「和銅改元」時に諸国に対する「国司」(国守)任命記事があります。(以下のもの)そこでは「筑紫」全体としての「大宰府」を除けば計30国について「国守」が任命されています。
(七〇八年)和銅元年…三月…丙午。以從四位上中臣朝臣意美麻呂爲神祇伯。右大臣正二位石上朝臣麻呂爲左大臣。大納言正二位藤原朝臣不比等爲右大臣。正三位大伴宿祢安麻呂爲大納言。正四位上小野朝臣毛野。從四位上阿倍朝臣宿奈麻呂。從四位上中臣朝臣意美麻呂並爲中納言。從四位上巨勢朝臣麻呂爲左大弁。從四位下石川朝臣宮麻呂爲右大弁。從四位上下毛野朝臣古麻呂爲式部卿。從四位下弥努王爲治部卿。從四位下多治比眞人池守爲民部卿。從四位下息長眞人老爲兵部卿。從四位上竹田王爲刑部卿。從四位上廣瀬王爲大藏卿。正四位下犬上王爲宮内卿。正五位上大伴宿祢手拍爲造宮卿。正五位下大石王爲彈正尹。從四位下布勢朝臣耳麻呂爲左京大夫。正五位上猪名眞人石前爲右京大夫。從五位上大伴宿祢男人爲衛門督。正五位上百濟王遠寳爲左衛士督。從五位上巨勢朝臣久須比爲右衛士督。從五位上佐伯宿祢垂麻呂爲左兵衛率。從五位下高向朝臣色夫知爲右兵衛率。從三位高向朝臣麻呂爲『攝津』大夫。從五位下佐伯宿祢男爲『大倭』守。正五位下石川朝臣石足爲『河内』守。從五位下坂合部宿祢三田麻呂爲『山背』守。正五位下大宅朝臣金弓爲『伊勢』守。從四位下佐伯宿祢太麻呂爲『尾張』守。從五位下美弩連淨麻呂爲『遠江』守。從五位上上毛野朝臣安麻呂爲『上総』守。從五位下賀茂朝臣吉備麻呂爲『下総』守。從五位下阿倍狛朝臣秋麻呂爲『常陸』守。正五位下多治比眞人水守爲『近江』守。從五位上笠朝臣麻呂爲『美濃』守。從五位下小治田朝臣宅持爲『信濃』守。從五位上田口朝臣益人爲『上野』守。正五位下當麻眞人櫻井爲『武藏』守。從五位下多治比眞人廣成爲『下野』守。從四位下上毛野朝臣小足爲『陸奥』守。從五位下高志連村君爲『越前』守。從五位下阿倍朝臣眞君爲『越後』守。從五位上大神朝臣狛麻呂爲『丹波』守。正五位下忌部宿祢子首爲『出雲』守。正五位上巨勢朝臣邑治爲『播磨』守。從四位下百濟王南典爲『備前』守。從五位上多治比眞人吉備爲『備中』守。正五位上佐伯宿祢麻呂爲『備後』守。從五位上引田朝臣尓閇爲『長門』守。從五位上大伴宿祢道足爲『讃岐』守。從五位上久米朝臣尾張麻呂爲『伊豫』守。從三位粟田朝臣眞人爲大宰帥。從四位上巨勢朝臣多益首爲大貳。
さらにそれほど日を置かないで次の国々に国司が任命されます。(交替もある)
(七〇九年)二年…十一月甲寅。以從三位長屋王爲宮内卿。從五位上田口朝臣益人爲右兵衛率。從五位下高向朝臣色夫智爲『山背』守。從五位下平羣朝臣安麻呂爲上野守。從五位下金上元爲『伯耆』守
(七一〇年)三年…夏四月…癸夘。以從三位長屋王爲式部卿。從四位下多治比眞人大縣守爲宮内卿。從四位下多治比眞人水守爲右京大夫。從五位上采女朝臣比良夫爲『近江』守。從五位上佐太忌寸老爲『丹波』守。從五位下山田史御方爲『周防』守。
これらに含まれない国々は「東海道」では「伊賀」「參河」「駿河」「伊豆」「甲斐」「相模」、「東山道」は「飛騨」、「北陸道」は「佐渡」、「山陰道」は「但馬」「因幡」「石見」「隠岐」、「山陽道」は「安芸」「南海道」は「紀伊」「淡路」「阿波」「土佐」と総計17カ国になります。
これらの国々への国司任命記事はかなり後になります。では「和銅」改元時点で他の30国のように(ほぼ)同時に任命されなかったのはなぜでしょうか。
