記事には、ゲームSerial experiments lainのネタバレを含みます。
















「Serial experiments lain」というゲームをご存知でしょうか?









1998年発売のプレイステーションソフト。精神カウンセリングを通じて岩倉 玲音(れいん)」という少女の謎に迫っていくというストーリー。

いわゆる″鬱ゲー″であり、カルト的な人気を誇る本作。Amazonで売られてたけど、値段がプレミアつきすぎてた。








いや、5万てw
さすがにゲームソフト一本に5万はちょっと…





ゲーム内容としては、ゲーム内における「れいん」という少女のカウンセリング記録や、″ダイアリー″と呼ばれる登場人物達の日記や独白。その「データ」をプレイヤーが観たり、聴いていくというもの。だからプレイヤー自身が選択肢を選ぶといった要素はない。どちらかと言うとサウンドノベルに近いかんじかな。しかし、この「データ」を一つ一つ「開いていく」作業はプレイヤー自身が行うことになるため、開き忘れた会話データやダイアリーがあったりすると、ストーリーの重要部分をスルーしてしまう可能性があるため、油断は禁物。





実際のところ、あまり番人に勧められるようなゲームではないと思います。
「レイン」のカウンセリングをする米良 柊子(とうこ)先生が、だんだん精神的に壊れていく過程は観てて辛いものがあるし、「れいん」という一見あどけない少女が、次第に狂気を露わにしていく様子は、はっきり言って怖い。

そもそも、プレイヤーが聴いていくことになる「ダイアリー」だって、「語り手」の主観がかなり入っている。このゲームの登場人物は、往々にして幻覚や妄想に囚われている側面が大きいため、ダイアリーで語られる内容=真実とは限らない。そのへんを読み解くのも、プレイヤーの判断に委ねられる。

どこまでが妄想で、どこまでが現実かっていう境界が、このゲームでは曖昧。そういう点においては、最近で言うと映画「ジョーカー」に似ている部分があるかも。






「レイン」は、ITに長けていて、インターネット(ゲーム中ではワイヤードと呼ばれる)の世界で頭角を現していく。ネットの存在は、このゲームでは重要な要素。そして「レイン」の記録を読み解くうちに、プレイヤーは直面することになる。心を蝕まれた人間の″歪み″や″不協和音″というものを。

でもこのゲームでプレイヤーが出来ることって、本当に日記や音声などの″記録″を読み解くことだけだから、「lain」に隠された謎も、登場人物の真の目的や意図もすべて、その″記録″から推察するしかない状態。上記にも述べたように、″記録″ってのは個人の主観が入るため、それはプレイヤーをかなり混乱させる要素になっていると思う。




なんせストーリー終盤は、「レイン」柊子(とうこ)先生」も明らかに「普通じゃない」状態になってるわけ。
幻覚にさいなまれ、精神的に失調を来している人の日記の内容を、そのまま信じれますか?
まあ「レイン」に言わせると、「私は普通だよ?」ってことなのかもしれないけど。
我々の常識で、「lain」の″思想″や″思考″を推し量ろうとすること自体が、ナンセンスなのかもしれない。

精神科領域や、ネットに関する専門用語も出てきたりと、いろいろ複雑なゲーム。
まあでも私はこのゲーム、好きですよ。いろいろと考えさせられます。生きることについて。そして、″存在″について。

現実世界で生きること。そこに幸福はあるのか?肉体に意味はあるのか?肉体は、痛みを感じるし、衰えるし、苦しみを生み出す。ならばそれは″不要なもの″ではないのか?
サイバー空間(ワイヤード)で誰かとつながること。肉体を捨て、その空間に自分自身の″存在″をつくり、生きていく。それもまた理想の世界かもしれない。でも肉体が″余計なもの″ならば、生きることの定義とは何か?歳を取り、経験を重ね、人と出会い、傷つき、自分自身が形作られていく。それが幸福かどうかはわからないけど、ネット(ワイヤード)では決して手に入れることができないものが、現実世界にはあるんじゃないのか?なんてことを、このゲームを通じて考えてしまいます。


ゲームで印象深いセリフといえばこれですね。

ねえlainワイヤードで必要なものって何?
「意思と存在、あとはただのデータ」



私がゲームで観ていた「lain」の日記も、ただの断片的な「データ」でしかないんだよね。でもデータってのは、その人の「生存」を証明する確かな手がかりにもなりうる。それが日記であれなんであれ。

じゃあ、「意思と存在」はどうやって証明する?いや、証明する必要はない。生きていくうえで、その人の「データ」は必要だけど、「意思」はその人自身が、自覚できてれば良い。それこそがその人の「存在」を確かなものにする。意思」を持たない者は「他者」の言葉や考えを、あたかも自分のものであるかのように錯覚する。意思」のない人間は、自分が何者かわからない。だからネットの世界でも現実世界でも、「意思」を持たない者は「存在」できない。していない。だってそこに「自分自身」はないから。自分自身は何か、を認識できてはじめて、人は「存在している」と言えるのかも。それは他人に認識されるとか、他者から認められる、とかそんなのは関係なく。


お前さっきから何言うてんねん、ってかんじの文章になってますね 笑


ネットでも現実でも、私の考えは、本当に私自身の考えなのだろうか?って自問自答するのは大事だと思います。自分自身を「消失」してることって、多いと思いますから。無意識のうちに。