対談 現代宗教と排除・差別
*一部抜粋した。
臼杵 おそらく非ヨーロッパの世界は全てそうだと思いますが、彼らに
とって近代というのはイコールヨーロッパとなるので、それに対する一
種の対抗関係のなかで自らの価値を立ち上げていくときに、必然的に出
てくる議論ですよね。だからこれは、いわゆる「ファンダメンタリスト」
と言われているような人たちが、実はオリエンタリストと共犯関係にあ
るのと同じ議論だと思います。
たとえば「ファンダメンタリスト」たちが、7 世紀のムハンマドの時
代をそのまま再現するといったときに、『クルアーン(コーラン)』や『ハ
ディース』に依拠するだけでは絶対できないわけですよね。それよりも、
考古学的、あるいは色々な文献学的情報を全部重ね合わせながら、それ
を元にして預言者の時代を再現せざるをえない。つまり、ヨーロッパの
研究者であるオリエンタリストたちが築き上げてきた学問的蓄積を、情
報として取り入れるなかでファンダメンタリストたちも無意識に受け入
れているのです。そこにオリエンタリストと「ファンダメンタリスト」
との共犯関係ができてしまっている。だから人権を否定しながら、実は
人権という枠組みは受け入れてしまっているという、分離できない問題
もあります。これは遅れてきた近代の問題として、イスラム世界だけで
はなく他のアジア、日本でも同じ状況だと思いますね。
近藤 私はインドの、そういったヒンドゥーのいわゆる原理主義者の研
究をやっていますが、彼らは英語で「ヒューマン・ライト」という言葉
を比較的抵抗なく使いますね。自分たちはヒューマニタリアン、ヒュー
マニストであり、ヒンドゥー教こそヒューマン・ライトを大事にするん
だという言い方をします。そういう意味では、やはりイスラムははっき
りと、西洋的なものに対しての差別化というのを前に出さないといけな
いのかな、という印象はありますね。
臼杵 おそらくインドの場合は、英語の言語を通して表現しているとこ
ろに問題があると思います。アラビア語の場合は基本的に翻訳語を使わ
ないので。もちろん、ヒューマン・ライツという言い方はありますよ。
「フクーク・インサーニーア」という言い方をするんですけども、まさ
に直訳ですよね。直訳なんだけども、それに対してやはり今ひとつピン
と来ないところがある。
三浦 フェミニストたちが英語を使うということは、イスラム法の読み
直しも英語でやっているということですか。
臼杵 いや、もともとはアラビア語を原点としながら、議論をするとき
には英語になりますね。
三浦 そうするとやはり、ヒューマン・ライツという概念がなかった言
葉を話す人たちが、それが言葉としてある人と対話するときに、英語の
方に引っ張られていくでしょうね。
臼杵 もちろんそういうことはあるかと思いますけど、啓蒙主義的な意
味でのヒューマン・ライツというと人間の方が優先されてしまいます
が、イスラム・フェミニストたちの場合は絶対にそこまではいかず、非
常に相対的に使っていきますね。
しかし、いわゆる 18 世紀の啓蒙思想を経た現代ですから、そことの
関係をどうしていくかという議論は当然出てくるわけで、天賦人権論と
同じように、その権利をアッラーから委譲されているという理屈はつけ
られるわけですね。ですから人間が主体にならず、語るときにはあくま
で人間を客体として語っていくんだけども、論理構造は同じであって、
実態としてはかなり似てきているということは言えるかと思います。
三浦 権利を与えた主体が神だとすると、人間間の関係は水平的なもの
になりうるんですね。
臼杵 そうですね。基本的にイスラムにおける縦と横の関係は、ユダヤ
教も同じですけども、いわゆる宗教法的にはきちんと区別されてありま
すので、議論としては必ず出てくる話です。
近藤 臼杵先生がご覧になっている範囲で、イスラム・フェミニズムの
広がりとか力強さとかはどうでしょう。ものすごくマイナーなもので終
わりそうなのか、もうちょっと広がりそうなのかという。
臼杵 どうなんでしょう。私はイラン専門ではないので実態はわかりま
せんが、ただ、イラン革命以降、宗教警察のような国家権力が宗教法を
上から押し付けるということが問題になっています。イスラムは基本的
には社会規範として機能しているので、元々の国家はどちらかというと、
非常に脆弱だったというか、あまり規範とは関係がなかった。もちろん
統治論はありますが、基本的には社会、つまり家族法を重視してきた。
したがって、国家権力の問題はイスラムが近代以降直面したものです。
たとえば今のイランやかつてのスーダンが、上から「こうあるべきで
ある」としてチャドルをつけるよう強制すると、これはフェミニズム的
