寂しさを理解し、癒すときに見落としてはいけないのは、悲しみと憐れみ | 読むカウンセリングセラピー

読むカウンセリングセラピー

 人が悟りの境地に至るまで、山あり谷ありの人生。
    そして、やっぱり与える生き方を選んだ。 
    泣いてもいい、怒ってもいい、人間らしいじゃない。
    どんなあなたも愛らしいんだよ。

みなさんこんにちは♪
沖縄から比嘉倫絵です♪

 

 

この2週間の間にカウンセリングセラピー12本。
県外&国外からもお客様がいらっしゃって、
驚きも隠せずにいましたが、とても感謝しています。
紹介してくださったみなさまに感謝です。

 

そんな私にご褒美!
みどりちゃんと美女と野獣を観に行ってきました。

 

素敵すぎる。。。美しすぎる。。。

みどりちゃん誘ってくれてありがとう!!!

 

ってか、みどりちゃんの水玉模様のワンピースがよく似合うこと♪

 

もう一回観たくて、
「今度は吹き替え版を観に行こう」って、
みどりちゃんにおねだり!

 

数日経っても「美女と野獣」の余韻を残し、
まだまだ酔いしれている私です。

 

さてさて、読むカウンセリングセラピーでは、
孤独感の続きです♪

 

小さな頃から寂しさを抱え、
孤独という疎外感にも似た感情は、
常に怖れや不安で人との繋がりを成していきます。

 

この怖れや不安は、
こうしたいな?と思っても、
行動に移すことをせき止めたり、
守りに入ったり、傍観者になったりと、
そこには心の底から安心しきっているという感覚はない。

 

たとへ、安心の感覚を得た瞬間があっても、
その感覚がこの先永遠に長続きすることは稀である。

 

もう少し、紐解きすると、
孤独に変容した寂しさは、
「さびしいからちゃんと私を見て。」
「さびしいからかまって。」と、

 

それは、幼い頃に親に求めた感情であって、
その残留思念や欲しかった欲求は満たされることなく、
身体だけが大きくなってしまった人がほとんどである。

 

そして、この胸の内の空虚感や寂しさを満たしてくれる相手を
無意識に探し続ける旅が始まる。

 

とにかく寂しくて満たしてくれそうな人であったり、
包み込んでくれそうな人であったり、
かまってくれそうな人を見つけては身を委ね、
子供のように甘え、時には子供のように泣き、
寂しさを満たしてくれる人を探し続けてしまうのですが、
案外、そうしていることを自分でも気づいていない人が多い。

 

仮にいま、幸せな家族を手にしていたとしても、
外にも新たに満たしてくれる異性を求めるなど、
「今」に心の底から幸福感を感じることなく、

 

もしも、その愛に溺れた時に、
相手も同じ寂しさを抱えた人であれば共依存を起こし、
苦しみながらも離れられない関係となったり、

 

この人と決めた人が離れようとしたら、
離れないように尽くしたり、
時には相手を責めたり喚いたりと、

 

愛情欲しさに、愛に溺れ、
溺れてしまった自身は、
次第に理性を失っていくか、
もしくは盲目となり、
自分を見失っていくことになる。

 

例えば、出逢い始めのころは、
心ない言葉を言われたり、
冷たさを感じたりしても、
そこから離れる準備はしない。

 

かつては親からの優しさを待ち望んできたように、
相手からの優しさを待ち続けるようになると言ったらいいのかな?

 

親に求めた愛情に親が応えてくれたら嬉しかったように、
愛したい相手に愛情を求め応えてくれたら嬉しくて、
見返りの愛や条件付きの愛が基となっていることにも気づけなくなってしまう。

 

傷つきながらも理不尽な扱いを受け入れ、
傍に居る選択をし、体で繋がりながら、
時々ささやかれる甘い言葉を待ち、
一瞬、満たされた感覚を永遠のものにしたい気持ちと同時に、

 

この相手は本当に私の事を愛し続けてくれるのか?
無意識に確かめたり、探ったり、見張ったり、
寂しさを全面に出し「あーだ、こうだ」と言っては、
繋ぎ止めようとしていく。

 

こうした条件付きの愛には、
例外なく、自己卑下や自己否定する側に、
被害者意識が心のどこかに存在するが、

この、寂しさの精神性の中にある被害者意識については、
また、後に書くとして、

 

そんな中には安心はないはずなのに、
なぜ、そんなことを延々と繰り返すのか?