それについては任命されなかった国々を見るとある程度推測が可能でしょう。例えば「南海道」は「伊豫」と「讃岐」を除く「平城京」から伸びる「紀伊」を始めとする「南海道」の主線行程上の国が入っていません。南海道の「伊豫」「讃岐」は「筑紫」から(というより「豊後」からか)瀬戸内海を通過して行きやすい国であり、「土佐」等の諸国は「筑紫」からのルートとしていわば「遠絶」と考えられていたもののように思われます。確かに「伊豫」から「土佐」へのルートはあったものですが、陸路として山脈越えであり、その後「七一八年」になって「阿波」からのルートへ「付け替え」が行われたものです。これらついては西村氏も『古田史学会報』一三六号で言及されていますが、明らかに王権の中心地点の移動に伴うものですが、この付け替え年次である「七一八年」の二年前が次に述べる(豊後に置かれた)「戍」における交通制限の緩和措置です。
「豊後」と「伊豫」を接続することを制限する必要がなくなったことと、「伊豫」を介して四国内を統治する形態が過去のものとなったこととは深く結びついていると思われるものです。
また「東海道」は「遠江」以東の箱根を越えるルート上の国が入っておらず、これについては「東海道」そのものが以前は「遠江」以降は「海路」であったと考えられており、房総半島に上陸するルートが長く使用されてきていたことと関係していると思われます。
「古代官道」の箱根越えルートは後からできたものであり、その経路上の諸国はそれほど倭王権と関係が深くはなかったと思われるわけです。
また「山陰道」においても「筑紫」から見て遠方の「因幡」「但馬」などが入っていません。これも似たような事情と思われ、海路「日本海」ルートを行くとき「出雲」から「越」へという主線行程からこれらの国は「スキップ」してしまう結果「外れている」ということとなるのではないかと思われます。
それに対し「関東」の国々はほぼ網羅されていますが。それは『常陸国風土記』が示すように「総領」が任命・配置された段階で「クニ」から編成替えが行われ、「令制国」と同等の広域行政体が作られたとしていますから、これらに「国司」(国宰)がいなかったはずはないこととなるでしょう。
すでに七世紀半ばの倭王権の「東国直接統治」政策の際に近畿王権から搾取した「屯倉」等の分布から倭王権の範囲を「吉備」より東側と推定しましたが、上の「国司」が任命された地域との重なりを見てみると『和名抄』で「刑部」(忍壁も)地名が残る地域として数えてみた17地域の内13地域が任命対象地域に確認できます。つまり基本的には元の近畿王権の統治領域を主たる地域に対して最初に「国司」が任命されているというわけです。当然後回しになった地域は「近畿王権」よりも「倭王権」と関係が深かった地域であったとみるのが相当と思われるわけです。もっともその首根っこも言える「筑紫」の「大宰帥」は当初から任命されており、また「従三位」という高位の人物が充てられていて、重要視されているのが判ります。
これらの地域には「国宰」や「国守」が元々「倭王権」から任命されていたものと思われ、新日本王権に王権が移動した後に改めて「国司」を任命する際に旧王権から任命されていた「国守」を新王権側から選定した人物へすげ替える措置を行ったものとみられ、結果的に後回しとなったものと思われるものです。(ただし新王権に忠誠を誓った場合などはそのまま横滑りした者がいなかったとは思いませんが)
上に述べたように『続日本紀』に「豊後」と「伊豫」の間に『国之境』があり、そこに『戍』が置かれていたことが書かれた記事があります。(以下のもの)
(靈龜)二年(七一六年)…夏四月…
壬申。以從四位下大野王爲彈正尹。從五位上坂本朝臣阿曾麻呂爲參河守。從五位下高向朝臣大足爲下総守。從五位下榎井朝臣廣國爲丹波守。從五位下山上臣憶良爲伯耆守。正五位下船連秦勝爲出雲守。從五位下巨勢朝臣安麻呂爲備後守。從五位下當麻眞人大名爲伊豫守。
