ねこのきもち | 元祖!ジェイク鈴木回想録

元祖!ジェイク鈴木回想録

私の記憶や記録とともに〝あの頃〟にレイドバックしてみませんか?

 
 父方は曹洞宗、母方は神道、ぼくは当然猫曼陀羅教(の開祖)なのだが、
主に仏教系の49日の概念は、ひとがひととして生きる上で自然の成り行きと考える
 3月12日、日曜日は故茶々丸の49日だった

 だからというわけではないが、現在、彼女の後任を探している

 49日はごくごく自然的だった
茶々丸が死んじゃった・・、寂しい・・、だから、さあ!次のねこを探そう!などとは、
到底思えなかったし、いま現在でさえ、何が何でも、という気分ではない
永遠の眠りにはついたものの、茶々丸がいる実感がまだ残っている感じ・・

 ただ、それ(死別)があるから、ねこを飼うのは厭だ、という考えもない
もちろんそれはとてつもなく辛く、ここ数日間は森田 童子ばっかし聴いていたものの、
それ以上にねこと一緒に暮らしてきた幸福な想い出が、何倍も何千倍も何億倍もある
我が家の場合、存在していた魂の数が2ケだった期間はわずか1年と数ヶ月に過ぎず、
残り約16年と8ヶ月は最低でも3ケか、それ以上だっため、2ケに慣れていないと云うか・・

 天国の茶々丸はたぶん、
“もうあたしの代わりのねこを探すの!?”などとも思っていなければ、かと云って、
“あたし同様に我らねこ族をよろしく・・”などとも思っていないだろう

“あんたたちが何をしようと、あたしの知ったことじゃニャい”

 こんなところではないだろうか?
ねことは人間の考えや行動なんかにいちいち左右されない、至って誇り高い生き物なのだ
(だからロックっぽく、だから好きだ)

 あの学研が、TV-CMでも放映されていたBenesse Corporation(元の福武書店で、
有名なのは何と云っても“進研ゼミ”!笑)の『ねこのきもち』をパクった、
『うちの猫のキモチがわかる本』いう、非常に間違え易そうな類似品を刊行していて、
案の定、決して注意深くはない細君がやはり間違えて購入してきた
 彼女は“茶っちゃん(茶々丸のことをこう呼ぶ)に、してあげられなかったことも、
あったんじゃないか?と思って・・”と、ねこに対する理解不足を補う意味で、
茶々丸が亡くなったあとに買ってきたのだが、そんなことも全然ニャい、とぼくは思う
 それは彼女の16年8ヶ月もの生涯が証明しているでしょうに

 だが、彼女はやはり理解不足だったのだ(笑)
同誌の“猫に好かれる飼い主になるポイント”に(実は最初から矛盾しているのだが・笑)、
“猫には「この人が好き」という感情はなく、
あるのは「この人のそばは快適」などという感情だけです。”という記述があり、
それにまともにショックを受けていた

 学研はねこを飼うことを安易に啓蒙したりはしない、いい仕事をしていると思う

『ねこのきもち』の二番煎じどころか、老舗である『猫の手帳』を始め、
猫雑誌は既発他誌がいろいろあるため、より現実性が高い編集(教育)方針が窺えよう
表紙にも「一番“役立つ”猫雑誌」なんて銘打ってあるし・・
 それにしても、学習雑誌の学研や“進研ゼミ”のBenesseが、
何でいまになって、こぞって猫雑誌なんか出版しているんだ?(笑)

 だいたい、
・好かれたいから飼うのか?
・好きだから飼うのか?
・好きだったら好かれたいのか?
・好かれなかったら好きじゃないのか?

 この辺りの概念の狂いが、まさしく現世の混迷を引き起こしているようにさえ思える

 好きだったら、それでいいじゃないか!
“好かれたい”などという感情は、もちろん人間同士だったらあり得るって云うか、
ごくごく当然、自然的な成り行きなのかも知れないけど、相手はねこなんですよ!
そこに人間としての誇りを忘れてしまっていることに、初歩的な危険が見え隠れしている
また、“好かれなかったら好きじゃない”?
 ヤだねー、そーいう計算しかデキナイ人間は

 人間は高度な知能を有するが故に狂い、その誇りさえ失いかけることさえある
ねこは梅干し程度の大きさながらも必要最小限な脳しかないため、狂うこともなく、
たぶん古代エジプト文明の頃から現在まで、ほとんど変わらない膨大な歴史を持っている
人間の有史なんて僅か2,000年ぐらいのものだけど、人間の5倍の速さで歳をとるねこには、
有史もまたその5倍・・、10,000年であることをお忘れなく

