まだ、自分の言葉で「浅川マキ」を語ることができない。
いろいろつなぎ合わせて、とりあえず、彼女の死を悼みたい。
●浅川マキ(アサカワ マキ、1942年1月27日 - 2010年1月18日)、歌手、作詞家、作曲家、編曲家。
石川県石川郡美川町(現:白山市)出身。石川県立金沢二水高等学校卒。 町役場で国民年金窓口係の職に就くも程なくして上京。 マヘリア・ジャクソンやビリー・ホリデイのようなスタイルを指向し、米軍キャンプやキャバレーなどで歌手として活動を始める。
1967年にビクターからEP『東京挽歌/アーメン・ジロー』を発表するも、本人と事務所の音楽的な指針に大きな乖離があり、当時の出来事がその後の活動に影響を与える。
1968年、寺山修司に見出され新宿の「蠍座」で初のワンマン公演を催行、口コミで徐々に知名度が上がる。やがて東芝音楽工業株式会社(現:東芝EMI)に移籍、1969年7月1日、EXPRESS-レーベルより『夜が明けたら/かもめ』で正式にレコード・デビュー。 以後1998年まで移籍すること無く作品を発表しつつステージでの活動を主体にする。 特に池袋文芸座ル・ピリエで1997年まで催行した大晦日連続定期公演は有名。
●2010年1月15日より3日間、名古屋のライヴハウスJAZZ INN LAVELYでピアニストの渋谷毅、ドラマーのセシル・モンローとの公演を行っていた。
最終日の夜、午後7時半の開演直前になってもマキは姿を見せなかった。同店のスタッフに依頼を受けたホテル従業員が、浴室で倒れていたマキを発見。浴槽の湯に顔の右半分をつけて意識を失っていた。従業員は慌てて午後7時46分に119番通報。心肺停止状態で名古屋市内の病院に搬送されたが、午後8時に急性心不全によるマキの死亡が確認された。
発見時、部屋は施錠されており、荒らされた形跡はなく、裸で浴槽に顔をつけ倒れ込むように、ぐったりしていたという。関係者は「薬は飲んでいたが、特に持病はなかった。ただ、何かにぶつけたか、転んだような跡があったようだった」と話している。
17日のライヴは開演の午後7時半を過ぎてもマキは姿を現さなかった。「ホテルで倒れていた」と伝えられた約70人の客は「大丈夫?」と心配した様子だった。ユニットを組む渋谷毅、セシル・モンローが約40分演奏し、代金は払い戻された。
マキは85年に網膜剥離(はくり)で一時活動を中断したが、最近は右目の視力も落ちたため「ステージに上がる時はスタッフが誘導していた」という。
前夜まで体調不良の気配はなかった。15日から2日間で、50分のステージを2回開催。16日には店内で共演者、スタッフと食事をとり、17日午前0時にはホテルへ戻った。だが、翌朝から音信不通に。同店関係者は「初日は新幹線移動があったので『疲れた』と話していましたが、2日目のステージは素晴らしかった。体調が悪いようには見えませんでした」「『あしたのライブも頑張るよ』と張り切っていた」と振り返る。
●浅川マキは19日、滞在していた名古屋市内で荼毘に付された。
故郷の石川県から駆けつけた妹とスタッフに加え、ドラマーのつのだ☆ひろ等音楽仲間が最後の別れをしたとのこと。遺骨は妹が故郷へ持ち帰り、親族だけで葬儀を営んだという。
初アルバム「浅川マキの世界」(70年発売)をプロデュースし、40年間の親交がある音楽プロデューサーの寺本幸司氏は「関係者でお別れ会を考えたい」と話していたが、
2010年3月4日(木) 新宿ピットインにて浅川マキのお別れの会「こんな風に過ぎて行くのなら」が開かれることになった。
合掌