JANICとしての震災対応事業は今年3月で既に終了しましたが、震災から3年半が経った東北の現状を直接見ることと、お世話になった東北の方々へのお礼、そしてあと半年と迫った国連防災世界会議に向けた関係者との意見交換のため、大橋理事長と二人で、9月2日から東北3県を駆け足で回ってきました。

初日は新幹線の北上でレンタカーを借りて、遠野、大槌、釜石、気仙沼と回る中で、遠野まごころネットぐるっとおおつち@リアスNPOサポートセンターJVC気仙沼を訪問しました。
2日目は、気仙沼から石巻に下って仙台まで行き、その間に生活支援プロジェクトKピースボート石巻みらいサポート石巻せんだい・みやぎNPOセンターを訪問し、夕方奥山仙台市長を表敬訪問しました。
3日目は、名取、南相馬、福島と移動する途中で、地球のステージつながっぺ南相馬ふくしま地球市民発伝所(福伝)福島大学うつくしまふくしま未来支援センター(FURE)を訪問しました。
そして最終日は、福島市内でビーンズふくしまふくしま30年プロジェクトを訪問した後、東京への帰路に着きました。


(大槌町の震災被災地の現状。復興が進んでいない)


(震災1ヶ月後の大槌町。2011年4月7日)

訪問先には、地元で以前から活動していたNPOから震災きっかけに設立されたNPO、JVCのように震災の際に駆け付けて今でも支援を続けているNGOまで様々です。
残念ながらこの紙面では一つひとつの訪問先で伺ったことをご紹介できませんが、現状と課題を知り、将来に向けての展望を聞く中で、どの団体の会った人々も、一様に口にするのは復興の遅れと先が見えない苛立ちでした。地元のNPOの方々は、多くの場合ご本人も被災者で、仮設住宅や見なし仮設に住みながらNPO活動を続けています。津波で家が流されて高台移転をせざるをえない岩手・宮城の人たちと、放射能の影響で帰宅困難となっている福島の人たちとは多少立場が違いますが、それでも住み慣れた地域から離れて暮らさざるをえず、しかも震災から3年半も経つのに定住するのがいつになるかわからないという苛立ちが募っていました。多くの地域では、仮設から災害公営住宅に移った人は、10%程度とのことでした。

大槌や釜石、気仙沼、石巻と海岸沿いを下ってくると、多数のダンプトラックが土を運んでいる場面に出くわしますが、土地のかさ上げは遅々として進んでおらず、いつになったら工場や住居が戻れるのか分かりません。こんな状況の中、復興の担い手となるべき若者たちの多くは、仙台や盛岡をはじめとした都会に出ていってしまいました。東北の少子高齢化が益々進んでしまいます。

もう一つ、東北の人たちがやりきれなく思っていることは、3年半が経って外部からの支援が先細り、また震災の記憶そのものが薄れてしまうことです。
今回の訪問先には、石巻市の「つなぐ館」や名取市の「閖上(ゆりあげ)の記憶」のように、震災の記録を展示したり、語り部やガイドが震災について語ったり震災遺構を案内したりするNPOによって運営されている施設もありました。亡くなった犠牲者のことを忘れず、震災の記憶と教訓を未来に伝える取り組みが行われています。閖上の記憶では、ちょうど山形から大型バスで小学生たちが学習に来ており、慰霊碑の前で手を合わせたり、語り部の話を聞いていました。


(閖上の記憶の高松事務局長が、子ども達が作った作ったジオラマを説明)

前述のとおり、JANICとしては東北の被災地を支援する活動は終了しましたが、JANIC福島事務所の元スタッフが立ち上げた新NPO「ふくしま地球市民発伝所(福伝)」が行う福島県内のNPOや住民組織と外部団体をつなげる活動や世界に福島の現状を英語で発信する活動を応援します。
また、来年3月の第3回国連防災世界会議に東日本大震災の教訓を伝えるために、今回訪問した方々と連携して、JANICが共同事務局を務める2015防災世界会議日本CSOネットワーク(JCC2015)を拠点に提言活動を行っていきます。

(福伝の事務所。左から藤岡氏、竹内氏。右端はJANICの大橋理事長)