*ペスト 翻訳 V(3)* | ミスター・ビーンのお気楽ブログ

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アルベール・カミュ


la peste 翻訳



「ペスト」(1947)



V  (3)

翌々日の正午、市門が開かれる数日前のことだが、心待ちにしていた電報が届いているだろうかと考えながら、リゥ医師は自宅に帰る途中だった。ペストの最盛期に劣らずその頃も彼は消耗する日々を送っていたのだが、これで終にペストから解放されるという期待が、彼の中のあらゆる疲労を消し去っていた。リゥは今、希望を抱き、そのことを喜んでいた。人は四六時中気持ちを張りつめ、四六時中果敢に立ち向かうことは出来ない。感情を解放し、闘いに向けて編み込まれた力の束を終には解きほぐすことは幸福なことなのだ。もし心待ちにしている電報が好ましいものなら、リゥもやり直すことが出来るだろう。そして彼は、誰もが一からやり直すべきだと考えていた。

リゥは管理人室の前を通りかかった。新しい管理人が、窓ガラスに顔を押し付けてリゥに微笑んでいた。階段を上りながら、改めて自分の顔を眺めてみると、リゥの顔は疲労と物資の欠乏のせいで青ざめていた。

そうだ、この現実離れした出来事が終わったら自分はやり直そう、少しばかり運が良ければ… しかし、リウが玄関のドアを開けると同時に、母親が彼を出迎え、タルーの具合が良くないと告げた。タルーは朝起床したのだがベッドから出ることが出来ず、再び床に就いたところだと言う。リゥの母は不安に思っていた。

「多分、大したことはないでしょう。」と息子は答えた。


タルーは長々と横たわり、その重い頭を長枕に沈めていた。分厚い掛布の下に、頑丈な胸の輪郭が見て取れた。熱があり、頭痛に苦しんでいる。タルーはリゥに、はっきりとは分からぬがペストに似た症状だと言った。

「いや、まだ何とも言えない。」タルーを診察した後、リゥは言った。

しかしタルーは喉の渇きにひどく苦しめられていた。廊下でリゥ医師は母親に、これはペストの初期症状かもしれないと言った。

「まさか!」と母は言った。「有り得ないわよ、今になってそんな!」

そしてそのすぐ後で、

「あの人を家で預かりましょう、ベルナール。」

リゥはじっと考えていた。

「僕にはそんな権利はありません」と彼は言った。「でも、近いうちに市門が開かれることになる。母さんがいなければ、それは僕が行使する最初の権利になると思っているのですが。」

「ベルナール」と母は言った。「私たちを二人とも家に置いてちょうだい。知ってるはずよ、私は改めてワクチンを打ったばかりなんだもの。」

リゥ医師はこう答えた。タルーもワクチンを打ったばかりだ。しかし、多分、疲労のせいで、最後に血清を注射せず、予防措置をいくつか手抜いてしまったにちがいない。

リゥは既に診察室に向かうところだった。リゥがタルーの寝室に戻ってくると、タルーは、リゥが巨大な血清のアンプルを抱えているのを見た。

「ああ!やっぱりな。」とタルーは言った。

「いや、しかし用心のためだ。」

タルーは返事をするかわりに、片腕を差し出し、彼自身がこれまで他の患者たちに施してきた長々と続く注射に耐えた。

「今晩になれば分かる」とリゥが言った。そして彼はタルーを正面から見つめた。

「それから隔離するということか、リゥ?」

「君がペストに罹っているかどうかはまだ全く分からんよ。」

タルーは苦しげに微笑んだ。

「隔離命令が下されずに血清が打たれるのを見るのはこれが初めてだな。」

リゥは顔を背けた。

「母と僕が君の看病をする。君は此処にいた方がいいからね。」

タルーは黙り、リゥ医師はアンプルを片づけながら、タルーが口を開くまでは振り向かなかった。結局、リゥがタルーのベッドの方に向かうと、患者はじっとリゥを眺めていた。疲れた顔をしていたが、タルーの灰色の目は穏やかだった。リゥはタルーに微笑みかけた。

