木村 修司 | 元祖!ジェイク鈴木回想録

元祖!ジェイク鈴木回想録

私の記憶や記録とともに〝あの頃〟にレイドバックしてみませんか?

 
 お陰さまで当鈴木家も、ぼくが小学校の高学年だった1973年辺りから、大晦日に友だちと外で飲み歩く以前の1980年くらいまでの、いま思えば僅か8年間ばかりに過ぎず、また、だれかが受験前だったり、スキーに出掛けていて不在だったことがたまにあったとしても、まあだいたいは家族5人がTVの前のコタツに揃って〝NHK紅白歌合戦〟やら〝ゆく年くる年〟を観ながら、新年を迎えられる程度のささやかな幸福には恵まれていたものだった。

 それはたぶん1975年12月31日のこと。
その〝第26回NHK紅白歌合戦〟に、その年を「スモーキン・ブギ」と「カッコマン・ブギ/港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」の大ヒットで席巻していたダウンタウン・ブギウギ・バンドが初出場して、「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」を熱演していたときだった。

 http://www.youtube.com/watch?v=ZMJ3b6U4Cqg

 例の如く、台所の片付けやら正月の準備やら何やらが一段落した母親は、やっぱしエプロンだか割烹着だか何だかで手を拭きながら、茶の間のTVの前の団らんにやって来て、確かそこにつっ立ったまま、まったくどーでもいいことのように、

「あれっ・・?、木村くんじゃないの?、何やってんの・・?、変な格好して。」
「き・・、木村くんって誰?」

 ぼくはこの時点では未だ宇崎 竜童の本名、木村 修司を知らず、また母親がこの時点で何故、宇崎 竜童の本名を知っていたのかは、今でも謎のままである。

「やあねえ、木村くんでしょう?このひと・・、デキシーのひとなのに変ねえ・・。」
「デキシーって何?」
「やあねえ、知らないのー?、デキシーはデキシーよー、デキシーランド・ジャズ。」

 おおおおおおおおお!

 ここで漸く、前稿で風吹 ジュンが云っていた〝中学時代はもっぱらジャズ〟の〝ジャズ〟の部分に出喰わす・・、っちゅうか実は全然出喰わしていないんだけど(笑)、ただ〝デキシー〟っちゅう言葉の響きは、何となく格好良く訊こえた。

 常日頃の母親が、むしろ一般的以上に熱心な教育ママだったことは云う迄もナイ。
ところが、もっと以前なら野球のフォア・ボールのルールや赤バットの川上・・、それから芸能・音楽のジャンル(:何か『クイズ・グランプリ!』みたいだな!笑)なら、ザ・タイガースは髪の毛が長いからNHKに出られないんだとか、森 進一は唄は下手なんだけど、あーして丁寧にお辞儀をするから人気があるんだとか、弾 厚作は加山 雄三の作曲家名なんだとか、岩下 志麻と河原崎兄弟は従兄弟なんだとか、緒形 拳は新派劇の出身なんだとか、もっと以降になってTHE VENUSの「キッスは目にして」が大ヒットした頃になると、ジルバを踊るときに女は何もしないでいーんだとか直々に指南されたりもして、まあ要するに非常にミーハー的なところもあったりするもんなんだから・・、な?、実在の人生なんか『暗夜行路』なんぞよりも、ますますおもしれーもんだろ?(笑)

 生憎、長男のぼくには3つ4つ年上の兄はもちろん、姉もいなかったものの、10歳年上の風吹 ジュンのほかに、さらに何と!25歳年上の母親もいた!っちゅうことか!(笑)

 とは云え、その当時もそれ以前も、少なくても宇崎 竜童やダウンタウン・ブギウギ・バンドは、デキシーランド・ジャズなんか演ってナイ(と思われる)。
っちゅうか、そもそもデキシーランド・ジャズなんちゅうもんは、ぼくは今でもまったく知らないんで何とも云えず、ただ時おり宇崎 竜童が吹いていた、お椀を使ってミュートするトランペットに何となく、そのイメージを勝手に植え付けていただけみたいな・・。
 ただ、それは確かに妙に郷愁をそそられる音色ではあったんだけどね。

 名盤中の名盤『脱・どん底』と『続脱・どん底』を入手するのは、もっともっとずっとずっと後のことで、当時はやっぱし〝中学生になったらNHKの『基礎英語』を聴かなきゃならないから〟なんちゅう有言不実行の屁理屈で、その前年の1973年に親を騙して買って貰った、あゆは未だ生まれてもいなかったのでPANASONICではなくNationalの3バンド・ラジカセしかなく、ソースも当然LPレコードなんぞを買えるカネに乏しく、確か土曜日だったから、たぶんやっぱしFM東京の〝PIONEER サウンド・アプローチ(?)〟だったのかな・・?、その番組に出演して、生唾もんの生演奏を繰り広げていた5曲くらいをモノラル録音でエア・チェックした、カセット・テープがあるだけだった。 
 けど、その中にもこの曲がある・・、「脱・どん底 傷だらけのブルース」。

 http://www.youtube.com/watch?v=DOfI0GWnAPc

 このYouTube音源はたぶん、LP『脱・どん底』に収録されているテイクと同じかと思われるものの、こんなもんを〝ブルース〟と呼んでしまったら、ぼくはブルースの師匠の〝さいとうくん〟に立つ瀬がナイ・・。(笑)
 こりゃあ、ファンクなんでねーの?いちおう・・。