な方向とはまったく異なっている。しかしながら、そのなかでも、イラ
ン革命以降、皆がチャドルを被ってデモに出るということが起こる。つ
まり女性の社会参加、政治参加というのが、チャドルを被ることによっ
て可能になるのです。あるいはチャドルを被ることによって、つまり男
女を隔離することによってバスの中に入れる。すなわち、女性は見られ
る客体ではなく行動する主体となり、属性で判断されるのではなく、同
じ「人間」として扱われることが可能になるのです。これはその意味で
革命的だったとよく言われているので、その効果もやはり評価すべきこ
となのかな。自分がチャドルを被ることによって空間的に分離され、主
体性が担保されるという理屈ですね。これがいいとか悪いとかいう問題
ではなく、それで政治参加が可能になっていくということがあるわけで
すね。もちろん、内と外の使い分けもあって、飛行機ではテヘランを出
たら皆パッとチャドルを脱いじゃうとか(笑)、あるいは、外側は真っ
黒だけど、内側は華美な、いろんなデザインや色を使っているとかもあ
りますけど。
近藤 そうすると、国家の動きがどのようにイスラム圏のなかで機能し
ていくかというのもまだ安定していないので、予断を許さない状況です
ね。
もう一つ思ったのは、その人権思想とすごく参照関係にあるけれど
も、あまり急ごしらえで変に連帯をつくることはせず、イスラムはイス
ラムの中でそういったものをしっかり育てるという、そのようなステッ
プがまず必要なのかもしれないですね。
臼杵 そうですね。まだやっぱり、ユーロ・セントリズムとの関係で、
たとえば解放を訴える欧米の黒人女性がアラブの女性、つまりイスラム
教徒の女性に対して自らの規範に基づいて「あなたがた女性はこうある
べきだ」と言ったら皆反発しますね。そのような欧米中心的な構図もま
だありますから、そこをどうしていけばいいのかというのは今後の課題
として残っていますね。
http://www.iisr.jp/journal/journal2018/P007-P045.pdf

言葉以外になにが?と考えた。
水の味とか食い物とか気候とか住処とかそういう生活様式みたいなもの。
日本ってどうなんだろう?
国際宗教研究所HPより
http://www.iisr.jp/journal/journal2018/
*一部抜粋した。
臼杵 おそらく非ヨーロッパの世界は全てそうだと思いますが、彼らに
とって近代というのはイコールヨーロッパとなるので、それに対する一
種の対抗関係のなかで自らの価値を立ち上げていくときに、必然的に出
てくる議論ですよね。だからこれは、いわゆる「ファンダメンタリスト」
と言われているような人たちが、実はオリエンタリストと共犯関係にあ
るのと同じ議論だと思います。
たとえば「ファンダメンタリスト」たちが、7 世紀のムハンマドの時
代をそのまま再現するといったときに、『クルアーン(コーラン)』や『ハ
ディース』に依拠するだけでは絶対できないわけですよね。それよりも、
考古学的、あるいは色々な文献学的情報を全部重ね合わせながら、それ
を元にして預言者の時代を再現せざるをえない。つまり、ヨーロッパの
研究者であるオリエンタリストたちが築き上げてきた学問的蓄積を、情
報として取り入れるなかでファンダメンタリストたちも無意識に受け入
れているのです。そこにオリエンタリストと「ファンダメンタリスト」
との共犯関係ができてしまっている。だから人権を否定しながら、実は
人権という枠組みは受け入れてしまっているという、分離できない問題
もあります。これは遅れてきた近代の問題として、イスラム世界だけで
はなく他のアジア、日本でも同じ状況だと思いますね。
近藤 私はインドの、そういったヒンドゥーのいわゆる原理主義者の研
究をやっていますが、彼らは英語で「ヒューマン・ライト」という言葉
を比較的抵抗なく使いますね。自分たちはヒューマニタリアン、ヒュー
マニストであり、ヒンドゥー教こそヒューマン・ライトを大事にするん
だという言い方をします。そういう意味では、やはりイスラムははっき
りと、西洋的なものに対しての差別化というのを前に出さないといけな
いのかな、という印象はありますね。
臼杵 おそらくインドの場合は、英語の言語を通して表現しているとこ
ろに問題があると思います。アラビア語の場合は基本的に翻訳語を使わ
ないので。もちろん、ヒューマン・ライツという言い方はありますよ。
「フクーク・インサーニーア」という言い方をするんですけども、まさ
に直訳ですよね。直訳なんだけども、それに対してやはり今ひとつピン
と来ないところがある。
