空き時間を使って少しずつブレッソンについて先行研究を進める中、『スリ(掏摸)』を部分的に見返すと、改めてブレッソンと小津安二郎が比較されるのも納得できる。
忘れないうちに、メモ程度として。
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読了はしていないが、パラパラと気になる部分だけ斜め読みした本がある。
ポール・シュレイダー著
「聖なる映画―小津/ブレッソン/ドライヤー」 (1981年 フィルムアート社)
まさに、小津とブレッソンの相似性について脚本家であるポール・シュレイダーが語っている。正直、読んでいてドライヤーについては「?」と思ったりする(笑)
それに、ゼミの教授が「小津が聖なる映画なのかわからないがね、このタイトル面白いよね笑」と笑っていた。
小津はやはり、大事なシーンまるごと…もう言ってしまえば大事なシークエンス、転換点ごと意図的に省略しているし、対してブレッソンも『スリ(掏摸)』は、愛する女性と離れ、一人都会に行くことになったスリをすることを稼ぎにしている男。男はスーツケースを一つ持ち、男の新たな転換点となる都会へと旅立つシーンで終わる…と思いきや、突如恋人のもとに一年後に帰ってくるシーンがその直後やってくる。やはり、小津と同様、話の転換点となるシーンが全く省略されているのだ。
更にスーザン・ソンタグは自身の「反解釈」(1996年 筑摩書房 )、“ブレッソンにおける精神のスタイル”でブレッソンの省略の意図について、二重化の効果と称してこう述べている。「この「余計な」ナレーションのもつ効果はシーンに幕間を置くことである。直接アクションに参加する観客の想像力にブレーキをかけるのだ。解説がシーンの前に来る場合もシーンが解説の前に来る場合も効果は同じである。すなわち、アクションをこのように二重に示すことは、通常の感情の流れをとどめ、強烈にする。この二重化の第一の型ー事柄を見る前に聞く場合ーは、物語にひとを引きずりこむ伝統的な様式のひとつ、すなわちサスペンスを、故意に侮蔑していることも注目すべきだ。」
とソンタグは述べている。
それ以外の観点から見てもたくさんあるが、今日はこれくらいにしておく。
バイト終わり、10分後のこと。あり得ない速さで電車の中で指を動かす私に酔っ払いは釘付け。人の声。電車の走る音。ブレッソンはこれも、“雑音”ではなく“音”にしてしまうのだろうか。