「出来れば眠るんだ。僕は直に戻って来るから。」

ドアの所に来ると、リゥを呼ぶタルーの声が聞こえた。リゥはタルーの所に引き返した。

しかしタルーは、言うべきことをはっきり口にすべきかどうか思いあぐねているように見えた。

「リゥ」と思い定めたようにタルーは言った。「僕には何もかも話してくれなきゃいけない。僕にはそれが必要なのだ。」

「約束するよ。」

タルーはそのいかつい顔を少しゆがめて微笑んだ。

「ありがとう。僕は死にたくはないから、闘うさ。もし勝負に負けるなら、立派な最期を遂げたいのだ。」

リゥは身をかがめ、タルーの肩を掴んだ。

「だめだ」と彼は言った。「聖人になるには、生きなくてはいけない。闘うんだ。」


la peste V ⑬

日中、厳しかった寒気が少し緩んだが、午後になると烈しい雨と雹が寒気に取って代わった。黄昏時には、空は少し明るくなったが一層身に染みる寒さが訪れた。夜になって、リゥは自宅に戻った。オーバーを着たまま、彼は友の寝室に入った。母が編み物をしている。タルーはそれまで身じろぎ一つしていなかったように見えたが、熱で真っ白になった両唇が、彼が今耐えている闘いの激しさを物語っていた。

「それで、どうだい?」とリゥ医師が尋ねた。

タルーは、ベッドから身体を乗り出し、その分厚い肩を少しばかりすくめた。

「まあね」と彼は答えた。「負け戦だな。」

リゥ医師はタルーの上に身をかがめた。燃えるような皮膚の下には、リンパの腫れが幾つか出来ていて、胸からは地下の溶鉄炉が放つようなごうごうという音が聞こえてくるような気がした。奇妙なことに、タルーは腺ペストと肺ペストの両方の徴候を示していた。リウは身を起こすと、血清が十分効果を発揮するにはまだ時間がかかると言った。しかし、タルーの胸に波のように押し寄せる熱のせいで、タルーが何とか伝えようとした言葉も呑み込まれてしまった。

夕食後、リゥと彼の母親は病人の傍らに座を占めた。タルーにとって、闘いの夜が始まっていた。そしてリゥは、ペストの天使とのこの厳しい闘いは明け方まで続くことになるのを知っていた。タルーの最良の武器は、そのがっしりとした両肩や幅広い胸ではなく、今しがたリゥが刺した注射針の下から噴き出してきた血潮、そしてその血潮の中にあり、魂よりも更に奥底にあるもの、いかなる科学もまだ明らかにすることができぬものが最良の武器であった。そしてリゥは、友が闘う様をただ見守るしかなかったのだ。これからリゥが行うこと、つまり、膿瘍の促進、強壮剤の接種、リゥは数か月の間何度も失敗を繰り返してきたおかげで、それらの効力の程は熟知していた。実際、彼の唯一の任務は、あの偶然というものに何度かチャンスを与えることだった。偶然というものは、十中八九、挑発しなければ働かないものなのだ。そして今や、偶然に是非とも働いてもらわねばならぬ事態になっていた。何故なら、リゥの前に現れているのは、彼を困惑させるペストの姿だったのだ。ペストは再び、自分に向けられた戦略をはぐらかすことに意を注ぎ、予想だにしない場所に姿を現し、既に居座っていると思える場所からは姿を消していた。ペストは再び、人の意表を突くことに意を注いでいたのだ。


la peste V ⑭

タルーは身じろぎもせず闘っていた。夜の間、タルーは病魔の攻撃に対して、一度として身体を動かすことは無かった。専ら、そのずんぐりとした肉体と沈黙を武器として闘っていたのだ。また、一度として言葉を発することも無かったのだが、それは彼にはもう気を散らす余裕も無いことを彼なりに告白していたことになる。リゥはただ、友の目を眺めることでその闘いの経過を追っていた。タルーの目は交互に開いたり閉じたりを繰り返し、瞼は眼球にぎゅっと押し付けられたかと思えば、次には緩み、視線はある物を凝視しているかと思えば、今度はリゥ医師とリゥの母の方に向けられるのだった。リゥと目が会うたびに、タルーはひどく苦しげに微笑みを浮かべていた。

ある時、通りを駆け抜ける足音が聞こえた。それらは、遠くから聞こえる雷鳴を前にして逃げ惑う足音のように思えた。雷鳴は次第に近づき、終には街路を稲光で満たした。再び雨が降りだし、やがてそれに雹が混じり、歩道に当たってパチパチという音を立てていた。窓の前の大きなカーテンが波打つように揺れた。暗い部屋の中で、リゥは一瞬雨に気を取られていたが、枕元の明かりに照らされたタルーの顔を再び凝視していた。母は編み物をし、ときどき顔を上げて注意深く病人を見つめている。リゥ医師は今や、為すべきことは全てやり尽くしていた。雨の後、寝室の沈黙は一層深まり、目に見えぬ戦いの無音の喧騒だけが寝室を満たしていた。不眠に苛立つリゥ医師の耳には、この沈黙の果てに、ペストが流行している間彼に付きまとっていたあの音、あの静かで規則的なひゅうひゅうという音が聞こえてくるような気がするのだった。リゥは母に向かい身振りで、床に就いたらどうかと勧めてみた。彼女は頭(かぶり)を振り、目を輝かせて編み針の先を眺め、分からなくなってしまった編み目を念入りに調べた。リゥは立ち上がり、病人に水を飲ませ、再び席に着いた。