五月…辛夘。…大宰府言。豊後伊豫二國之界。從來置戍不許往還。但高下尊卑。不須無別。宜五位以上差使往還不在禁限。又薩摩大隅二國貢隼人。已經八歳。道路遥隔。去來不便。或父母老疾。或妻子單貧。請限六年相替。並許之。
上の霊亀二年記事では豊後と伊豫の間に「國之境」があり、そこには「戍」が置かれていたというわけですが、これが「大宰府」からの報告であることを考慮すると当然「戍」は「大宰府」側に存在していたとみるべきであり、「豊後」に置かれていたとみるべきでしょう。このことから「大宰府」では「四国」(伊豫)からの侵入を強く警戒していたことが窺えます。
ところで、この記事の以前と以後の両方で「改元」に伴う恩赦記事があり、そこに「山沢亡命」者に対する出頭命令が出ています。
(七〇八年)和銅元年春正月乙巳。武藏國秩父郡獻和銅。詔曰。現神御宇倭根子天皇詔旨勅命乎。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。高天原由天降坐志。天皇御世乎始而中今尓至麻■尓。天皇御世御世天豆日嗣高御座尓坐而治賜慈賜來食國天下之業止奈母。隨神所念行佐久止詔命乎衆聞宣。如是治賜慈賜來留天豆日嗣之業。今皇朕御世尓當而坐者。天地之心乎勞弥重弥辱弥恐弥坐尓聞看食國中乃東方武藏國尓。自然作成和銅出在止奏而獻焉。此物者天坐神地坐祗乃相于豆奈比奉福波倍奉事尓依而。顯久出多留寳尓在羅之止奈母。神随所念行須。是以天地之神乃顯奉瑞寳尓依而御世年號改賜換賜波久止詔命乎衆聞宣。故改慶雲五年而和銅元年爲而御世年號止定賜。是以天下尓慶命詔久。冠位上可賜人々治賜。大赦天下。自和銅元年正月十一日昧爽以前大辟罪已下。罪无輕重。已發覺未發覺。繋囚見徒。咸赦除之。其犯八虐。故殺人。謀殺人已殺。賊盜。常赦所不免者。不在赦限。『亡命山澤。挾藏禁書。百日不首。復罪如初。』
養老元年(七一七年)…十一月…
癸丑。天皇臨軒。詔曰。朕以今年九月。到美濃國不破行宮。留連數日。因覽當耆郡多度山美泉。自盥手面。皮膚如滑。亦洗痛處。無不除愈。在朕之躬。甚有其驗。又就而飮浴之者。或白髪反黒。或頽髪更生。或闇目如明。自餘痼疾。咸皆平愈。昔聞。後漢光武時。醴泉出。飮之者。痼疾皆愈。符瑞書曰。醴泉者美泉。可以養老。盖水之精也。寔惟。美泉即合大瑞。朕雖庸虚。何違天■。可大赦天下。改靈龜三年。爲養老元年。天下老人年八十已上。授位一階。若至五位。不在授限。百歳已上者。賜■三疋。綿三屯。布四端。粟二石。九十已上者。■二疋。綿二屯。布三端。粟一斛五斗。八十已上者。■一疋。綿一屯。布二端。粟一石。僧尼亦准此例。孝子順孫。義夫節婦。表其門閭。終身勿事。鰥寡■獨疾病之徒。不能自存者。量加賑恤。仍令長官親自慰問。加給湯藥。『亡命山澤。挾藏兵器。百日不首。復罪如初。』又美濃國司及當耆郡司等。加位一階。又復當耆郡來年調庸。餘郡庸。賜百官人物各有差。女官亦同。
ここで「亡命」しているとされる人々は「富永長三氏」の指摘(「憶良と亡命の民 -嘉摩郡三部作を読む」市民の古代第15集)によれば、新日本王権に反旗を翻していた人たちであり、旧倭国領域に特に王権交代に不満を持つ人々がかなり潜伏していたことが推定されます。
この旧倭国領域(特に「直轄領域」)については以前検討したことがあり、『隋書』の記事と『和名抄』との比較から「九州島」と「四国」及び「中国」地方の半分程度までが該当する可能性を指摘しておきました。その意味で「伊豫」地域に旧倭国王権派の勢力がかなり存在していたこと、彼らはある程度の軍事力を有していたであろうことが推定できるものです。そのことは「伊豫軍印」という存在(これは「旧制軍団」に与えられたものと思われ、倭国王権の元のものと思われます)や、その後の「伊豫総領」(これも「旧倭国王権」により任命されていたものか)という存在からもここにある程度の「軍事力」があったことは明らかであり、その意味で新日本王権からは警戒されていたことも十分考えられます。
