昨日は授業にて増村保造監督の『赤い天使』(1966)を観た。
今年は長期休みに増村保造、川島雄三、吉田喜重祭りだったので4ヶ月ぶりに見返した。
若尾文子扮する、西桜(にしさくら)は従軍看護婦として前線で血みどろになりながら兵士の看護をしている。
なんといっても冒頭から、負傷兵の足や腕をザクザクギコギコといった生々しい音で切り刻む岡崎少尉がまるで悪魔に見えて仕方がない。腕のいい外科医とは言い難い、躊躇しない、実に淡々とした手術シーンに感情など一切見せない。負傷兵は局部麻酔(これも充分に効いているかわからない)のみで手術を受ける様子はなんとも痛々しい。しかしこれが現実であるのと受け止めるとともに、痛さで暴れる負傷兵を必死に抑える若尾文子の懸命さに胸が打たれる。
しかし話は一転する。
看護婦として前線近くの病院に勤務をしていたが、レイプ被害を受けてしまう。婦長にありのままの事実を伝えたことによってその兵士は再び、前線に送り戻される。
ここではまだ、西が醸し出すエロティシズムというのは感じない。欲が満たされず、生きるか死ぬかの狭間で生きている男たちの単なる欲望の対象でしか扱われていないからだ。ここでは単なる性の対象を死の対象と呼ぶ。
一方で、死の対象に対して、生の対象はある男が西に抱いた感情と所作であった。
それが西に対して働きかけたため、西桜=若尾文子本来の魅惑なるエロティシズム垣間見えた。
というと、軍事病院で仕事を共にした岡崎軍医と男女関係に陥る。そのことによって、ようやく、若尾文子の背中、肌、胸(当時は乳房までは映せないため影のみ)
うなじが露わになる。蚊帳の中でうっすら見えるその肉体は、より、妖艶さを増す。
彼らの一つ屋根の外では地獄、しかし中ではなんともいけない行為の数々。地獄と色情の狭間で起こるその中和が更にエロティシズムに拍車をかける。
ダルトン・トランボの『ジョニーは戦場へ行った』の如く、手足を失った芋虫状態である負傷兵が、西桜の献身な介護とその素肌の色気に気づき、自身の男としての象徴を再び返らせるために彼女に男にしてくれ…と懇願する負傷兵がいた。
西桜は一瞬迷いを見せるが、彼女は堂々とその太もも、唇、胸、乳房を彼に触れさせる。そして彼の象徴に白い手が触れる。
妙な緊張感を持たせる、直接的なエロさはないが為に、間接的にセックスをしているかのように思えてくる。
本作での若尾文子のエロティシズムの最大は彼女の露わになる肉体でも、間接的にセックスをしている行為でもない。
戦争で血と汗を流しながら戦った男たちから生み出された、なかば強制的な男の理想像の最大にいった気持ち悪さからくる、エロティシズムなのかもしれない。