武勇伝:前編 〜hitsujimania〜 | 元祖!ジェイク鈴木回想録

元祖!ジェイク鈴木回想録

私の記憶や記録とともに〝あの頃〟にレイドバックしてみませんか?

 
 大学時代のカイソウをもう少し・・

 大学1年(1981年)の夏、大学そのものは夏期休暇中だったものの、母親が胆石か何かで入院していたため、手がかかるぼくは実家への帰省を拒否されて(笑)、そのまま八王子市遣水1,723にある八王子キャンパスの敷地内に当時はあった学生寮に留まっていた
とは云え、別に制作(一般の大学で云えば研究にあたろう)やら何やらの都合で居残っていたわけじゃないから、たいくつでしょーがねえ・・

 八王子キャンパスは市内と云っても八王子駅(南口)から相模原のほうにバスで35分も山奥に入った、四方を山に囲まれた、豊かな自然が溢れるスバラシイ環境・・
保健室に常備してあるマムシの血清と、梅雨明けに現れる黒い煙のようなテントウムシの大群の噂は、既に予備校時代から幾多の先輩に依って耳タコではあったものの、実際に入学してみればどちらも実話であり(笑)、何と云っても、正門に向かって左隣はヒツジ飼い(こんな言葉を使うのはプロテスタント系の幼稚園以来だ!笑)で、学舎の遙か向かいの山々に放牧されているヒツジの数を遠目ながら文字通り数えつつ、うつらうつら居眠りしながら広告戦略だの何だのやってたんだから、いー加減なもんだよなっ!(笑)

 グラフィック・デザイン科の同窓、usagimaniaとはそんな環境で知り合った

(ちなみに“グラフィック・デザイン科”=“グラデ”は、学内でも日常一般的に使われていたものの、正式な名称は“美術学部デザイン科グラフィック・デザイン専攻”)

 彼もまた、実家から帰省を拒否されていたのか、或いはそのヒツジ環境がよっぽど気に入っていたのか、ニュー・ウェイヴどころかジョン・デンバーあたりがお似合いの街道を大学の正門から右へ500mほど行ったアパートに居残っていて、まあいつもだいたいひとりでコーラをがぶがぶ飲みながら、当時はぼくと同じショート・ホープをずばずば吸っていた
実はこのショート・ホープがポイントで、ここんとこ、とんと顔を見せナイ“大悪オヤジのギタリスト”や拳闘部のK.Y.(別に空気が読めないわけではない!笑)などなど、いまでも続いている大学時代の悪友は皆んな、かつては同じ銘柄のたばこを吸っていたもんだった
 いまほど、たばこの銘柄が多くなかった時代ではあるものの、たぶん、きっかけは、

“たばこある?”
“(きつい)ショート・ホープでよければ”

 で、以降、お互いに親睦を深め合ってきたような・・(笑)

 入学当初のusagimaniaは現在の約1/2くらいの体積しかなく、そのパンキッシュないでたちは、気に喰わないやつというよりも、むしろその音楽的に受け入れられないイメージを見事に具現化しているやつだった(ちなみにぼくのほうはリーゼント・笑)
彼は当時、勃興しつつあったニュー・ウェイヴに没頭すると云うよりも、彼自身が新しい波を起こすような音楽活動を実践しつつあったと思うんだけど、ぼくのほうはLED ZEPPELINやTHE ROLLING STONESのルーツを遡っていて、具体的にはマディ・ウォータースとかエルモア・ジェイムスの情報をかき集めている真っ最中だったからね
 当然、ハナシなんか全然合うわけがねー(笑)

 ところがだ!
いいか?特にTHE ROLLING STONESの初心者はよく読んどけよ・・(読んでるか?え?おい、>現在25歳のかつては秋田在住のGOLD WAX少年・笑)
通常、マディ・ウォータースとかエルモア・ジェイムスに遡っていく途中で、Phewだの、Aunt Sallyだの、或いはTHE VELVET UNDERGROUNDだの、Lou Reedだの、Nicoだのに立ち寄ることはまずねーだろ?
けどね、せっかくTHE ROLLING STONESを聴いているのに、この辺りをまったく知らないのはいささか片手落ちだと思うよ
っちゅうのはね、THE ROLLING STONESが“ただのブルース・バンド”じゃないことを解くカギは、むしろその辺りに顕著だからだ
ぼくももちろん、自分のカネや時間を使ってそれらを聴くことは現在でもまったくないんだけど、その夏にその友人に依って、しかもマニアックな解説付きで体験できたことは、大袈裟に云えば生涯の糧になっていたりもする

