THE BEATLES・1 | 元祖!ジェイク鈴木回想録

元祖!ジェイク鈴木回想録

私の記憶や記録とともに〝あの頃〟にレイドバックしてみませんか?

 
 
 mixiはおもしろい
他人が書いた日記を読んで、我が身を振り返ることが多い最近・・

 ここにもコメントを戴いているjimmy pageさんが、彼の12月16日の日記でTHE BEATLESとの出会いを克明なんだけど簡潔(これがpageさんの文章の特徴)に記しているんだけど、んー、クドイようだけど、やっぱし同イ歳・・
やっぱし同じような想い出に、実際に会ったことはないんだけど、まるで中学や高校の同級生と再会しているよう・・
 ただ、pageさんは福井県にお住まいだから、例えば当時のラジオの受信局数や音楽誌などなど、音楽情報の収集にはかなりのハンディキャップがあったことと思われる
いちばんよく入るラジオ局がFENみたいな横須賀とはえらい違いだろうけど、それでも同じような体験を得ている情熱に、むしろ恐れ入る次第・・

 ぼくがTHE BEATLESの“メンバー構成”を知ったのは中学2年のとき(1975年)だ

 教育社という会社が発行していた『トレーニング・ペーパー』という学習教材の読者コーナーに、だれかが『LET IT BE』のジャケットの絵を描いて投稿していて、4人のメンバーの顔の下にそれぞれ(実際には入っていないんだけど)、“John Lennon”、“Paul McCartney”、“Ringo Starr”、“George Harrison”とレタリングされているのを見て、その4人の人物がTHE BEATLESだったことを初めて知った遅咲き者である

 その4人ひとりひとりは、そのもっとずっと前から知っていた

ジョン・レノン・・ 「イマジン」の、だろう?あのツマラナイ・・(笑)
ポール・マッカートニー・・ とウイングスなら「007/死ぬのはやつらだ」
ジョージ・ハリスン・・ 「マイ・スウィート・ロード」だ
リンゴ・スター・・ 「オンリー・ユー」じゃん!

 それもまた、ぼくたちの世代によくありがちな共通の“想い出”だと思うんだけど、NHKの“基礎英語”を聴く理由で、親からラジカセ買って貰うのが小学校6年生のときだから1973年・・ もちろん“基礎英語”なんか結局聴いてナイのも共通だろう(笑)
 その頃、聴きたかったのは日本のフォーク(井上 陽水、かぐや姫、ガロ、チェリッシュなど)や歌謡曲で、その合間に否応なしにかかって聴かされる、むしろメイワクでウザかった(笑)海外の“ポップス”とか“ポピュラー”と称されたジャンルの中で、それらの曲は頻繁にかかっていたからよく知ってはいたのだ
何しろ、当時は大して興味もなかったもんだから正確には記憶していないんだけど、当時は既に過去になっていたTHE BEATLESの楽曲よりも、それら4人のソロのほうが頻繁にかかっていたような気がする

 余談だけど、ほかにはミッシェル・ポルナレフ、スージー・クアトロ、トム・ジョーンズなんかもよく耳にしたような・・
そうそう、マーク・ボランもまだ生きていて、「20 Century Boy」がT REXの“新曲”だったような・・

 レコード以前のぼくの初期の音楽体験に、ラジオと並んでもうひとつ重要な物件に、このブログでも“改めてお伝えする”とか“その件はまた別項で”などと記しては、おざなりにしたままになっている月刊『明星』誌の付録の唄本、『YOUNG SONG』がある
これは当時、フォー・リーヴスとか(笑)、郷 ひろみが目当てで月刊『明星』誌を買っていた小学校の同級生の女の子たちから、いらなくなったものを無償で頂戴していた
 また、どこかの項にも記したと思うけど、ぼくが持っていた(ページをバラバラにしてあるけど、いまでもほとんど持っている)最古の『YOUNG SONG』は、横須賀駐留の海上自衛官を寄宿させていた母方の祖母宅の、古雑誌の山の中から見つけてきた1972年5月号の付録で、表紙はテニスの服を着て、テニス・ラケットでテニスのまりを突いている天地 真理・・ 云う迄もなく“あなたーを待つのォー テニスコォートォー♪”(「ふたりの日曜日」)の頃、ね(笑)

