転載元 コズミック・ディスクロージャーre-boot

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シーズン 5, エピソード 11 (2016年7月放送)

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David Wilcock: 今回のエピソードを皆さんにご覧いただけて嬉しいです。なぜなら皆さんをびっくりさせるような内容ですからね。今日はこれから皆さんにウィリアム・トンプキンスの略歴を見ていただきます。航空技術者である彼は、広範囲にわたる他では得られない知識を携えて、内部告発者として名乗り出てきました。彼は、私がこの番組でこれまでコーリー・グッドと話してきた秘密宇宙プログラムに関しての具体的なデータを持っています。
 
それでは、ウィリアム・トンプキンスの輝かしい経歴の驚くほど複雑な詳細をぜひご覧ください。どうぞ。
 
ウィリアム・トンプキンスによるナレーション
 
私はね、どういうわけか、9歳の子供だった頃、海軍船舶の模型を作ることに興味があったんだ。
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もっと情報を得るためによく図書館に行ってね、図書館で調べられることは図書館で調べた。それから、時折ニュースで様々な海軍の船について放送していればそれを見ていた。
 
父は私と兄をロングビーチに連れて行ってくれたよ。私たちはハリウッドに住んでいたんだ。(※当時トンプキンスの父S.M.Tompkinsはハリウッド映画の映像技師をしており、Standard Film Laboratoriesという一大映画製作会社を立ち上げたが、その後、企業買収に遭って経営権を奪われてしまう。)
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週末になるとよくロングビーチに行ったものさ。1930年初頭だった。当時の海軍は、日本の中国での動きを懸念していたよ。
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彼らは東海岸にあった海軍を西海岸に移動させようと決めたが、西海岸にはまだ港がなかったんだ。
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そこで彼らはロングビーチのすぐ近くの防波堤の建設を待たなければならなかった。
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この防波堤はかなり大きくて、東海岸の海軍と太平洋艦隊(西海岸の海軍)の両方が利用できる程だった。
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だから、これらの海軍の船が入港して来るのを見るのは皆にとって初めてのことだったんだ。そして私にとっては最高に素晴らしいことだった。なぜなら私は湾まで見に行って・・・写真撮影は禁じられていたから・・・スケッチでレーダーなどの機密指定の装置を描くことができたんだ。ロングビーチからほんの10~12ブロックのところに船が停泊していたからね。
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それに週末には海軍が一般人に乗船して船内を歩いて回ることを許していたんだ。だから父は私と兄を連れて行ってくれた。そして私は航空母艦にとても興味を持っていてね。当時は2隻あって、「レキシントン」と「サラトガ」がすぐそこに停泊していたんだ。
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この途方もなく巨大な空母は全長300メートル、高さは11階建てのビルほどもあるんだよ。
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乗船すると中は巨大な格納庫になっているんだ。目を疑うほどの大きさだよ。でも私にはそれら全てが誰かに建造された宇宙船のように見えたんだ。私にはそう見えた。私は自分でも「レキシントン」空母を作りたくて、もっと情報が必要だと思った。まずレーダーが必要だ。他にも5インチ砲20ミリ機関砲40ミリ機関砲、それらを取り付ける場所などの多くの詳細を知りたかった。なぜなら、当時彼らはほぼすべての船を戦闘用に改装していて、思いつく限りの最新装備を搭載していたんだよ。
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レーダーを見るために、私は飛行甲板を歩いて、管制塔の隣にある塔の一番上(煙突上部周囲のプラットフォーム)まであがったんだ。そこには影が落ちていた。私はその影に隠れてそろりそろりと少しずつレーダーに近づくことができたんだ。
 
そしてその形や大きさを割り出すことができた。それに私は実物通り数学的に正しく記憶して思い出すことが得意だったんだよ。
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それから次に私は空母の艦首の方へ歩いて行った。そこには秘密の蒸気式カタパルト(射出機)があって、航空機がより速く離陸できるようになっていた。
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もちろんそれは機密指定の技術だったが、私はただそこを歩き回って必要な数値を把握して戻ってきた。そして父の運転でハリウッドに帰る車中で、私は全体像のスケッチを描き始めるといった具合だった。
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そして翌週、平日の放課後に私は詳細図を描いたんだ。(※トンプキンスは9歳から模型作りを始めた。)
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そして次にその部分を模型に作っては付け足していった。
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こうして40ほどの船の模型のコレクションができると、誰かがその事を聞きつけた。
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新聞社もこの事を知って、私の海軍模型を記事にしたんだよ。(※上は1941年にSanta Monica Evening Outlook紙に掲載された17歳当時のトンプキンスが海軍大佐に模型を見せている写真。下の写真はトンプキンスが海軍のパイロットを経てダグラス社の航空エンジニアになっていた28歳時の別の新聞記事トンプキンスの著書によると、トンプキンスが高校1年生の時に初めてロサンゼルス・タイムス紙に掲載された記事以降50年間に渡って、トンプキンスのことを取り上げた記事は世界中に何百と存在するという。)
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そしてハリウッドブルーバードのブロードウェイ・デパートメント・ストアから、正面ウィンドウに私の模型を展示したいとリスエストがあったんだ。(※1941年トンプキンスが17歳の高校生だった時。)
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デパートはその展示会のために店内に大きな会場を設けてくれてね。机の上に模型を並べて、私にそこに座らせて、どうやって模型を作ったか説明をさせたんだよ。
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だから毎日放課後と週末は、私はそこでデモンストレーションをしていたんだ。だからかなり大変だったよ。でもこの展示について書かれた最初の記事が、何人かの海軍の人々の目に留まったんだ。彼らは休暇で基地からハリウッドにやって来ていた。もともとハリウッドに来るつもりだったのだと思うが、ついでに模型を見に展示会に来てくれたんだよ。
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彼らは模型の正確さに目を奪われていたよ。それでその一人が海軍諜報部の人間に連絡したんだ。ここから話は大変なことになった。

