*ペスト 翻訳 V(5)* | ミスター・ビーンのお気楽ブログ

ミスター・ビーンのお気楽ブログ

好きな音楽の話題を中心に、気の向くままに書いていきます。

アルベール・カミュ


la peste 翻訳



「ペスト」(1947)



V  (5)

この記録も終わりに近づいている。ベルナール・リゥ医師もそろそろ自分がこの記録の作者であることを打ち明ける時機だ。しかし最後の事件を語る前に、リゥとしては少なくとも自分がこの記録を書くに至った根拠を明らかにし、あくまで客観的な語り口で証言しようと努めてきたことを読者諸君に理解してほしいと思っていることだろう。ペスト期間中ずっと、職業柄彼は大部分の市民に会い、彼らの感情を汲み取ることが出来た。それ故自分が見聞きしたことを報告するのに彼はうってつけの立場にいたわけだ。しかし彼は、然るべき節度を持って報告したいと思ったのだった。一般に、リゥは専ら以下のことを心掛けた。自分の目で見ることが出来たもの以外は報告しないこと。ペストと闘った仲間たちが結局抱くには至らなかった様々な思想をあたかも彼らが持っていたかのように誤解させないこと。そして、偶然や不幸のせいで偶々彼が手に入れることになった資料だけを用いることである。

ペストというある種の犯罪が行われたときに証言する羽目になったのだから、彼は善意の証人にふさわしい一定の節度を守った。しかし同時に、誠実な心が命ずるままに、彼は断固として犠牲者の側に立ち、確実に共有していた唯一のもの、つまり愛と苦しみと流刑を共有している人々、つまり同胞である市民の側に加わることを望んだのだった。それ故、市民たちが味わった苦悩のうち、彼が共有しなかった苦悩は一つとして無く、彼自身の状況ではない状況も一つとして無かったのだ。

忠実な証人となるために、リゥは特に当時の人々の行為、記録、そして風聞を報告しなければならなかった。しかし、個人的立場で語るべきこと、つまり彼自身の期待や試練については沈黙しなければならなかった。それらの事柄を語った場合は、専ら同胞である市民たちを理解し、あるいは、読者に理解させることが目的であり、たいていの場合、市民たちが漠然と感じていたものに出来る限り明確な形を与えることが目的であった。実を言えば、彼はこの理性的な努力を苦にしなかった。ペスト患者たちの数限りない声に直接自分の打ち明け話も加えてみたいという気になっても、彼自身の苦しみの中で同時に市民たちの苦しみでないものなど何一つないという思い、苦しみというものがしばしば孤独なものになる世の中に於いて、それは有り難いことだという思いが彼を踏み止まらせたのだった。つまり、彼は皆のために語らねばならなかったのだ。


la peste V ㉘

しかし、我が市民たちの中で少なくとも一人、リゥ医師が擁護しかねる人物がいる。実際、その男について、ある日タルーはリゥにこのように言っていた。「彼の本当の罪は唯一つ、心の中で子供たちや大人たちを死に至らしめているものに賛成していたことだ。他のことについてなら、僕には彼が理解できる。しかしこのことばかりは、その罪を許してやらざるを得ない。」従って当然のことながら、この記録は、無知な心、つまり孤独な心の持ち主であるこの男について語ることで幕を閉じることになる。

お祭り騒ぎで喧しい大通りを抜け、グランとコタールの住む通りに曲がると、そこには何と警察の非常線が張られていて、リゥ医師は足止めを喰らった。予想外のことだ。遠くから聞こえるお祭り騒ぎの騒めきのせいで、その界隈は静まり返っているように思えたし、リゥは人気のない通りを想像していたのだった。彼は身分証を取り出した。

「どうにもなりませんな、先生」と警官は言った。「一人気狂いが居ましてね、群衆に向けて発砲しているんですよ。でもここに居てください。先生の手を借りることになるかもしれない。」

