多摩美術大学・1 | 元祖!ジェイク鈴木回想録

元祖!ジェイク鈴木回想録

私の記憶や記録とともに〝あの頃〟にレイドバックしてみませんか?

 
 多摩美術大学には本当に“入りたい”と思って入った

 神奈川県立横須賀高校に入学した辺りまでは、
己の将来を東京大学→外交官などとマジで描いていたモノホンのバカだったが(笑)、
それは母親の極めてわかりやすい学歴ブランド指向を満足させるには充分過ぎたし、
いちおう(中学レベルの)語学や社会科学が苦手ではなかった裏付けもあることにはあった

 しかし、流石がに現在の内閣総理大臣を輩出した県下有数の進学校である
入学直後の実力試験に於ける450人中181番というのが、ぼくのそのテの限界だった
以降3年間は良くても280番ぐらいで、あとは常に300番台をうろちょろしていたのでは、
当然、東京大学などを狙える番付でもタマでもなかった(笑)

 多摩美術大学というか、芸大/美大受験を志望した極めて初期の直接的な動機は、
そういった既に勝てそうもなくなってきたレースから離脱(リタイヤ)してしまうものの、
それでもそれに代わる、母親は元より自らも充分満足出来得るステータスとしての、
学歴を求めたという、何とも情けなく、また何とも不純極まりないものだった
 それ故に専門学校や専修学校という選択肢は最初から最後まで一度も考えていない

 それでも合格して卒業しているのだから、それなりの適性や才能があったのだろう、
などというお褒めだかお慰めのお言葉をよく頂戴する
 しかし、だからこそ巡り会い知り合ってきた、こちらのレースの受験生たちは、
その適性や才能はもちろん、その情熱に於いてぼくよりも遙かに上等な連中ばかりだった
ぼくの番付は450人中300番台どころか限りなく最下位に近く、
通常のレースを続けていたほうが、まだマシな可能性が残っていたような・・(笑)

 多摩美術大学は1980年と1981年に受験して、2回めの1981年に合格している
勝因は何と云っても(事後の自己採点に依るが)国語と英語が満点だったことだろう
 受験した美術学部デザイン科グラフィック・デザイン専攻はその当時、
競争倍率が毎年50倍を越え、東京大学理科Ⅱ類(医学部)に匹敵する狭き門だったため、
美術大学では珍しく、一次試験(学科試験)に於ける云わゆる足切り制度があった
 だが、ぼくは幸いにも(って云うか当然・笑)2回ともそのメには合っていない

 芸大/美大なんか志すやつは当然、絵が上手いと云うよりも絵が好きなやつである
彼らにとって学科試験の準備は苦手を通り越して苦痛に近く、それ故に敗北していった
 そーいう本来美術大学に進学するべき手強いライバルたちを前もって、
ある程度排除しておいてくれていたのが(当時の)この大学独特の受験システムであり、
それは実技試験の準備の開始が大幅に遅れていた(高校3年の春)ぼくにとっては、
非常にありがたく、非常に有利なシステムであったことは否めない
 結果的には450人中300番台の学力に救われているのだから

 東京芸術大学は同じく1980年と1981年の2回受験して2回とも落ちた
こちらは実技の一次試験(石膏デッサン)に足切り制度があり、2回ともその時点で落ちた
しかし、こちらはいちおう国立大学であり、ぼくたちの時代には実技試験より以前に、
大学入試センターに依る共通一次試験という学科試験を受けなければならなかった
 共通一次試験は当然一般の大学と共通していて5教科1,000点満点だったが、
700点以上採って東京芸術大学に受からなかったやつをぼくはひとりも知らない
 要するに如何に芸大/美大であっても、ひと定めは結局学力というわけなのだ

 ちなみにもし、こんなくだらないブログをご拝読戴いている、
(ひまな・笑)後人がいらっしゃるとしたら、先人の(ありがたい?)教えを授けておこう

 東京芸術大学に絶対に合格できる造形的な実技能力とは、身に着かないひとには、
一生身に着かない、もはやどうしようもない類の才能であることはまず間違いがないだろう
だが、共通一次試験(現在の大学入試センター試験?)で700点採れる学力は、
たぶん、東京サクセス予備校にでも通えば何とかなるんじゃないかと思われる・・
(ただし美術学部の場合、多摩美術大学に合格できる程度の実技能力は最低限必要だけど)
 さあ皆んな!筆を捨て(予備校がある)街に出よう!(笑)