改めて感じること
ずっと生徒の中にいる何人かの生徒のレッスンをしていて思っていたことでもあるのですが、それは見えているものが、すべてではないということ。
以前に書いたブログのことは
生徒の課題というよりは私の課題なのですが
「できないところで、いつも同じように苦しんでいるように見える」
傍から見ると、そう映る瞬間があります。
けれど、その子の中で何が起きているのかは、本当のところ、本人にしか分かりません。
同じように涙を流していても、その理由は一人ひとり違います。
悔しさなのか、恐れなのか、疲れなのか、あるいは言葉にできない何かなのか。
外側からは、同じ「困っている姿」に見えても、内側で起きていることの深さや種類は、驚くほど違うものです。
私たちはつい、目に見える反応の大きさだけで、その子の悩みの重さを測ろうとしてしまいます。
けれど、悩みの深さは、他人が測れるものではありません。測れないからこそ、決めつけずに、まず本人の言葉を聞こうとすることが大切なのだと、改めて感じています。
「子どもたちに寄り添う」という言葉を、私自身、教室の理念としてよく口にします。
けれど、その言葉を書くたびに、少しだけ胸がざわつく瞬間があります。本当に寄り添えているのだろうか、と。
相手は子どもであっても、一人の人間です。
まだ言葉にする力が育っていないだけで、その内側には、大人と同じくらい複雑な感情や、その子だけの理由や、その子だけの歴史があります。
「子どもだから」という前提で軽く見てしまえば、こちらの物差しで測ってしまえば、本当の意味では、その子に会えていないのだと思います。
しかも、私が一人の生徒と会えるのは、週にたった一度、40分だけです。その短い時間の断片から、その子の一週間、その子の心の状態、その子がその日抱えてきたものすべてを、正確に読み取ることなど、本当はできません。今日見せてくれた表情や涙も、その子の一部でしかなく、全部ではない。
だからこそ、寄り添うというのは、分かった気にならないことなのだと思います。
分からないという前提に立って、それでも毎週その子の前に座り、その日その子が見せてくれるものを、丁寧に受け取ろうとすること。それしかできないのだと思います。
週に一度しか会えないからこそ、その一度を、こちらの都合や思い込みで埋めてしまわないこと。
そして、見えている涙や表情の向こうに、まだ見えていないものがあるかもしれないと、常に余白を残しておくこと。それが、私にとっての「寄り添う」の、今のところの答えです。
Juri's Piano Garden
じゅり

