*サン=テグジュペリ年表 ⑦* | ミスター・ビーンのお気楽ブログ

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≪サン=テグジュペリ年表⑦≫

1926年
4月、彼は中編小説「飛行士(L'Aviateur)」を友人のジャン・プレヴォが編集長を務める雑誌「銀の船(Le Navire d'Argent)4月号」に発表します。

雑誌「銀の船」
サン=テグジュペリ

中編小説「飛行士」
サン=テグジュペリ


それまで勤めていたサウラー社を辞め、フランス航空会社(la Compagnie Aérienne Française)の指導教官のポストを得ます。

6月、姉のマリー・マドレーヌが結核で亡くなります。

10月、ボシュエ校時代に親交のあった元校長、スュドゥール神父が、ラテコエール(Latécoère)航空会社の総支配人、ベッポ・ド・マスィミにアントワーヌを紹介します。

ラテコエール社の業務はトゥールーズ・ダカール間の航空郵便の配達です。
ベッポ・ド・マスィミはアントワーヌをパイロットとして採用したのでした。
同社の全てのパイロットの例にもれず、アントワーヌは先ず数か月間工場勤務を行い、その後飛行機を一機任されます。それからトゥールーズ・カサブランカ路線、次にカサブランカ・ダカール路線に就航することになります。

サン=テグジュペリ

1927年
10月、アントワーヌはモロッコ南部のキャップ・ジュビ(Cap Juby)中継基地の主任に任命されます。その任務は、ラテコエール社と反体制派のムーア人、およびスペイン人との関係改善を図ることでした。この北アフリカの地で、アントワーヌはパイオニアの役割を果たした飛行士たち、ギョメやメルモと知り合い友人になります。

アンリ・ギョメ
サン=テグジュペリ

1928年
中継基地主任として、砂漠に不時着したり、ムーア人に捕えられたパイロットを救出する業務を果たす一方で、夜は執筆に宛て小説「南方郵便機(Courrier sud)」を書き続けます。


Courrier sud(南方郵便機)
サン=テグジュペリ



≪サン=テグジュペリの言葉≫

« La grandeur de la prière réside d’abord en ce qu’il n’y est point répondu. »
(Extrait du Citadelle)


≪祈りの偉大さは先ず、それが全く聞き入れられぬことにある。≫
(城塞より)


サン=テグジュペリ

« Connaître, ce n'est point démontrer, ni expliquer. C'est accéder à la vision. »
(Extrait du Pilote de guerre)


≪知るということは、決して証明したり説明したりすることではない。それは、ヴィジョンに到達するということだ。≫
(戦う操縦士より)


サン=テグジュペリ

(ミスター・ビーン訳)

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