その時、リゥの方にやって来るグランの姿が見えた。グランもまた全く事情が呑み込めていなかった。彼も足止めを喰らい、自分の住居から銃弾が数発発射されているのを知ったのだった。実際、遠くからでもその建物の正面が見えていて、それは冷え冷えとした最後の陽光で金色に染まっていた。その正面部分の周りには、誰もいない大きな空間がくっきりと切り取られ、それが向かいの歩道の所まで続いていた。舗道の真ん中には、帽子が一つ、それに薄汚れた布切れが一枚はっきりと見て取れた。リゥとグランに見えたのは、はるか遠く、通りの向こう側に一列に並ぶ警官の姿だった。それは二人の前進を阻んだ警官の列と並行していて、その背後ではこの界隈の住民が数人、足早に行き来していた。よく見ると、片手にピストルを握り、グランの住居の真向かいの建物の入り口に潜む警官の姿が何人か見えた。グランの住居のある建物の鎧戸は全て閉まっていた。しかし、3階の鎧戸が一つ外れているように思えた。通りはすっかり静まり返っている。市の中心から流れて来る音楽だけが断片的に聞こえていた。ある時、グランの住居の向かいにある建物の一つから2発の銃声が鳴り響き、ばらばらになった鎧戸の破片が飛び散った。それから再び静寂が訪れた。遠くから眺めると、それに昼間の大騒ぎの後では、リゥの目にはそれはやや非現実的なものに映るのだった。

「あれはコタールの部屋の窓だ」ひどく動揺してグランが突然口を開いた。「しかし、コタールは姿をくらましてしまったのだが。」

「何故発砲するのです?」とリゥが警官に尋ねた。

「奴の注意を反らせているんですよ。必要な装備を備えた車を待っているわけでして。何故なら奴は、あの建物の入り口から入ろうとする連中めがけてぶっ放しているんでね。警官が一人負傷してるんです。」

「何故彼は発砲したのですか?」

「分かりません。通りで皆陽気に騒いでいたんです。最初の銃声が鳴った時、通りにいる連中は訳が分からなかった。二発目で叫び声が起こり、一人が負傷し、皆逃げ出したって訳です。気狂いですよ、まったく!」


la peste V ㉙

ふたたび静寂が訪れ、時間の流れがのろくなっていくように思えた。不意に、通りの向こうに犬が現れるのが見えた。リゥが久々に目にする最初の犬の姿だ。それは薄汚れたスパニエル犬で、飼い主たちはそれまで隠していたに違いない。犬は壁に沿って小走りに走って行った。グランの家がある建物の入り口近くに来ると、犬は躊躇い、お座りの姿勢になって上体を反らし、身体にたかった蚤を食い尽くそうとしていた。警官たちは数回呼子を鳴らし、犬を呼んだ。犬は頭を上げ、それから意を決して舗道を渡り、舗道に置かれた帽子の臭いを嗅いだ。その瞬間、3階からピストルが一発発射された。犬はいとも簡単にひっくり返り激しく四肢を動かすと、終には横ざまに倒れて長い間身体を痙攣させていた。向かいの建物の入り口から5,6発の銃声が応酬し、再びコタールの部屋の鎧戸を粉々に砕いた。再び静寂が訪れる。日が少し傾き、夜の闇がコタールの部屋の窓に近づき始めていた。リゥ医師の背後の通りで、ゆっくりとブレーキが軋む音が聞こえた。

「おいでなすった。」と警官が言った。

彼らの背後では警官たちが車から出てきて、数本のロープと梯子を一つ、それに油を浸み込ませた布で包まれた細長い二つの包みを運んでいた。警官たちが向かったのは、1区画の家並みを囲むとある街路で、グランの住む建物とは反対方向にある。少しして、目には見えぬがその家々の戸口で何か動きがあったようだった。後は待つのみ。例の犬はもう動かなくなり、今は赤黒い血だまりの中に身を横たえていた。