三浦 フェミニストたちが英語を使うということは、イスラム法の読み
直しも英語でやっているということですか。
臼杵 いや、もともとはアラビア語を原点としながら、議論をするとき
には英語になりますね。
三浦 そうするとやはり、ヒューマン・ライツという概念がなかった言
葉を話す人たちが、それが言葉としてある人と対話するときに、英語の
方に引っ張られていくでしょうね。
臼杵 もちろんそういうことはあるかと思いますけど、啓蒙主義的な意
味でのヒューマン・ライツというと人間の方が優先されてしまいます
が、イスラム・フェミニストたちの場合は絶対にそこまではいかず、非
常に相対的に使っていきますね。
しかし、いわゆる 18 世紀の啓蒙思想を経た現代ですから、そことの
関係をどうしていくかという議論は当然出てくるわけで、天賦人権論と
同じように、その権利をアッラーから委譲されているという理屈はつけ
られるわけですね。ですから人間が主体にならず、語るときにはあくま
で人間を客体として語っていくんだけども、論理構造は同じであって、
実態としてはかなり似てきているということは言えるかと思います。
三浦 権利を与えた主体が神だとすると、人間間の関係は水平的なもの
になりうるんですね。
臼杵 そうですね。基本的にイスラムにおける縦と横の関係は、ユダヤ
教も同じですけども、いわゆる宗教法的にはきちんと区別されてありま
すので、議論としては必ず出てくる話です。
近藤 臼杵先生がご覧になっている範囲で、イスラム・フェミニズムの
広がりとか力強さとかはどうでしょう。ものすごくマイナーなもので終
わりそうなのか、もうちょっと広がりそうなのかという。
臼杵 どうなんでしょう。私はイラン専門ではないので実態はわかりま
せんが、ただ、イラン革命以降、宗教警察のような国家権力が宗教法を
上から押し付けるということが問題になっています。イスラムは基本的
には社会規範として機能しているので、元々の国家はどちらかというと、
非常に脆弱だったというか、あまり規範とは関係がなかった。もちろん
統治論はありますが、基本的には社会、つまり家族法を重視してきた。
したがって、国家権力の問題はイスラムが近代以降直面したものです。
たとえば今のイランやかつてのスーダンが、上から「こうあるべきで
ある」としてチャドルをつけるよう強制すると、これはフェミニズム的
な方向とはまったく異なっている。しかしながら、そのなかでも、イラ
ン革命以降、皆がチャドルを被ってデモに出るということが起こる。つ
まり女性の社会参加、政治参加というのが、チャドルを被ることによっ
て可能になるのです。あるいはチャドルを被ることによって、つまり男
女を隔離することによってバスの中に入れる。すなわち、女性は見られ
る客体ではなく行動する主体となり、属性で判断されるのではなく、同
じ「人間」として扱われることが可能になるのです。これはその意味で
革命的だったとよく言われているので、その効果もやはり評価すべきこ
となのかな。自分がチャドルを被ることによって空間的に分離され、主
体性が担保されるという理屈ですね。これがいいとか悪いとかいう問題
ではなく、それで政治参加が可能になっていくということがあるわけで
すね。もちろん、内と外の使い分けもあって、飛行機ではテヘランを出
たら皆パッとチャドルを脱いじゃうとか(笑)、あるいは、外側は真っ
黒だけど、内側は華美な、いろんなデザインや色を使っているとかもあ
りますけど。
近藤 そうすると、国家の動きがどのようにイスラム圏のなかで機能し
ていくかというのもまだ安定していないので、予断を許さない状況です
ね。
もう一つ思ったのは、その人権思想とすごく参照関係にあるけれど
も、あまり急ごしらえで変に連帯をつくることはせず、イスラムはイス
ラムの中でそういったものをしっかり育てるという、そのようなステッ
プがまず必要なのかもしれないですね。
臼杵 そうですね。まだやっぱり、ユーロ・セントリズムとの関係で、
たとえば解放を訴える欧米の黒人女性がアラブの女性、つまりイスラム
教徒の女性に対して自らの規範に基づいて「あなたがた女性はこうある
べきだ」と言ったら皆反発しますね。そのような欧米中心的な構図もま
だありますから、そこをどうしていけばいいのかというのは今後の課題
として残っていますね。
http://www.iisr.jp/journal/journal2018/P007-P045.pdf

言葉以外になにが?と考えた。
水の味とか食い物とか気候とか住処とかそういう生活様式みたいなもの。
日本ってどうなんだろう?
国際宗教研究所HPより
http://www.iisr.jp/journal/journal2018/