通行人たちは、雨の止み間をみて、足早に歩道を歩いていた。やがてその足音は疎らになり、遠ざかっていった。リゥ医師は初めて、この夜が、夜遅く散策する人々で溢れ、救急車の鐘の音が聞こえないこの夜が、ペスト以前の夜と変わらないことに気付くのだった。それは、ペストから解放された夜なのだ。そして、寒気と光と群衆に追い立てられたペストは、都市の暗い深部を逃れ、この暑い寝室に避難し、ぐったりとしたタルーの肉体に最後の攻撃を加えているように思えるのだった。この災禍は、もう都市の上空をかき混ぜることは無かった。しかしそれは、この寝室の重い空気の中で静かにひゅうひゅうという音を立てていたのだ。何時間も前からリゥが耳にしていたのは、その災禍の立てる物音だった。ここでもまた災禍が止むことを、ここでもまたペストが敗北宣言を下されることを待たねばならなかったのだ。


la peste V ⑮

夜が明ける直前に、リゥは母の方に身をかがめた。

「八時に僕と交代できるように、母さんは寝なくちゃいけない。寝る前に目薬をするんだよ。」

リゥの母は立ち上がり、編み物を片付けてベッドに向かった。タルーはしばらく前から既に両目を閉じたままだった。汗のせいで、固い額の上で髪がカールしていた。リゥの母が溜息をつくと、病人は目を開いた。自分の方に身をかがめている優しい顔が目に入ると、波のように引いては寄せる熱の下で、タルーの顔には再び頑ななまでに微笑みが現れるのだった。しかしその目はすぐに閉じられた。リゥは一人残り、先ほどまで母が座っていた肘掛け椅子に身を沈めた。通りの騒めきは消え、今はすっかり静寂が支配している。室内は、朝の寒気が感じられる時刻になっていた。

リゥ医師はうとうとしたが、明け方の最初の馬車の物音がそのまどろみを破った。リゥは身震いをしてタルーを眺め、小康状態が始まっていること、そして病人も眠っていることを理解した。遠ざかっていく馬車の、木と鉄の車輪がたてる音がまだ聞こえていた。窓を見ると、日はまだ暗い。リゥ医師がベッドに向かうと、タルーは無表情な目でリゥを眺めていた。まるでまだ目が覚めていないといった様子だ。

「眠っていたんだね?」とリゥが尋ねた。

「うん。」

「呼吸は楽になっているか?」

「少しね。それは何か意味があるのか?」

「いや、タルー、何の意味も無い。君も僕同様、朝に小康状態が訪れることは知っているだろう。」

タルーは頷いた。

「ありがとう」と彼は言った。「僕の質問には常に正確に答えてくれ。」

リゥはベッドの足元に座っていた。傍らに病人の両脚が感じられる。それは墓石の上の横臥像の肢(あし)のように長く、硬直している。タルーの呼吸は前よりも力強くなっていた。

「これから熱がぶり返すんだな、リゥ。」とタルーは息切れした声で言った。

「そうだ。しかし正午になれば、はっきりしたことが分かる。」

タルーは両目を閉じ、残った力を掻き集めているように見えた。その顔には疲労の表情が読み取れる。彼は、既に体の奥のどこかで蠢いている熱が上がるのを待ち受けていた。目を開くと、その眼差しは虚ろだ。自分の方に身をかがめているリゥの姿が目に入るときにだけ、その眼差しに輝きが戻った。

「水を飲み給え。」とリゥは言った。タルーは水を飲むと、再び頭を枕にがくんと落とした。

「長引くな。」とタルーは言った。

リゥはタルーの腕を取ったが、タルーは視線をそらし、もう反応しなかった。それから突然、熱が逆流して額の所まで達し、その様子は外からはっきりと見て取れた。まるで体内に築かれた堤防に熱が穴を開けたかのようだ。タルーの眼差しが再びリゥ医師を捉えると、リゥは緊張した表情を浮かべてタルーを励ました。タルーは再び微笑もうとしたのだが、彼の微笑みは固く食いしばった上下の顎の骨と白っぽい泡で張り付いた上下の唇を超えることは出来なかった。しかし、その固く険しい顔の中で、両目はまだ有らん限りの勇気の光を湛えて輝いていた。