確かに、薩摩・多ねが「反乱」を起こした際に、「唱更國司」(これは反乱の地である「薩摩」の国司たち)から「国内要害の地」には「柵」を建て「戍」をして守らせる、という言上がなされ、それが許可されたという記事がありますが(以下のもの)、「要害の地」は特に「薩摩」だけというわけではなく、この時「伊豫」と「豊後」の間も同様に「要害の地」と考えられていたものと思われ、ここには「戍」が置かれたものと推定できるでしょう。
(七〇二年)二年…
冬十月乙未朔。…
丁酉。先是。征薩摩隼人時。祷祈大宰所部神九處。實頼神威遂平荒賊。爰奉幣帛以賽其祷焉。唱更國司等今薩摩國也。『言。於國内要害之地。建柵置戍守之。』許焉。…
さらに関連していると思われるのが、この「國之境」記事に続いて「薩摩大隅」の「隼人」について、大宰府に連れてこられてから八年経過しているという記事があることです。
つまり彼らは戦いがおよそ集結したと思われる「七〇二年」付近から七年ほど経過した段階で、「貢」つまり「貢物」として(いわば「官奴婢」として)大宰府へ移動させられたこととなります。このような状況は旧倭国領域の制圧と統治が一定の割合で進行していることを示唆するものですが、他方それが完全ではない可能性も当然あるわけであり、それを示すものがこの前後の「投降」の呼びかけであったと思われるわけです。つまりこの「投降」の呼びかけの対象は「九州」の内部だけではなく、その周辺地域に及んでいたと考えるべきでしょう。
このような状況がその後進展・緩和された結果「戍」を通過する人物についての制限が緩和され、また「隼人」の交替期限を短縮するということになったものであり、それはそのまま「投降者」がかなり増加したことを示すものと思われることとなります。
「伊豫」地域に対しても当初から「国守」が任命されており、「新日本王権」としてもこの地域の軍事力に対して警戒をしていたと思われるわけですが、上の「大赦」の「詔」に見るように旧倭国王権支持者たちは「山沢に亡命」して粘り強く抵抗していたものと思われ、「戍」による守衛が有効であった期間が長く続き、武装解除完了まで「16年」を要したものと思われるわけです。「統制」が効き始めたと新日本王権が判断したことから「国境」の警備が簡素化され交通が以前より円滑になったものと思われるわけです。それでも「筑紫諸国」の「庚午」の戸籍はこの段階ではまだ発見されておらず、「伊豫」よりも遙かに強い抵抗を示していたものと思われます。
『続日本紀』によれば「僧尼」に対する「公験」の授与が「七二〇年」の正月から始められており、これ以前には「新日本王権」としては行われていなかったことが明白ですが、同じ年の二月に「薩摩隼人」の「反乱」が始まっており、この両者に関係があることが察せられます。
(養老)四年(七二〇年)春正月甲寅朔。…丁巳。始授僧尼公驗。
二月…壬子。大宰府奏言。隼人反殺大隅國守陽侯史麻呂。
三月丙辰。以中納言正四位下大伴宿祢旅人。爲征隼人持節大將軍。授刀助從五位下笠朝臣御室。民部少輔從五位下巨勢朝臣眞人爲副將軍。
新日本王権が「公験」授与の権利を得、その権利行使に必要な「官籍」つまり「筑紫諸国」の「庚午年籍」を手に入れようとしたことが反乱の発端ではなかったでしょうか。「新日本王権」は「聖武の詔報」でも明らかなように「僧尼」に対する「公験」の授与に必要な「官籍」を把握しておらず、それがないために対応に苦慮していたものですが、その「官籍」つまり「庚午年籍」が本来あるべき大宰府にないことは当然すでに把握していたはずであり、「探索」されていたものと思われ、それを「(大隅及び薩摩)隼人」が保持しているのを承知していたのかもしれません。それを「大隅国守」が入手しようとして彼等の抵抗にあったということではなかったでしょうか。
