の思考回路をあまり思い出せないのですが、
なんとなく、このまま育児と家事だけして、
それでゆる~く人生終わってもいいかな、と思っていた気がします。
ただ、結婚相手のGが、レストラン・マネジャーの職に就いても、
数ヶ月でレストランが閉まってしまったり、
転職先でも試用期間中にすぐ解雇されたりで、
雇用が不安定だったため、産後けっこうすぐ私も働くことになりました。
本当は働かないで、ダラダラうちにいたかった私ですが、
Gに促されてしぶしぶ、という感じで仕事を探すことに。
ドイツで仕事をする
とはいっても、ドイツ語もまだろくにできないのに、
ドイツ人と肩を並べて働くこともできないので、
日本語を使うお仕事で探しました。
最初は、現地の日本人補習校で、だめもとで応募したところ、
ちょうど空きがでたからということで、
土曜日だけ幼稚部の担任をすることになりました。
大人数の兄弟で育っているので、
子供はけっこう好きだし、好かれるんですよ、わたし。
今でも街でよその赤ちゃんとかと目が合うと、
じっとみつめてくれることが多いです。
さて、補習校でのお仕事です。
土曜日だけの補習校とはいえ、事前の準備も必要なので、
週に一度は補習校の事務局に行って、季節ごとの工作の準備をしたり、
お遊戯のカセットテープ(MP3プレイヤーとかもまだなかった時代です)を
用意したりしました。
この補習校でのお仕事に加えて、
出産前に通っていた、ミュンヘンの日本語ガイド養成寺子屋のお仕事で、
ときどき市内観光をしたり、空港と市内の送迎をしたり。
月に一度ぐらいは、日帰りで
ノイシュバンシュタイン城へ行くこともありました。
QE2でもそうでしたが、もともと人と話したりおもてなししたりするのは
得意でしたから、なんだかんだで充実した日々でした。
そのようにして、私が仕事をしている時は、
失業中のGが家で長女を見てくれていたので、
この頃のわたしは、育児の苦労はあまりしていません。
三足のわらじを履いて、さらに大学入学にもチャレンジ
それは、4年後に第二子が生まれてからも
似たような状況でした。
第二子の時は、さらに現地の日系企業で、
毎日5時間ずつのパートタイム勤務もしていましたので、
仕事的には、補習校、ガイド、会社、と
3足のわらじを履いていました。
いま、振り返ってみると、さぞ忙しかったことだろうと
自分ごとながら心配になりますが、当時はそんなことも思わず、
いよいよ猛スピードで突っ走っていたのですね。
それだけでは足りないと思ったのか、
ある日ふと、「そうだ、私、ドイツの大学に行こう!」と
思いついてしまったのです。
これにはちょっとわけがありまして、
それは、ドイツが日本とはまた違った学歴社会である、
という理由によるものです。
私は日本で青山学院大学の法学部を卒業していて、
それは、世界的にはBachelorと呼ばれる
学位になります。
日本にいれば、出身大学のネームバリューも相まって、
どこへ行っても恥ずかしくない学歴なのですが、
それがドイツでは、残念ながら通用しません。
そもそも誰も日本の大学の名前を知らないし、
当時のドイツには、まだBachelorという学位がありませんでした。
ドイツにはドイツ独自の学位制度があり、
DiplomやMagisterという、いまは廃止に近い学位が一般的でしたから、
その基準からはみ出すものは、一般的には認定されないのです。
さらに、大学の殆どが公立(州立)のドイツでは、
私立大学出身というと、
「学力が足りない分を金の力で補ったんだな」という認識になり、
私の社会的地位は、当時のドイツでは非常に低いものだった、
と言わざるを得ません。
そういう自分の状況がいやで、
よし、ひとつドイツの大学に入学してみよう、
と思うにいたったのでした。
さらなる人生スピードアップの予感、しますよね?
この続きをお楽しみに!