 新しい(だいたい1ヶ月前のもの)『YOUNG SONG』を入手すると、点取り虫的なヤな性格のぼくは、知っている曲のタイトルにラッション・ペン(\30ぐらいで買えた細書きのフェルト・ペンで、黒、赤、青がメインだったけど10色入りや12色入りもあった)で、マル印を付けていく・・
そして1冊の『YOUNG SONG』の中に何曲“知らない曲があるか?”を毎月のように反省したりしてした
さすがに確率計算まではしていなかったと思うけど(笑)

『YOUNG SONG』は表紙をめくると、まず歌謡曲のヒット曲、それから演歌でも何でも、たぶんレコード会社からオファーがあったものはすべて網羅し、途中からフォーク、また中綴じでギター・スコアやバンド・スコアが織り込まれていることもあった
これまた余談だけど、ぼくが“バンド”として認識した初めての“バンド”は、バンド演奏しているポスターが友だちのヒトシの部屋に貼ってあったチューリップで、甲斐バンドなどの“バンド”には楽隊と云うよりもむしろベルトのようなものをイメージしていた
つまり、甲斐バンド? 甲斐の国=山梨県の人々を繋ぐ意味?みたいな?(少しカワイイだろ?笑)

『YOUNG SONG』の巻末の安っぽいザラ紙のモノクロ・ページには、“ポップス”と称された要するに洋楽のコーナーが毎月あって、だいたい10曲前後掲載されていた
ほかの歌謡曲やフォークでもそうなんだけど、『YOUNG SONG』の楽曲掲載には何通りかあって、歌詞だけ(ただし1973年辺りから掲載曲全曲にギター・コードが付いている)、歌詞+小さい楽譜、見開き2ページどりの大きな楽譜などがあって、“ポップス”は英詞のカタカナ表記を記載する都合上なのか、大きな楽譜がよく使われていた
「オンリー・ユー」や「ワイルド・ワン」の楽譜はいまでも切り抜いたものを持っている

『YOUNG SONG』1ヶ月ぶん1冊にはたぶん、全部で200曲ぐらいは掲載されていたんじゃないかと思われるんだけど、その中で“知らない曲”を減らすには、“ポップス”も知らなければなるまい・・、点取り虫的な性格の都合上(笑)

 だから小学生の分際で「イマジン」も「007/死ぬのはやつらだ」も「マイ・スウィート・ロード」も「オンリー・ユー」も知っていたどころか、さすがに唄なんか唄うのは女の領分で男子の間では“かっこわるいこと”とされていたため、人前では演らなかったものの、うちでは『YOUNG SONG』を見ながら、ひとりでぶつぶつぶつぶつ唸っていたものである
もちろん英詞の意味など解るはずもなかったものの、その雰囲気や、何よりも異国情緒に浸れることは、後述するけど、アグネス・チャンとかにかまけていたほかの連中から自らを差別化する満足感や優越感に溢れて魅力的だったことは確かだ
 ぼくのことを“現代教育の歪みが産出した問題児”と称したのは、これもまたmixiで約23年振りに再会した、大学の学生寮で同室だった先輩hiokinさんだったと思うけど、さすがに的を得ているよなあ・・(笑)

 その中で好きだったのはもちろん、ハードロック風味抜群の「007/死ぬのはやつらだ」だけど、あれはリフの部分が激しいだけで、唄そのものは唄い易い、如何にもポール・マッカートニーらしいきれいなメロディなんだよね
ラジオでいちばんよく聴いた憶えがあるのはリンゴ・スターの「オンリー・ユー」で、スローなテンポもあって実に“浸れる”曲だった