この反乱は「七二三年」には収束し、その時点で新日本王権の統治下に入っていた僧尼がかなりいたものと思われますが、彼等の戸籍の入手がこの段階ではまだできていなかったものと思われ、そのまま放置するわけにも行かなかったものであり、翌年に禅譲を控えていたため新天皇即位の後奏上し「詔報」を得ることとしていたものと推測します。このような経緯の後「筑紫諸国」の「庚午年籍」の探索が続けられ七二七年なって「やっと」入手できたということと思われ、この時点以降「公験」授与が「九州地方」の僧尼に対しても「官籍」と「綱帳」(寺院側の記録)の双方を勘案して行うことが可能となったものと思われるのです。
この「庚午年籍」については結局「七二七年」になって「筑紫諸国」の「庚午年籍」に官印を押したもののようです。この段階でそのような結果になったというのは、そもそもそれが「聖武」の朝廷になく、また「大宰府」にその「写し」あるいは「原本」がなかったたため、広く捜索した結果発見(入手)されたものと思われます。しかし後の「養老令」(戸令)によれば本来戸籍は「三通」作り、一通は国元に置くものの、残り二通は太政官つまり朝廷に提出するとされています。
(戸令 造戸籍条)「…凡戸籍六年一造。起十一月上旬。依式勘造。里別為巻。惣写三通。其縫皆注其国其郡其里其年籍。五月卅日内訖。二通申送太政官。一通留国〈其雑戸陵戸籍。則更写一通。各送本司〉。」
この規定は「養老令」のものですが、これと同様のものは「庚午年籍」作成段階でもあったとみるのが相当であり、「庚午年籍」においても「国府」だけにあったはずがなく、さらに『続日本紀』の記事では「筑紫諸国」の「庚午年籍」についてのみ言及があるところを見ると、欠落していたのは「筑紫諸国」の分だけであったものと思われます。この欠落が「難波朝廷」の焼亡と関係していると見ることもできるかもしれませんが(「朝廷」に提出されていた分が焼失したという可能性)、「筑紫」の分だけが焼けたとも思われず、別の理由を考える必要があるでしょう。
ところで「庚午年籍」ですが、通常、戸籍には国印が押されていますから、この七百七十巻の筑紫諸国の「庚午年籍」にも旧倭国王権時代の各地の国印(筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後)が押されていたとみるべきですが、通常そうは考えられていないようです。なぜなら「国印」が「鋳造・頒布」されたのは八世紀に入ってからであり、この「六七〇年」という時点では未だ「国印」が存在していなかったという見方があるからです。
確かに当時「筑紫諸国」以外(直轄領域以外)では「諸国印」が存在していたかが問題となるでしょう。つまり「大宝」以降「四文字表記」により「国印」が作られるわけですが、「評制」下の諸国の国名は「二字」ではなく「三字」あるいは「四字」のものもあったからです。(「上毛野」「下毛野」「遠水海」「吉備道中」「波伯吉」「无耶志」などです。)
