
1934年(昭和9)の3月21日は、
2万戸以上が焼失した「函館大火」の発生日。
その歴史を訪ねる街歩きに参加しました。
集合場所は市電2番の終点「谷地頭」電停近く。
この函館山の南東の端から火災が発生したのです。

出火元近くへ移動。
案内人は「函館ぶら探訪」の中尾さん。
市長の大泉さんもかけつけました。

立待岬にほど近いこの路地あたりは、
当時すり鉢状地形で「穴町」とも呼ばれ、
風がぐるぐる舞う状態。
夕方7時前に1軒の民家から出火した火は、
強風にあおられて瞬く間に燃え広がります。

当時の消火栓はマンホール式で地下から取水。
強風が吹き荒れる暗闇の中、消火活動は難航。
後に設置された地上式の黄色い消火栓は
大火からの復興のモニュメントといえます。

延焼を食い止める第一の防御線が設定された
谷地頭交差点でしたが、すぐに破られることに。
ここから函館山に逃げて助かった人もいたとか。
当時、軍の要塞だった函館山は立入禁止でしたが、
特例でゲートが開かれ、山の上からは
街に火柱が上がり、火が走るのが見えたそうです。

青柳小学校は、この函館大火の後に建てられた
「復興五校」のうち、唯一現存する貴重な存在。
鉄筋コンクリート製の3階建て・コの字型校舎は、
風よけ・火除けの避難場所になり、
大火の2年後には天皇が視察に訪れています。

明治末期から大正時代に建てられた入村質店
(現・茶房ひし伊など)は、
大火をくぐりぬけて現存する貴重な存在。
右から鉄筋コンクリート造、土蔵、石蔵ですが、
戸や窓の隙間に粘土を詰めて、
火が入るのを防いだそうです。

一方、鉄筋コンクリート造の丸井今井百貨店
(現・地域交流まちづくりセンター)は、
外観は無事でしたが、
隙間から火が入って内部の売場は全焼。
後に大改修が行われ、建物は活用されています。

明治期の大火で道幅が広げられ、
防火線の役割を果たした二十間坂。
風向きが変わったこともあり、
ここから右のエリアは延焼を免れました。

銀座通りも大正時代の大火のあと、
コンクリート造の燃えない街作りが進みましたが、
昭和の大火では内部が焼けたところが大半とか。
呉服屋・薬屋だったこの建物
(後のホテル中央荘、ジャックス)は、
隙間にみそを塗り込め、鉄扉なども備えて、
数少ない消失を免れた建物です。

現在、街を縦横無尽に覆う幅広いグリーンベルト。
大火の教訓を受けて、
火事に強い市街地を形成しています。

函館山のふもとから火に追われて、
大八車や風呂敷包みで逃げてきた人たちが
多数命を落とした大森浜。

木製の大森橋などは焼け落ち、
冷たい海や川に投げ出されました。
今日も風が強くて震えるほどの寒さで、
火にあおられた夜はどんなに恐ろしかったか
想像することもできません。

この橋の近くに建てられた大火慰霊堂。
犠牲になったかたに哀悼の意を捧げるとともに、
慰霊と復興に力を注いだ人たちのご苦労に
思いをはせます。
この昭和9年大火以降、大規模火災はありません。
先人たちの尽力のたまものです。
★note「函館のこと、美味しいもののこと」 新聞に掲載されたコラムなどを収録
★Instagram「函館おうちごはん」 地元素材の料理いろいろをご紹介
★note「十人十色の飯寿司ストーリー」飯寿司を愛する人の取材記事を掲載
★Instagram「飯寿司パラダイス」飯寿司の楽しみ方のフォトギャラリー

★にほんブログ村 函館情報ランキングに参加中。皆様の応援、励みになります!