海軍諜報部がサンペドロから、ウィルシャー通りの父の職場までやって来た。彼らは父を拘束したんだよ。彼らは2日半取り調べをして、やっと父がロシア人でもスパイでも何でもないとわかった。

でもその会話の内容から、彼らは次にハリウッドにあった私たちの小さなアパートにやって来たんだ。私と兄は一つのベッドルームを共有していたんだが、実はその部屋には私が書き溜めた紙が部屋の壁半分の高さまで山積みになっていたんだよ。

諜報部員達はこの小さな部屋に入ってきて、これを目にした。よく調べていたよ。そして3日後にまたやって来て、もう一度見直した。また4日後にやって来て、私の手元にあったものほぼすべてに目を通した。

私は何百ものスケッチ、何百もの製図、何百もの全体像の下書きみいなものを書いていたんだ。なぜならそうやって色んな凄い技術を書き集めていって、それをどう一緒に組み立てれば模型になるかを思い描いていたのだからね。

そして、彼らは父を解放した。それから私たちは父の事業のためにロングビーチへ引っ越したんだ。浜辺からほんの11ブロックの近さだった。さあ、これで私は浜辺に行って、様々な最新の船を見放題になった。それが実に良かったね。

(※ここでインタビュー映像が一部カットされている。話はトンプキンスの小学生時代に一旦遡る。父親の映画製作会社が買収され、それまでの贅沢な暮らしができなくなったトンプキンス一家は、サンタモニカ病院の医師をしている叔父の家に2年間居候することになる。)

私はそこで2年間、特別学校に通った。それからハリウッドに戻り、ハリウッドの中学校に入学した。そして当然、機械製図の授業をとったよ。
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私の隣の席の女の子は、私の製図を描く速さに驚いていたよ。私は最後まで、授業では誰よりも先を行っていたんだ。なぜなら私はこれを独学でずっとやってきていたからね。
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卒業してハリウッド高校に入ると、その女の子が英語のクラスにいたんだ。私は内向的というわけではなかったが、ただ・・・英語の授業は好きではなかった。人前で話すとか、そういうことは好きではなかったんだ。

でもその彼女とは打ち解けて、よく話したりして、そうすると私は気持ちが落ち着いたんだ。(※著書ではこの少女がノルディックETであったことが明かされる。)

それはともかく、ある時先生が私を指名し、皆の前に出て話をするように言った。それで私は船の模型の話をして、空母に乗りに行ったことや駆逐艦、巡航艦、潜水艦などの話をした。

私はその授業で人前での話し方を学んだんだよ。そして私の船の模型について新聞に掲載されたことから、ハリウッド・スタジアムに呼ばれて話をすることになったんだ。他にも4つの異なるグループ(海軍・大学・高校・復員軍人の会)に私の船のコレクションについて話す機会があった。

だから私はもうプロの講演家のように話していたよ。それは全くその授業のお陰だったというわけさ。

(※ここでまた一部インタビューがカットされている。)

海軍の関係者の一人から私の父に、私と兄をウィルソン山天文台まで連れてくるように依頼があったんだ。そこはパサデナ東部にある、美しい山だ。
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そこの100インチ望遠鏡を覗けるなんて、特別な出来事だった。そして天文学者が行っているミーティングで話を聞くことができたり、彼らの日常の業務に参加させてもらったりしたんだよ。

そこで交わした質問と返答の中で、宇宙には何もないというような事を言われて、私は驚いてしまったんだ。

どういうわけか私はその時点で、宇宙には他にも人の住む惑星があるということがわかっていたからだよ。私はそれを確信していたんだ。

それで私は何度かそのことを話題にしようとしたんだが、当然、取り合ってもらえなかった。彼らはみな天文学を8年間やってきた人達だからね。宇宙で何が起きているかは知っているんだよ。でも知っているとは言わなかった。

