今日の一曲は、5月12日に掲載した日本歌曲
「お菓子と娘」
先日ご紹介した通り、作詞:西条八十、作曲:橋本國彦による1928年(昭和3年)の曲。
当時の曲としては、随分お洒落で洗練された曲。
先ずは歌詞の紹介から、
お菓子と娘
お菓子の好きな 巴里(パリ)娘
ふたり揃(そろ)えば いそいそと
角の菓子屋へ ボンジュ-ル
選(よ)る間もおそし エクレール
腰もかけずに むしゃむしゃと
食べて口拭く 巴里娘
残る半(なかば)は 手に持って
行くは並木か 公園か
空は五月の みずあさぎ
人が見ようと 笑おうと
小唄まじりで 噛(かじ)り行く
ラマルチーヌの 銅像の
肩で燕(つばめ)の 宙がえり
「お菓子と娘」は、パリ留学時代に西条が見かけた二人のパリジェンヌの行動を描いたもの。当時の日本では思いもよらぬ娘たちの自由奔放な振る舞いを半ば呆れ、半ば微笑ましい気持ちで詩人は活写している。
第一連
二人のパリジェンヌ(parisiennes)が軽やかな「ボンジュール(Bonjour)」
の挨拶で、街角のパティスリー(pâtisserie)に飛び込んで行く。
第二連
あれこれ迷わず、二人は目当てのエクレアに手を伸ばす。腰も掛けずにさっさと食べ、一口食べては手で口を拭う。
第三連
きっと行く当てがあるのだろう。娘たちは食べ残したエクレアを持ったまま店を飛び出し、通りを急ぐ。見上げれば、五月の明るい水色の空が広がっている。
娘たちの気分を映し出すような五月の空の色を「みずあさぎ(水浅葱)」という美しい一言で表現しているのは見事。また、「行くは並木か 公園か」という詩人の疑問を、その部分を短調に変えることで巧みに表現している。
第四連
「人が見ようと 笑おうと 小唄まじりで 噛(かじ)り行く」の部分はテンポも速く、短調に変わり、人目も気にせずエクレアをかじり闊歩していく娘たちの自由奔放ぶりが表現される。そして「ラマルチーヌの銅像の」という詩句から、行き先が「ラマルチーヌ公園(Le square Lamartine)」であることがわかる。曲は再びのびやかな長調にもどり、公園に入る娘たちへの挨拶代わりに、燕が銅像の肩の上で一つ宙返りを打つ。
因みに、「ラマルチーヌ公園」はヴィクトル・ユゴー大通り(l’avenue Victor-Hugo)とアンリ・マルタン大通り(l’avenue Henri-Martin)に挟まれた細長い小公園で、アンリ・マルタン側の入り口近くにラマルチーヌの像がある。
パリ到着後、西条が最初に過ごした下宿は「フザンドリ通り(la Rue de la Faisanderie)」にあり、その通りを南に下るとアンリ・マルタン大通りにぶつかる。大通りを左に少し行くとラマルチーヌ公園の入り口がある。
到着したのは五月。「空は五月の みずあさぎ」、「ラマルチーヌの 銅像の 肩で燕(つばめ)の 宙がえり」という詩句には、これから過ごすパリ生活への心弾む想いが投影されている。
参考)
〔児童文学〕をつくった人たち2
〔かなりや〕をつくった西条八十
-父 西条八十-
(西条嫩子著、ゆまに書房 ISBN4–89714-267-9 C0023)
イタリーを過ぎると、やがてナポレオンが生まれたコルシカ島、海中にある火山、ストロンボリの美景を眺めながら、やがてマルセーユ港に着き、パリへ汽車で辿りついた。
そして最初に予定された下宿、パリはブーロニュの森の入り口、リュ・ド・フェザンドリ(雉子屋横丁)に一夜をあかした。
翌朝めざめるとパリはなんという美しさであろう。丁度フランスはジョリ・メー(すてきな五月)で眩しい新緑、あでやかな花々、こいきに装って並んだ店舗の前には、憧憬の抒情詩人ラマルチーヌの銅像がそびえていた。
大正、昭和中期までの育ちの人ならたいていこの歌とリズムを楽しく覚えているだろう。
お菓子の好きな巴里娘
ふたり揃えばいそいそと
角の菓子屋へ「今日は(ボン・ジュール)」