 

ここで、多くの人が見落としていることがあって、
寂しさを抱えている人は、
悲しみも同時に抱えているということ。
そして、この悲しみは不満である時に起こります。

 

今の自分自身の環境や状況を憐れみ、
満たされなかったり、不満足の時や
嘆きたくなる時に、この憐みが悲しみを生み、
この悲しみが、寂しくなったり孤独を感じたりさせます。

 

いつも寂しくて孤独で、
なぜか時々虚しくてそして悲しくて、
どこからくるのか分からないのなら、
その今の憐れみや不満足に気づかなければなりません。

 

否定もせず、排除もせず、深く掘り起こしていくと、
必ずと言っていいほど過去の寂しさに辿りつくはずです。

 

寂しさを理解するには、
まず、誰かや何かと比較もせず、
ただただ、「いま、何が足りなくて不満である」、
と気づくとこからで、ただただそれを見つめてみてください。

 

見つめ、深く考えていくうちに、
何が不満で悲しいのか?あるいはなぜ寂しいのか?
何を失いそうで悲しいのか?または寂しいのか?
きっと、見えてくるはずです。

 

その後に、過去に似たような寂しさや悲しみの経験があるはずだから、それを見つめなおし、癒していくんですよ。

 

そうしたら、うまくいかなくなっていた今が、
少しづつ変わり始めていくと思う。

 

それは、意識が変わり、意思が芽生え、強い意志で、
自分で自分を愛することをはじめようとするからです。

 

そして、何ごとにも順序があって、
心の傷を癒すのと、心を満たすのは全く別の事で、
心を満たしていくのは、この心の傷を癒した後です。

 

寂しさを抱えている人は、
自分が求めている愛情を返してくれなかった時には、
あなたは酷い人と相手を責めたくり、

人によってはこの世の終わりのような気にもなる時もあるでしょう。
でも、それって寂しくなるからでしょ?

 

でも、愛が終わり孤独を感じたとしても、
離れていった相手にだけ目を向け、
自身の元々持っている寂しさに目を向けなければ、
これまでも苦しかったように、ずっと苦しいよ。

 

幼い頃の寂しさに目を向けなければ、
その残留思念は延々と残り続けてきた為、
いつも似たような恋愛を繰り返し、
何かに依存して満たしていこうとしていく事にもなりかねないの。

 

人の胸の中にぽっかりと穴の開いた空虚感を、
人で満たそうとする人もいるだろうし、
セックスで満たそうとする人もいるだろうし、
あるいは、お酒や薬物で満たそうとする人もいるだろうし、
万引きして満たそうとする人もいる。

もしかしたら、過去の怒りを他人にぶつけ満たそうとする人もいるかもね。

 

人は、こうして何かで足りないものを満たしバランスをとろうとするもの。

 

満たされなかった思いは、
延々と残り続けてるものだから、
「いつの間にか私は心が満たされていた。私は今とっても幸せ」
なんて、あり得ないと言っても過言ではないほど。

 

寂しくて寂しくて仕方がなくて、
その寂しさを自分で抱えきれなくて、
「助けて」と言わんばかりに誰かに委ねれば、

その委ねられた相手もまた、
心がある故にその子をほっとけず、
共に苦しんでいるケースを私はたくさん見てきました。

 

彼らを見てきた中で、
寂しさに目を向けることなく、
いつの間にか満たされているとなっているなら、

 

過去の寂しさも癒されるほど、何があっても無償の愛で包み込んでくれている人が傍に居るか?

幼い頃の寂しかった記憶を消しなかったことにしているか?

諦めたか?開き直ったか?感情を麻痺させてしまったのか?

いずれのどれかであると思う。

 

今、あなたが心の底から幸せだと、
心の底から胸を張って言えるのであればそれはそれでいい。
心の底から今だけに目を向ける事に決めたのならそれもそれでいい。

 

しかし、あなた方にお子さんがいて、
親の在り方によって子供は心残りの寂しさを持ってたとしたら、
その残留思念は延々と残り続けることを覚えていて。

 

そして、もしもその可能性もあるかもと心当たりがあったら、
い~っぱい抱きしめてあげて、子供の目線に自らの目線を合わせ、
そしてい~っぱいその子を温もりで包み込んで欲しい。

 

あなたは強いかもしれないけれども、、、
あなたの子どもも強いかもしれないけれども、、、
何度も何度も抱きしめてあげてほしい。

 

親に抱きしめられ、親の愛を感じる無条件の愛は、
子供にとってはかけがえのないものだと思うし、
心が熱く満たされるものだと思うから。

 

だって、子育てって無条件の愛でしょ!テヘ♡

 

ではでは。