そんなちょっとした事から、また海軍諜報部に父と私は拘束を受けて、サンペドロに連れて行かれることになった。そして彼らは私を海軍に入隊させて、あるプログラムを実行させるための手続きを行ったんだ。私にはそれが何なのかわからなかった。
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入隊直後は新兵訓練のブートキャンプではなく、海軍は私をヴァルティー・エアクラフト社に送った。カリフォルニア州ロサンゼルス郡ダウニーにあったこの会社は、後のノースアメリカン・スペースシステムズ(現在はボーイングの子会社)だよ。(※著書によれば、これはトンプキンスの海軍でのセキュリティー・クリアランスが付与されるまでの数ヶ月間限定の出向だった。)
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(※ここでまた話が飛んでいる。ヴァルティー社で4ヶ月の勤務を終えたトンプキンスは海軍に入隊し、最高機密「Q」クリアランスを与えられ、1942年~1946年までリコ・ボッタ少将のもとで機密任務に就く。父親の事業を手伝うために名誉除隊した彼は屋根材を売る仕事にすぐに嫌気が差し、1947年からノースロップ社で無尾翼機の開発に携わる。そして1949年からノースアメリカン(旧ヴァルティーの施設)で働き始める。)

ノースアメリカンでの仕事は、ETの通信システムの変換して、実用化して、複製すること(リバースエンジニアリング)だった。
 
その後ロッキードに移り、そこで風洞の開発に携わった。
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それから風洞の開発から引き抜かれて、別の研究に配属されたんだ。
 
ロッキードは確かに良い企業だったが、私はサンタモニカのダグラスには何かがあるというインスピレーションを得たんだ。(※プロジェクト・キャメローのインタビューでトンプキンスは、テレパシーでダグラス社に行くように言われたと語っている。)
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そこでダグラスに移り、製図工として契約した。
 
そして私は自分の船の模型を会社に持ち込んだんだよ。すぐにダグラス社は私の船の模型を至る所に持っていって、ダグラス・エアクラフト社の宣伝に使うようになった。
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そうして私はダグラス社の副社長に目をつけられて、大きなヨットの模型作りを頼まれたんだ。それはサンペドロ港に係留されていたドナルド・ダグラス社長のヨットのコピーだった。
 
それで私はサンペドロ港に行って、実物を計測して設計図を描いた。そしてかなり短期間で模型を作ったよ。やり方は全て心得ていたからね。そしてそれは社長にクリスマスプレゼントとして贈られたんだ。
 
こうして私はダグラス社の副社長と親しくなった。
 
それでダグラス社で製図工として働いて二週間した頃、課長が私の経歴を確認し始めた。当然、海軍での履歴もすべて載っているわけだよ。模型の製作中にそのことも副社長の耳に入っていた。

そして副社長は私をシンクタンクに配属したんだ。これが世に言う最初のシンクタンクだよ。(※設立当初のランド研究所のこと。しかしその後ダグラス社と袂を分かち、2つのシンクタンクに分裂する。トンプキンスが配属されたのはダグラス社側に残った方のシンクタンク。)ダグラス社の敷地内の壁で囲まれたエリアにあったんだ。
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中では200人が働いていた。そこでの私の任務の一つは、ある意味12年前からの仕事で、私がダグラス社に運んでいたものだったんだよ。私が海軍にいた頃、ダグラスまで飛行機で飛んで行ってダグラスのエンジニアリング部門に渡していた仕事だったのさ。
 
ここにファイルがあるよ。私もこれを見て確認したんだが、 これが私が海軍にいた時にダグラス社に届けていたプロジェクトの文書だよ。(※ランド計画/project RANDの書類。「非従来型の推進スキーム」と書かれている。)
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これが後に、初のシンクタンクになったんだ。後にできたTRW社のシンクタンク同様、私たちは地球外生命体のすべての側面について、軍事、商業、何でも調査するんだよ。
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私はアメリカ海軍の約16か18の異なる階級の戦闘艦隊の設計を任されたんだ。まだ存在もしなかった艦隊のだよ。
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これらの船は・・・大きいものは全長1kmから6kmものまであるよ。宇宙を飛ぶ船だ。
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宇宙船のための航空母艦だ。私はアメリカ海軍の宇宙船空母を設計したんだよ。それがやっと建造されたのが、70年代後半、ユタ州の地下施設においてだ。
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今君たちが見た絵はアメリカ海軍の宇宙船の絵だ。ソーラー・ウォーデンという。だからソーラー・ウォーデンはダグラス社内の技術開発シンクタンクから生まれたんだよ。

そしてそこから他にも様々なものが生まれたんだ。(※前回のエピソードの冒頭部分につながる)

付録:ウィリアム・トンプキンスの略歴
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<転載終了>