 usagimania自身、現在でもご夫妻共々THE ROLLING STONESの公式ファン・クラブの会員で、その結婚式に池田名誉会長が来ていたり・・、あ!そうそう!その夏のある日、例の如くアポも入れずにいきなし遊びに行ったら、その現ご夫人が遊びに来ていらっしゃっててね・・、彼曰く、

“おまえ、帰れ”(笑)

 まあ、そういうときは単車で山々に駈け上がってヒツジでも追い廻していればOver The Hills And Far Awayってとこだったけど、まあだいたいはそのくそ暑い真夏の日がな1日を、そのくそ田舎の街道沿いの狭い部屋で、毎日のようにコーラをがぶがぶ飲みつつショート・ホープをずばずば吸いつつ、ただくっちゃべっていただけだった(笑)
彼の部屋には、何日か前のコメントに記した『赤いペガサス』が全巻あって、ぼくはそれを読みたかったんだけど、相変わらずくっちゃべってばっかしでね・・

 ただ、『赤いペガサス』とTHE ROLLING STONES以外に、水泳があった

 とは云っても、ガキの時分のまるで星 一徹のような父親のエイサイ教育+自己流+高校の水泳部(1年の1学期だけで挫折)程度のぼくの貧弱な経験に較べて、彼がいまでも非常におもしろいのは、その知識や経験が常に上廻るっちゅうよりも、何をやっていても常に徹底的なところにある
最近ではMacintoshとか?
ぼくには彼というブレインがいるので、Mac雑誌なんかミラ・ジョヴォヴィッチが表紙を飾ってるときだけ買えば事足りちゃうんだよ(笑)
彼には時折、弁舌が立つ故に受けそうな誤解を心配するものの、それは当然、少ない知識や経験を大きく見せるための弁舌では毛頭なく、膨大な知識や経験を有するが余り溢れまくる弁舌であることは、まともなかたにはもはや明白であろう

 その水泳にしても、彼は元ジュニア国体だか何だかの選手で、キッカワコージと一緒だったんだっけ・・?(高校では、ヤクルト→巨人→阪神の広沢 克己と一緒・笑)
けどまあ、とりあえず、ふたりとも美大生にはあまり多くない“泳げる”ことで一致して、毎日毎日、日がな1日、コーラをがぶがぶ飲みつつショート・ホープをずばずば吸いつつ、くっちゃべってばっかしいるのもナンだからね、ある日、やはりキャンパスの敷地内にあるプールへ行って、水泳などにも興じてみることにした

 大学のプールっちゅうても、多摩美術大学っちゅうのは至ってヘンな大学で、そんな八王子の山奥にある、しかも美術大学だっちゅうのにプールは50m×8コースの公式用である
(飛び込み直後の最大深度は2m10cmで、背泳用の旗を張るポールまであった・笑)
1981年当時、50mの公式プールを備えた“大学”は日体大と多摩美だけって訊いたことがあるけど・・、防衛大学は“大学校”だからな

 多摩美術大学にはほかに“武道館”っちゅう、北の丸公園にあって皆さまもよくお馴染みのあのTHE BEATLESやLED ZEPPELIN、DEEP PURPLE、KISSやAEROSMITHが来日公演を行った、日本武道館をそのまま縮小したような形態の体育施設もあって、その約1/4強を占めていた拳闘部の設備は、はっきし云って1981年の当時ですら、つい最近、亀田親子が練習していたジムなんかよりも遙かに立派なものだった
何たって、リングは公式サイズだし、サンドバックやパンチング・ボールは“造り付け”だし、さらに温水シャワーまで完備されていたんだからね
多額の入学金やら授業料(当時ですら、ひとりあたま約500万円/4年間)を徴収されているんだから、それらの施設をまったく利用しないのは損!或いはバカ!っちゅうのもまた、ふたりで一致していた考えでもあった(笑)


 つづくぅ!

※文中敬称略