2021年6月
細胞診→乳がん疑いで地元の大病院に紹介される。

2021年7月
大病院にて針生検→HER2陽性乳がんステージ2b と確定診断を受ける。
PETCT、心電図、心エコー、レントゲン検査をする。

2021年8月
遠隔転移がない事を確認し、術前化学療法開始!

【治療の流れ】

AC療法4クール
1クール目(8月18日〜)
2クール目(9月8日〜)
3クール目(9月29日〜)
4クール目(10月20日〜)

PET CT(11月1日)
AC療法がよく効いたので、次の治療にうつる。

ドセハーパー
1クール目(11月10日〜)
2クール目(12月1日〜)
3クール目(12月22日〜)
4クール目(1月12日〜)

PET CT(1月24日)
ドセハーパーもよく効いたので温存手術を選ぶ事ができた。

【しこりの状態】

抗がん剤8クールのおかげで、小さいしこりが2つ(繋がっているので本当は1つ)残るのみ。
リンパ節転移は、全部無くなった。

【手術(2月8日)】

温存手術とリンパ節郭清手術

【今後の予定】

放射線

カドサイラ(11月までの予定)

ホルモン剤服用(約10年)



今年も3.11がやってきました。


卒業式と重なっていましたが、11年前の3.11は忘れられない。


私の住むところは海沿いではないので、被害に遭われた方は、そういないと思います。


あの日は、天気が良く。


幼稚園が終わったあと、みんなで外遊びをしていました。


だいぶ遊んで、さあ、家に帰ってお昼寝しましょうと言って別れ。


車で、帰る時のこと。


運転しながら、ぐらっとして。


「やだ、めまい?」


と思った。


当時はアパートに住んでいて、家に着くと一階に住んでいる奥様が赤ちゃんを連れて駐車場に飛び出して来ていた。


「どうしたの?」


「車の運転大丈夫だったの?すごい地震だったんだよ」


そう話してる間にも、グラグラ揺れて。


家に入って、急いで火の元確認して。


もう、この時点で、電気は来ていないので外の状況が分からない。


津波が来ているのも、海沿いの地域が大変なのも、何も分からない。


テレビも付かず、ラジオも付かず。


冷え切った部屋で、グラグラ揺れながらお昼寝なんて出来るはずも無く。


「旦那が一旦家に帰ってきたから、私たち実家に避難するよ。実家なら電気のいらないストーブあるし」


一階の奥さんがそう言って、お財布と子どものオムツ一式を持って出かけて行った。


私も、旦那に書き置きして実家に向かった。


信号も止まってしまってて、あちこち大渋滞。


大きな国道も信号が止まってて、交通誘導もいない状況だけど、ここはさすが日本人。


譲り合いの精神で、事故が起きることなく渡れた。


窓を開けて、譲ってくれた知らない人に「ありがとう!」と言うと、「気をつけて!」の言葉が返ってきた。


実家に行くと、電池で動くタイプのストーブがついていて、とりあえず息子に暖をとらせた。


状況が全然分からないけど、とりあえず食べ物を…と思い近所のコンビニに行くと、真っ暗な中店員さんが電卓で計算していた。


とりあえず当面のカップ麺とお菓子を買った。


幸いにも水とガスは無事だったし、米も多めにあった。


夕方になって、書き置きを見た旦那が実家に来た。


ここにいれば、とりあえず暖かいし、食べものもあるし、という事で、緊急に和室をお借りして泊まることに。


夜は真っ暗で街の明かりが何一つ無く。


ただただ揺れていた。余震は何回来たんだろうか。


結局惨劇を知ったのは次の日。


携帯電話が復旧した日。


充電器が使えないからちょっとしか見られなかったけど、世の中が大変になったのを知った。


車でもようやく映像が見られるようになった。


これもガソリンの関係でエンジンはあまりかけられないのだけど。


たぶん、被災地の人はその頃からどういう状況か知ったと思う。


あれから11年。


今はコロナの感染災害。


2、3年後は南海トラフか。


災害の無い年に戻りたいね。