これらについては後に二字に国名が統一(変更)されるまで継続したものとみられ、当時国印が作られていたとするとこの通りの国名で造られたものとみるべきですが、実際には「印」のサイズは規格化されていたと思われ、鋳造する際の「型」が決まっていたとすると、各国名で「字数」が異なるとすると技術的に対応が困難ではなかったかと思われます。そう考えると「庚午年籍」には(「筑紫諸国」を除き)周辺諸国においては「国印」が押されていなかったと考えられるわけです。それを示すように「正倉院文書」によれば、「大宝二年(七〇二)」の西海道戸籍では筑紫諸国については「国印」が押印されていますが、同時期と思われる「美濃戸籍」には「国印」がありません。これについては「常識」では「西海道戸籍」の場合「国印」が押されたのは「国印」が「詔」により造られた後であるとされており、戸籍そのものが造られた時点とは別であるとされているようですが、かなり苦しい解釈と言えるでしょう。なぜなら本来提出された段階で押されるべき刻印がそれもずっと後から押されたとするものですが、そうであれば「美濃国」についても条件は一緒であり、なぜ「西海道諸国戸籍」にだけ「国印」があるのかの説明にはなっていないからです。
(七〇四年)慶雲元年…
夏四月甲子。令鍜冶司鑄諸國印。
このように「国印」が造られ諸国に頒布されたのは「慶雲元年」とされており、それ以前の「大宝二年(七〇二)に作成されその「翌年」に提出されたと思われる「戸籍」のさらに「翌年」になってから「国印」が押されたとするわけですが、このように後になってからしかも「西海道戸籍」にだけ押されていたとみるのは無理があると考えるのが相当です。
「西海道戸籍」のように仮に国印頒布後に押されたとするとそれは必ず「作成されている戸籍に国印を押すように」という王権から指示が出されたと見るべきことを示します。そうであるなら「美濃国戸籍」にそれがないのはそのような指示が出されなかった証しと思われ、にも関わらず「西海道戸籍」に「国印」があるのは、鋳造頒布される以前から西海道諸国には「国印」があったからと考えるよりないのではないでしょうか。
国名が二字で統一されるようにという指示が出された背景には「国印」の製造との関連があることが従前指摘されていますが、これはすでに「筑紫諸国」において「二字国名」となっていたこと、「筑紫諸国」だけに「国印」があったと考えることで理解が可能です。新日本王権はすでにあった「筑紫諸国」の印の形式を見本としてそれ以外の諸国について「国印」を鋳造し頒布したものと思われるのです。
ただし「筑紫諸国」つまり「筑紫・豊・肥」についてそれが前後に分割されたのは八世紀に入ってからという考えも指摘されています。
『続日本紀』においては「筑紫諸国」について「前後」に分けたという記事が無く、また『書紀』においても同様であり、一見『書紀』では「筑紫」については前後に分けた記事がなく、どの段階でこれらの国が前後に分かれさせられたのかが不明です。しかし例えば「肥前」と「肥後」の間には「筑後」が割り込んでおり、少なくとも「肥前」「肥後」が分けられた時点と「筑後」と「筑前」という「筑紫」の分割という時点は同時であったものとみられ、このように一種重要で大規模な境界変更事業がどこにも詳細な情報が記載されていないというのは不思議であり、それは「評」の隠蔽や「太宰府」成立事情の隠蔽と軌を一にするものと言えます。
本来は「国」の成立については「論奏」つまり上級官吏の議論を経たのち天皇に奏上されたのち決定するというのが律令による決まりでした。しかし「筑紫諸国」についてはそれらについて一切の記事が『書紀』にも『続日本紀』にもなく、「いつの間にか」「前後」に分けられていたということになっています。それは「筑紫諸国」だけではなく「越」についても同様と言えます。「越後国」という表記が最初に現われるのは『持統紀』であり、それまでは全て「越」だけでした。また「吉備」についても同様に「前・中・後」というように分割されていますが、これもどこにもその分割に関する記事がありません。これらはいずれもその事業主体が「新日本王権」とは異なることを示すものであり、「筑紫日本国」あるいはそれ以前の「筑紫倭国」時代の事業と考えられることとなります。