突然、警官たちに占拠されたそれらの家々の窓から軽機関銃が掃射された。一斉掃射の間、再び標的となった鎧戸は文字通り木っ端微塵に砕け散り、後には真っ黒な平面が口を開けていた。しかし、リゥとグランの居る場所からは中の様子をはっきりと見分けることは出来ない。一斉掃射が終わると、今度は別の角度から、つまり、もっと遠くの家から再び軽機関銃の射撃音が聞こえた。弾丸はおそらく正方形の窓の中に打ち込まれていたのだ。そのうちの一発がレンガの破片を弾き飛ばしていたのだから。同時に、警官が三人、舗道を走り抜け建物の入り口に駆け込んだ。間髪を入れず、更に三人が入口に飛び込み、軽機関銃の射撃が止んだ。再び人々は待った。建物の中で2発の銃声が遠く響いた。それから騒めきが大きくなり、引き立てられるというより担がれるようにして、小柄なシャツ姿の男が一人、絶えず喚きたてながら出て来る姿が見えた。まるで奇跡のように、それまで閉じられていた街路の鎧戸が全て開き、窓は物見高い連中で鈴なりになった。一方、向かいの家並みからは大勢の人々が姿を現し、通行止めの柵の後ろに詰め掛けていた。一瞬、舗道の真ん中でその小柄な男の姿が見えた。ようやく両足を地面に下ろし、警官によって両腕を後ろ手にされている。男は喚きたてていた。警官が一人男に近づき、落ち着き払って、ある種の熱意を込めて、両こぶしで力任せに男を2回殴りつけた。

「あれはコタールだ」とグランが口ごもりながら言っていた。「奴は気が違ったのだ。」

コタールは倒れていた。更に、例の警官が地面に横たわり身体を丸めている彼を力任せに蹴り飛ばしているのが見えた。それから混乱した集団は再び動き出し、リゥ医師と彼の年長の友の方に向かってきた。

「立ち止まらないで!」と例の警官が野次馬に向かって言った。

その集団が彼の前を通り過ぎる時、リゥは目を背けた。


la peste V ㉚

グランとリゥ医師は、日が暮れ始める中、その場を後にした。まるでその地区が陥っていた無気力がこの出来事によって振り払われたかのように、他から孤立していた街路も歓喜する群衆のどよめきに改めて充たされるのだった。自宅の下でグランはリゥ医師に別れを告げた。これから作業に取り掛かるところなのだ。しかし階段を上がるとき、グランはリゥにジャンヌに手紙を書いたこと、今、自分は満足していることを告げた。それに、例の文章作りを再開したことを告げ、「私は形容詞を全て削除しました。」と彼は言った。

そしていたずらっぽい微笑みを浮かべ、別れの挨拶の代わりにいかにももったいぶって脱帽してみせた。しかしリゥはコタールのことを考えており、喘息持ちの老人の家に向かう間ずっと、コタールの顔面にさく裂した鈍いパンチの音が耳から離れなかった。おそらく、死んだ人間のことより罪を犯した人間のことを考える方が辛いことだったのだ。

リゥが老患者の家に着いたとき、空は全て既に夜の闇に食い尽くされていた。寝室からは自由を謳歌する遠い騒めきが聞こえ、老人は相変わらず淡々とエンドウ豆を鍋から鍋へ移し替えていた。

「連中が喜んでいるのも無理有りませんや」と老人は言っていた。「人さまざまですからな。ところで、先生のお仲間はどうされてます?」

爆発音が彼らの所まで届いていたが、それは平和なものだった。子供たちが爆竹を鳴らしていたのだ。

「死にました。」ゼイゼイ鳴る胸に聴診器を当てながらリゥ医師は答えた。

「えっ!」やや呆然として老人は言った。

「ペストでね。」とリゥは付け加えた。

「なるほど」少し時間をおいて老人は頷いた。「一番いい連中が先に逝くってわけだ。それが人生ってもんです。でもあの人は自分が何を望んでいるか分かっていましたな。」

「何故そんなことを言うのです?」聴診器をしまいながらリゥ医師は尋ねた。

「理由なんざ有りません。あの人は意味のない話をする人じゃなかった。要するに、わしはあの人を気に入ってたんですよ。でも、仕方ありませんや。他の奴らはこう言いますよ『ペストだ。ペストに罹ったんだ』ってね。それどころか、だから勲章をよこせなんて言いかねません。でもねえ、ペストが何だと言うんです?それも人生、それだけのことですよ。」