〝おれはあんたが好きじゃないのサ、ハッ!♪〟

 1972年頃は未だ〝君が望むならイノキをあげてもいいいっ♪1!2!3!4!だあーっ!〟なんちゅう馬鹿げた夢想に踊らされていた正真正銘のバカ、っちゅうかガキだった。
そして、そのバカをいい加減、気恥ずかしく思っていた1974年頃には、表層的なラヴ・ソングの装いの内側に、流石がに13歳年上の先輩らしいメッセージが込められていた、君に会いに行かなくっちゃ♪や、君の事もずっとおあずけ♪があって、ぼくもやや大人になれたんじゃないかな・・?、なんちゅう唯ぼんやりとした不安じゃなくて、唯ぼんやりとした実感くらいには到達していたよーな。
 けどなー・・、そこまでじゃあ、まだまだもの足りねー!

 風吹 ジュンが云っていた〝中学時代はもっぱらジャズ〟は、大方の廻りとは圧倒的な隔たりを見せつける格好良さなんだからね。
その〝ジャズ〟の部分に当てはまる何かを模索しているときに、母親の一言に依って、たまたま強く認識されたのが宇崎 竜童だったのだ。
無論そこには「あー、母親の知り合いなら、聴いていても別に咎められることもないだろう。」なんちゅう損得勘定っちゅうよりも、むしろ防衛本能も当然の如くあったんだけどね。(笑)

 ただね・・、ぼくが興味を持ったのは、実は宇崎 竜童ではナイ。

 至って個人的な偏見なんだけど、ぼくにとって宇崎 竜童とはダウンタウン・ブギウギ・バンドの大成功以降の彼を指していて、それは実を云うとあんまし興味がナイ。
その当時、もっと大いに感銘を受けたのは、例えば『脱・どん底』や『続脱・どん底』に収録されている、宇崎 竜童と云うよりも、むしろ少年木村 修司の想い出であり、青年木村 修司の足掻きなのだ。
生憎、その2枚のLPを実際に入手するには、それから様々な紆余曲折があって随分あとのことになってしまうものの、あゆは未だ生まれてもいなかったのでPANASONICではなくNationalの3バンド・ラジカセで、たまたまエア・チェックした5曲にも、それもまたたまたまなんだけど、その片鱗が確かに窺われていた。

 ポイントは2つだけ。
1.)あくまでも洋楽を意識した曲創りがなされていること
2.)如何にも水商売的な、演歌的な、日本情緒が(特に歌詞に)盛り込まれていること

 この2点を総じて、当時の宇崎 竜童は〝ド演歌ロック〟なんちゅうキャッチ・コピーまで自ら創作していたもんなんだけど(笑)、それは確かに当を得ていた。
その1.)の部分には、ブルースはともかく、ブギーがあったり、先述のファンク(:当時は〝ソウル〟っちゅう部類で一緒こたにされていたよーな気がするけど、門外漢故にいまいち不明。)があったり、ドゥワップがあったりもするものの、それらはたぶん、それらの洋楽そのものから直接ではなく、進駐軍向けの音楽から派生した終戦直後の昭和歌謡からの2次的、3次的な影響と思われ、そこにこそ強烈な2.)が盛り込まれる結果になっていると推測している。
かつてWikipediaで、〝英国ふう8ビートのCAROLに対して、アメリカン4ビートのCOOLS。〟なんちゅう記述を目にした記憶があるけど、初期のダウンタウン・ブギウギ・バンドは差し詰め〝和風4~16ビート〟っちゅうところか!?

 また、当時の日本中がもはや戦後ではなかったとは云え、ある特殊な街・・、例えばその僅か数年前の横須賀なんぞでは、ドブ板通りに実際にパンパン(:街娼)が立ち並んでいたベトナム戦争の真っ盛りだったわけで、そこで少年木村 修司から少年ジェイク鈴木なんちゅう輩への情緒の伝達が執り行われていたのは、ジョン・レノンが云っていたコミュニケーションが自然に成り立っていたことにもなろう・・。

 で・・、ぼくはいったいどこへ往く?(笑)


「Suzi Quatro」(2009年2月28日現在未稿)に、つづくぅ!

※文中敬称略