今朝は7時半起きでも間に合うはずなのに、4時半に起床。最早朝なのか?
普段の私だったら二度寝であるがのそのそと動き出し着替え朝食をとる。
そんな時、キム・ミニを何故か私は思い出した。『夜の浜辺でひとり』の1→2への転換点となる浜辺でのワンシーン、ワンカットが素晴らしかったのを。
6月にホン・サンス4本特集上映をやったばかりだったからDVDすらないのだが中国版の動画サイトで見つけたためこういう空き時間に見ている。
ホン・サンス論文が、論文私的ベストに入るためこの機会に。



『夜の浜辺でひとり』におけるホン・サンスのおかしさ         



キム・ミニの白い手、白い足、透き通るような肌をくまなく撮るホン・サンスは完全に自分嗜好に仕立て上げている。『夜の浜辺で一人』の彼女は化粧っ気のない、なんて素朴な感じなのに、色気だけは際立っているし、『クレアのカメラ』でカメラのシャッター音でキム・ミニを振り向かせられるのはホン・サンスだけだ。素朴なのに無視できない存在感にただただ圧倒されるばか。彼女の魅力がより引き出されているのは、ホン・サンスの演出のおかしさ”が効いているのだと思う。

『夜の浜辺で一人』はなんて変な映画だろう。キム・ミニ演じるヨンヒは女優であったが、映画監督と不倫したことで周囲から非難され、一人外国へ放浪する。しかし、放浪している理由が不倫だとは後に明らかにされる。最初のショットはキム・ミニの後ろ姿であることからキム・ミニの素顔を軽々しく見せないし、後ろから見た長い黒髪、色白な素肌は観客の興味を煽っている。つまり俗にいう振り向き美人最初のショットでそのままキム・ミニにらせたことで彼女の存在は圧倒的に大きくなる。しかしその存在感とキム・ミニの魅力を引き出すショットに続いて、おかしな演出がある。公園を歩くキム・ミニに近寄り、時間を聞く謎の男 誰にも見えない男が窓ガラスをひたすらに磨いているといった“謎の男”が時々キム・ミニに取り憑く意図的であることは明確だが、この謎の男の登場によって、ヨンヒが生きる日常と他の人間が生きている日常は違うということがいえる。つまり、意図的な謎の男はヨンヒが今まさに生きている世の中の生きらさを、この男によって表現しているのではないだろうか。過去に女優であったヨンヒは映画監督と不倫したことで世間から非難され、不倫相手からも相手にされなくなり、逃げるように外国を放浪するその生きづらさを。生きづらさとは決して“目に見えるもの”ではないからだ。だからこの見えない“謎の男”が、誰も気づいてくれないヨンヒの訴え生きづらさの中生きていこうとしている“覚悟”をホン・サンスの意図的な演出存在させているのではないだろうか。観客に違和感を与えるためにこの謎の男を登場させたというのもあるだろうが、一概に観客の驚きだけを狙ったとは言い難い。

祖国をいったん離れたものの、帰国したヨンヒはかつての友人、先輩、女優時代に関わったスタッフや監督たちと再会する。それが「2」パートである。外国を放浪しているヨンヒを映しているのは「1」パート。過去のことを引きずりながら生きづらそうに生きるヨンヒ、過去を引きずりながらも今を自分らしく生きたいヨンヒの二つの心情の変化を「2」パートで描いている。「1」から「2」へと移り変わる転換点は、謎の男にヨンヒが浜辺で担がれ、どこか連れていかれてしまうワンシーン・ワンカットこのまたおかしな演出はヨンヒの行き場のない生きづらさの気持ちをどこかに運んでいるのだと思う。「2」へと移り変わる祖国に再び。

かつての知人たちと再会したことによってヨンヒの生きづらさの気持ちはにかき乱される。周囲からヨンヒへの「君は美人だ」「ヨンヒは本当に可愛い」という声に一瞬気をよくするも、恋愛の話を始めるとどこか表情は曇り始める。ここはキム・ミニの素朴で色白な少女の顔から、女の顔へと変わる見事な演技だ。キム・ミニの一人演技合戦といってもいいし、その場の宴会のような和やかな雰囲気をキム・ミニの一言一言によって変えてしまう。先輩や同級生と長らく会っていなかったヨンヒにとってその場の宴会ムードは楽しいものの、恋愛の話になると「どんな形であれ何故人を好きになって愛される資格はないのか」という辛くも現実的な自分の体験談を踏まえて周囲に話す。ここで彼女とテーブルを囲んでいる同級生たちと口論が続くものの、カットバックの手法が使われることはない。しかしここでもしヨンヒと、彼女と口論する同級生たちをカットバックによって撮影していたら、キム・ミニのその場の雰囲気を一変する演技というのは見逃していたかもしれない。テーブルを囲んで愛についての口論を交わすワンシーン・ワンカットによって、延々と続くようなキム・ミニの演技を見逃すことはないし、緊張感も保ち続けられる。つまり、和やかに食事を楽しんでいた雰囲気から、ヨンヒが一言一言愛について口を開き始めまでの時間、ワンシーン・ワンカットで撮影することで、時間の“ズレ”が生じることはないからだ。延々と続くように観ている者は感じるだろう。これもまた一つ、ホン・サンスのうまいところであるし、キム・ミニの存在感が露わになる重要なシーンだといえる

一方で『クレアのカメラ』は完全に時間軸が崩壊している。キム・ミニ扮する今度は“マニ”という女性が勤めていた会社を上司からクビにされる。再びあてもない放浪をすることになるのだが、ここで大女優イザベル・ユペール扮する“クレア”と出会うまでの経緯予感と予兆なんて劇中で見せないのに、話が進んでいくにつれ「実はあの時同じ場所にいた」という偶然で発覚することになるのだ。完全に時間軸の“ズレ”をホン・サンスは狙っているのは明らかだし、『夜の浜辺でひとり』と全く違う時間についての映画の構成に驚く。そこに皮肉が効いているとも思う。ホン・サンスのおかしさというのは、こういった二つの作品の比較からも伺えるのである。