この歌は夭折された天才作曲家橋本国彦氏作曲で当時の声楽のプリマドンナ荻野綾子氏が歌われた。(ラマルチ―ヌの銅像の肩で燕の宙返り)と最後の句にあるのは、父はパリの最初の頃の明るい感激の情景をそのまま歌いあげたらしく、「王様の馬」以上に、ふしぎに人びとに歌われつづけている。(p59~p60)
〔西条八十(1892~1970)〕
西条八十と言うと童謡や流行歌のイメージがあるが、優れた詩人、また仏文学者でもあった。
早大英文科在学中三木露風の「未来」に参加、1912年日夏耿之介らと高踏的詩誌「聖杯(のち仮面)」を創刊。また、鈴木三重吉の「赤い鳥」に「金糸雀(かなりあ)」「肩たたき」などの多くの優れた童謡を発表し、北原白秋と並び注目を集めた。1919年、処女詩集「砂金」を発表。繊細な象徴派詩人として注目される。
1924年にはソルボンヌ大学に留学し、詩人ポール・ヴァレリーらと交遊。2年後に帰国して1945年まで早大仏文科教授を務めた。終生フランス象徴派の詩人アルチュール・ランボーへの関心は衰えることなく、1967年には大著「アルチュール・ランボオ研究」を完成している。
〔橋本國彦(1904~1949)〕
東京都本郷に生まれる。1923年東京音楽学校(現東京芸術大学)に入学し、ヴァイオリンと指揮法を学ぶ。また、同校研究科で作曲も学ぶ。歌曲「お菓子と娘」「黴」などで作曲家としての名声を獲得。その一方でポピュラーなCM曲、歌謡曲も手掛けた。
1934年から1937年までウィ―ンに留学。エゴン・ヴェレスに師事し、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーやブルーノ・ワルターの演奏に接する。また、帰国途中ロスアンゼルスに寄り、アルノルド・シェーンベルクに師事し、積極的に新しい音楽を学んだ。
作曲家、編曲家として活躍する一方で、教師としても優れており、1933年母校の教授に就任。門下には、矢代秋雄、芥川也寸志、團伊玖磨、黛敏郎らがいる。
一般によく知られている曲としては、「お菓子と娘」の他に「お六娘」「富士山見たら」「朝はどこから」等がある。
〔ラマルチーヌ(Alphonse de
Lamartine)(1790~1869)〕
フランスの詩人、政治家。1816年シャルル夫人を知り愛し合ったが、翌年に夫人は他界。その絶望から「瞑想詩集(Les Méditations poétiques)(1820)」を書き文名を高める。以後10年間外交官生活を送り、1833年に代議士、1848年の二月革命で要職(外務大臣)についたが、1851年に失脚。その間も文学活動を続け、「新瞑想詩集(Nouvelles Méditations)(1823)」、「諧調詩集(Harmonies poétiques et religieuses)(1830)」、「ジョスラン(Jocelyn)(1836)」、「静思詩集(Les Recueillements)(1839)」などを発表。晩年は借金返済のため多くの小説を書いた。
〔ラマルチーヌ公園(Le square Lamartine)〕
ラマルチーヌ公園、アンリ・マルタン大通り側の入り口
パリ16区、ヴィクトル・ユゴー大通りとアンリ・マルタン大通りに挟まれた長さ105m、幅40mの小公園。近くにはブローニュの森がある。1825年に造られたが、1886年、ラマルチーヌの功績を讃え、「ラマルチーヌ公園(Le square Lamartine)」と名付けられ銅像が建てられた。
1886年に建てられたラマルチーヌのブロンズ像
この詩に描かれているのはこの銅像
現在もアンリ・マルタン大通り側の入り口にラマルチーヌの立像があるが、これは1951年に制作された石像。もとのブロンズ像はナチス占領下の1942年に没収され、溶かされてしまった。
現在のラマルチーヌ像
[メロディー譜 ]
鮫島有美子
小川明子