 ジョン・レノンの「イマジン」がいい曲だ、なんて本当に思えたのはごく最近だ
当時はタルくて抑揚がなくて、本当にたいくつでつまらない曲だった
『YOUNG SONG』に載っていたジョン・レノンの顔も、丸フチの眼鏡をかけていて全然かっこよくなかったし、何かあのふざけたような雰囲気や態度に、当時ははっきし云って嫌悪感すら覚えていた
 おれはむかしからジョンが好きだった、なんて嘘は云いたくないねえ・・
ジョンはジョン自身が変貌(成長)しながら創作活動を続けて、聴き手の成長に依って多彩に受け取れる作品を多数残した、ジミー・ペイジやジーン・シモンズはもちろん、ポール・マッカートニーでさえ生まれ変わっても到達し得ない稀代の天才アーティストと、いまでは思えるけど、その間に費やされた33年もの月日もまた、それはそれでぼくの人生なんだからねえ

 それでもやっぱし当時の興味の中心は歌謡曲や日本のフォークだった
恐ろしいことに、西城 秀樹とか沢田 研二だったら、いまでもカラオケで歌詞の画面など観ることもなく、曲に依っては振り付けや表情まで真似て唄うことができたりスル・・(笑)
 洋楽への直接的なきっかけは、やはりクラスの女の子から貰った月刊『明星』誌本誌(月刊『平凡』誌だったかも知れない)に掲載されていた、当時人気絶頂だった沢田 研二と、新人“歌手”だった風吹 ジュンの対談記事で、このふたりは京都出身の同郷でもある

 その中で風吹 ジュンが自己の音楽体験として“中学の頃はもっぱらジャズ・・、廻りの女の子たちはGSとかにきゃーきゃー云ってたけど・・、あら、ごめんなさいね(笑)”(云う迄もなく相手の沢田 研二はそのGSの代表格、ザ・タイガース出身のため)とか何とか云う件りがあって、その中の“中学の頃はもっぱらジャズ”が、めちゃめちゃかっこいい!と思ったことに始まる
当時の風吹 ジュンは23歳ぐらいだったと思うけど、ぼくも大きくなったら“中学の頃はもっぱらポップス! 廻りのやつらはアグネス・チャンとかにわあーわあー喚いていたけど”と云えるようになりたいと切実に思うようになった
 まあ、幸いにも、お陰さまで“云えるようには”いちおうなれたみたいだけどね(笑)

 もちろん、月刊『GOLD WAX』誌に記したように、初期衝動はたぶん、歯医者に行く途中のドブ板通りで、たまたま開いていたバーの中から聴こえてきたLED ZEPPELINの「胸いっぱいの愛を」だったとも思うし、スージー・クワトロの「ワイルド・ワン」をカセット・テープに録音して、土曜日の深夜などに家族が皆んな寝静まったあとに、イヤフォンで音量を最大にして聴きまくっていたこともあることにはある
故にもっとマシなキッカケもないこともないんだけど、結局は“かっこいいか?わるいか?”だけが、横須賀くんだりのバカなクソガキの判断基準でしかなかったような・・

 同じ頃、既に冒頭のpageさんは「イエロー・サブマリン」を聴いて、純粋にレコード屋に走ったらしいけど、ぼくはこの時点ではまだメンバー構成の把握止まり・・(笑)
中学時代が終わる少し前に衝撃の爆音軍団(しかもベースの音がやたらでかい!)KISSと出会い、それまでヤワに聴こえていたTHE BEATLESに本格的に没入するのは、高校に入学して、最初のロック師匠である同級生のYから“これからロックを聴いていくなら、THE BEATLESだけは絶対に聴いておけ!”と忠告されてからになる

 つづくぅ!


※文中敬称略