またこれらの国境変更等の事業と重要な関連を持つものは「古代官道」の構築であるといえます。つまり「官道」が「肥」の国を二つに分けたわけであり、そのことが「筑紫」の領域の拡大と「筑前」と「筑後」に分けられる根拠ともなっているのです。つまり元々の「筑紫」地域である「筑前」と「肥」から編入した地域としての「筑後」という区域割りとなっているわけであり、明らかに「肥」の分割と表裏一体といえます。
つまり「官道」ができたことにより特に筑紫諸国で国境変更等が行われ、これらの国が「前後」に分けられたとみれば「官道」の成立時点付近と「国印」の鋳造時期が似かよっている可能性があると言えます。その「官道」の成立が「遣隋使」による「隋」における「道」についての情報を得たことを契機としており、それは「推古期」付近に「池」を作る記事が多いことつながっています。
古代官道の特徴として「直線的」ということが言えますが、このように「直線的に道路を作るとかなりの確率で山や川や池と遭遇する確率が高いと言えます。その際山については切り崩して「切通し」としている例が多く見られますが、「川」や「池」については「せき止める」あるいは流路を変更するなどのことが起きると思われ、新たに「池」ができることとなります。つまり「池」の成立は「稲作」と「潅漑」との関連ももちろんありますが、「古代官道」との関連を考える必要があるといえ、それが「推古期」に顕著であるのは「遣隋使」との関係を想定すべきものと考えられるのです。
この時点付近で「古代官道」の成立があり、また「筑紫諸国」において国が前後に分けられるということがあったとみるなら、その時点付近で「国印」が造られて不自然とは言えないこととなります。
さらに「隋代」の「諸国印」の多くが「四文字」であり、「国名二字+国印」という形式が一般的です。つまり四文字を均等に割り付ける印章形式は「唐」というより「隋」形式という研究があり(※)、これも同様に「隋」との交流から学んだものということが考えられ、その意味でも「官道」の成立時点と時期が合致している可能性があります。つまり「隋」との交流時点以降「筑紫」を含む「直轄領域」内に「官道」を設置・施工し、それとともに国内の領域に対して各国を二分割し、各「国印」を隋制により鋳造するという流れが想定されるわけです。(これは「聖徳太子」による国内を三十三国に分けたという伝承との関連が考えられる事業です)
新日本王権が改めて(初めて)「諸国印」を鋳造するのであれば「隋制」による必要はないはずです。そのことはすでに「筑紫諸国」の「国印」があり、それが「隋制」に基づいていたことから、それを「標準」として「筑紫」以外の国印の鋳造を行うという流れがあったとみると整合するといえます。
このように「印」が造られるというのは基本的な行政が文書によって行われていたことを示すものであり、その意味で「木簡」という存在とやや齟齬していると言えます。「木簡」による行政は「印」の存在を措定していません。「奈文研」の「木簡データベース」よっても「木簡」が「筑紫」とその周辺地域からほぼ発見されていません。それは「筑紫」とその周辺地域では「木簡」が行政事務として使用されていなかった可能性が高く、それは行政事務が「文書」によって、つまり「紙」によって行われていたことを示すものと考えられるでしょう。そのことと「国印」の存在はリンクしていると考えられるわけです。逆に言うと各地で発見される木簡は本来は「近畿王権」の統治範囲で使用されていたものという可能性が考えられるところです。