「きちんと吸入をしてくださいよ。」

「ああ!ご心配には及びません。まだまだくたばりゃしませんよ。連中が皆あの世へ行くのを見届けてやりまさあ。生きる術を心得てますからな、このわしは。」

遠くでは歓喜の叫び声が老人の言葉に応えていた。リゥは寝室の途中で立ち止まった。

「テラスに行っても差し支えありませんか?」

「ええ、勿論!あそこから連中の姿を見てみたいってわけですな?どうぞご遠慮なく!でも、あの連中はいつでも変わり映えしませんぜ。」

リゥは階段に向かった。

「ねえ、先生。ペストの死者のために記念碑を建てるってのは本当ですか?」

「新聞にはそう書いてありますな。石柱かプレートという話だが。」

「きっとそんなことだと思ってましたよ。それに演説もあるでしょうな。」

老人は息苦しそうに笑っていた。

「この部屋からも聞こえますよ。『我らが死者たちは…』、それから飯にありつくってわけだ。」


la peste V ㉛

リゥは既に階段を上っているところだった。家並みの上では冷たい大空が煌(きらめ)き、丘の近くでは星々が火打石のように硬質の火花を放っている。その夜は、タルーとリゥがペストを忘れるためにこのテラスにやって来た夜とそれほど違いはなかった。あの時よりも断崖下の潮鳴りの音は大きい。空気は動かず、軽やかで、秋の生暖かい風が運んでいた潮の息吹はあまり感じられない。しかしながら、市中の騒めきは波の音と共に相変わらずテラスの足元まで押し寄せていた。しかし、その夜は解放の夜であり、反抗の夜ではない。遠くに赤黒い光が見え、それは灯火に照らされた大通りと広場の所在を示していた。今や束縛から解き放たれた夜の中で、欲望は歯止めを失い、リゥの耳に届いているのはその欲望の轟(とどろき)だった。

薄暗い港から最初の公式祝賀花火が打ち上げられた。花火が打ち上げられる度に、町中が長く微かな歓声をあげた。コタール、タルー、そしてリゥが愛し失ってきた男たちや妻、彼らは皆命を失い、あるいは有罪となり、忘れ去られていた。老人の言う通りだ、人間というものは常に変わることは無い。しかしそれが、彼らの強みであり無邪気さなのだ。リゥは、正にこのテラスの上で、あらゆる苦しみを乗り越え、自分もまたそうした人間の一人であることを感じていた。ますます強く、ますます長くなる歓声、このテラスの足元まで長々と木霊する歓声の中で、様々な色の、ますます多くの光の玉が打ち上げられるにつれて、リゥ医師はこのテラスの場面で完結する物語を認(したた)めようと心に決めたのだった。それは黙して語らぬ人間にならぬためであり、あのペストの犠牲者たちのために証言し、彼らに加えられた不正と暴力の思い出を少なくとも書き残しておくためであり、災禍の中で学ばれるものを伝え、人間には軽蔑すべきものよりも称賛に値するものの方が数多くあることを率直に伝えるためであった。

しかし彼は、この記録が決定的な勝利の記録にはなり得ないことを知っていた。この記録は、今回のペストでやり遂げねばならなかったことの証言にしかなり得ないものなのだ。おそらくこれから先も恐怖と恐怖が飽くことなく繰り出す武器に立ち向かい、どれほど身も心も引き裂かれようと、聖人にはなり得ず、災禍を甘受することを拒否する全ての人々、医師であり続けようと努める全ての人々が成し遂げねばならぬことの証言にしかなり得ないものなのだ。

実際、市中からテラスに聞こえてくる歓喜の叫びに耳を傾けながら、リゥはこの歓喜が常に危険にさらされていることを思い起こしていた。何故なら、喜びに浸っている群衆は知らないが、書物の中に書き記されていること、つまり、ペスト菌は決して死ぬことも姿を消すことも無く家具や下着の中で何十年も眠っていること、ペスト菌は寝室や地下室で、トランクやハンカチや反故(ほご)の中で辛抱強く待機していること、そしておそらく、人類に不幸と教訓をもたらすためにネズミどもを目覚めさせ、幸福に浸る一都市にそれらを送りこみ、そこで息絶えさせる日がいずれやって来ることを彼は知っているのだった。  (完)


(ミスター・ビーン訳)

ペタしてね