 その現存し続けて来た最大の要因は“上手い生きかた”だろう

 もう随分前に『茶々丸』の項で記したように、ねこが寄って来るときには必ず何か、
寄って来る理由があり、100%間違いがないのは“あなたが好きだから”ではないことだ

 その茶々丸も、すべての面倒をみてくれる細君と、
ただおもちゃにしているだけのぼくを、明確に判別することはできていた
それはお腹が空いたときに、どちらに近付いてにゃあにゃあ云えば食事にありつけるのか、
よおーくわかっていたという意味である

 また、細君とぼく以外の人間も判別できていた
彼女はインターフォンのチャイムが鳴るだけで洗濯機の裏に隠れてしまうものの、
“ひょっとしたら、いいことがあるかも知れニャい・・”などという打算が働くのか、
まあ、だいたい1時間ぐらい経つとひょっこり出てくる
 ただし、元某P社の編集員だった某Iくんが遊びに来たときだけは、
仔猫だった頃にしつこく脅かされたトラウマが残っているのか、
彼が帰るまでは絶対に出て来ナイ・・ 結構、根に持つタイプでもある(笑)

 我々が食事をしていると、茶々丸は決まって細君のひざの上に乗りたがったので、
やっぱし細君のほうが好きなのかな?と思いきや、彼女曰く、
“単に肉厚の違いだけだと思う”
 わかってるじゃないのー(笑)

“すべての面倒をみる”ということは、ちゃんとした躾もしているということでもある
だから、ねこにしてみれば細君が恐いこともままあるわけだ
ぼくのほうは要するにねこっ可愛がりで、滅多に叱ったり怒鳴ったりしないものの、
彼女のほうは、必要があれば情け容赦なくスリッパで叩いたりしていたからね

 あ、ねこを飼う、または飼ってるひとに忠告・・
体罰はスリッパで叩くなど、瞬間的で物理的な制裁に留めましょう
背中にガム・テープを張り付けると、ねこはシャコタンになって一気に大人しくなり、
非常におもしろいものでもありますけど(笑)、ねこは厭がってそれを噛み、
ガム・テープには当然、化学的成分が含まれていることをお忘れなく・・

 けどやっぱし、茶々丸は細君を母親のように慕っていたと思うし、思いたい

 晩年、弱ってきてからの細君への頼りかたから、何となくそんな感じがした
確かに肉厚も体温も異なるものの(肉厚はぼくのほうが薄く、体温はぼくのほうが高い)、
細君のひざの上で寝ている茶々丸は、本当に安心しきっているように見えたからね
それはまた幸薄い我が家に訪れた、ごくごくほんの僅かな幸福な時間でもあった

 最期の朝、ぼくは横たわった彼女にスポイトで水をやったけど、
細君は彼女の弱った身体を両手で支えて、水入れのところに連れて行って水を飲ませた
“茶っちゃん、もう自分では立てないの”と泣きながら・・ すごく悲しい想い出!
 茶々丸はそれでも2口か3口、水を舐めて、結局それが死に水になった

 ちなみに茶々丸は“茶々丸っ!”などと呼ばれるのは細君に叱られるときだけで、
細君は常日頃から“茶っちゃん”、ぼくはそれをもじった“ちょっちん”とか、
“へちまる”などと呼んでいた(ぼくが叱るときは“あほたれ!”とか“たわけ!”笑)

 凄いのは、我々の会話の中に“茶々丸”だの“茶っちゃん”が出てきても、
一向に見向きも気付きもしないのに、ぼくが(おもちゃにして遊んでやろうと思って・笑)
“ちょっちんっ!”だの、“へちまるっ!”だの、“へちっ!”だの、
挙げ句の果てには、歳をとったので“バーサンっ!”などと呼んだとしても、
まず必ず、そのときにどこにいても、すたすたすたすたやって来ることだった
 それがねこの至ってシンプルな脳の構造で、自分の名前を認識しているのではなく、
“呼ばれていること”と、行けばわるいようにはされないことを憶えているのだ
つまり“あいつのそばでもいちおう快適”という打算、だけ(笑)
 ぼくなんぞに服従している意識も感情も当然、毛頭ナイ

『猫の手帳』でも『ねこのきもち』でも何でもいいんだけど、この程度のことは既に、
明治時代の夏目 漱石の『我が輩はねこである』に書かれてるじゃん(笑)
大島 弓子然り、梶原 一騎然り、手塚 治虫然り、先人の教訓は非常にためになるものであり、
10,000年もの間、変わらない歴史を持つねこもまた立派な先人(猫)そのものなのだ
 ねこから学ぶことは非常に多い

 ああ、また、ねこがいる暮らしがしたいなあ


※文中敬称略