la peste V⑯

七時に、リゥの母が部屋に入って来た。リゥ医師は診察室に戻り、病院に電話をかけ、彼の代わりを務めてくれる医師の名を伝えた。リゥはその日の診察も延期することに決め、束の間、診察室の長椅子に横になったが、すぐに起き上りタルーの寝室に戻った。タルーは頭をリゥの母の方に向けていた。タルーは、傍らの椅子に座り、両腿の上で両手を組み、彼の方に身をかがめている小さな影法師のような彼女の姿を眺めていた。彼があまりにもまじまじと彼女を凝視しているので、リゥの母は自分の唇に指を一本当て、立ち上がって枕元の灯りを消した。しかしカーテン越しに、朝の光がたちまち部屋に射し込んできた。そして、程無く病人の顔が闇の中から浮かび上がったとき、病人が相変わらず彼女を見詰めている姿が目に入った。彼女はタルーの方に身をかがめ、長枕を整え、再び体を起こして、束の間、汗に濡れ、乱れたタルーの髪に片手で触れた。そのとき、遠くからか細い声がして、「ありがとう。今は全て順調です。」と言っているのが聞こえた。リゥの母が再び腰を下ろすと、タルーは既に目を閉じており、口はしっかりと閉ざされていたのだが、その疲れ切った顔には再び笑みが浮かんでいるように思えるのだった。

正午に、熱は頂点に達していた。体の奥底から湧き上がるような咳が病人の身体を揺さぶり、病人はただ血を吐くばかりだった。リンパ節の膨張は止まっていたが、それは相変わらずそこにあり、ナットのように固くなって関節の窪みに捻じ込まれていたので、リゥはリンパ節の切開は不可能だと判断した。熱と咳の合間に、タルーは時折まだ二人の友の姿を眺めていた。しかしやがて、その目が開かれる回数は次第に少なくなり、そのとき見る影も無く憔悴した彼の顔を照らす光は、その度毎にますます青ざめたものになって行った。タルーの肉体を痙攣させ身震いさせていた雷雨が、次第に間遠になっていく稲妻で彼を照らし、タルーはゆっくりとその嵐の奥底へ流されて行った。リゥの目の前にあるのは、今や仮面のように生気を失った顔に過ぎず、そこにはもう微笑みは消え失せていた。あれ程身近にいた親しい友の肉体が、今や何度も槍の穂先に貫かれ、人知を超えた病魔に焼き尽くされ、空を吹き渡るあらゆる憎しみの風によって捻じ曲げられ、リゥの目の前でペストの海の中に沈み込んでいく。そしてリゥは、友が難破していく姿を目の当たりにしても、ただ手をこまねいているしか無かったのだ。彼は再びこのペストという災禍に対して、武器も無く、援助も無く、空手のまま、心つぶれる思いで、岸に留まらねばならなかった。そして最後に、己の無力を恨む涙故に、リゥはタルーが突然壁に向かい、虚ろな呻き声を上げ、まるで体内のどこかで大事な綱が断ち切られたように息を引き取る姿を見ることが出来なかった。


la peste V ⑰

その日の夜は、闘いの夜ではなく静寂の夜だった。世の中から切り離されたこの寝室の中で、今や服を着せられたタルーの亡骸の上には驚くべき静けさが漂っているのをリゥは感じた。それは、もう今から何日も前の夜、ペストを眼下に見下ろすテラスの上で、市門への攻撃の後に訪れたあの不思議な静けさだった。あの頃、リゥは、言わば彼が見殺しにせざるを得なかった人々のベッドから立ち上るあの静寂のことを既に考えていた。それはどこでも同じ沈黙、同じ厳粛なる幕間(まくあい)であり、闘いの後に常に訪れる同じ静けさ、敗北のもたらす静寂であった。しかし、今彼の友を包んでいる静寂、それはひどく密度の高い静寂であり、街路やペストから解放された都市の静寂と緊密に調和していたので、今度ばかりは決定的な敗北、戦いに終止符を打ち、その後に訪れた平和そのものを癒しようの無い苦しみに変えてしまう敗北であることをリゥはひしひしと感じていたのだった。リゥ医師には、タルーが、結局、心の平安を再び見い出したのかどうかは分からない。しかし、少なくとも今この瞬間は、息子を奪われた母親に休戦などは無いように、また友を埋葬する男に休戦などは無いように、彼にとってもこれから先二度と心の平安が訪れることなど有り得ないという気持ちになっていた。

外は、相変わらず寒い夜であり、澄み渡り、凍った空には星々が凍りついていた。薄暗い寝室の中は、寒気が窓ガラスに重くのしかかり、それは極地の夜の青白い息吹のようだった。ベッドの傍らでは、リゥの母が見慣れた姿勢で腰を下ろし、彼女の右半身は枕元の灯りに照らされていた。部屋の中央では、灯りから離れて、リゥが肘掛け椅子に座り待機している。妻のことが何度か心をよぎったが、リゥはその度毎にその思いを跳ね除けていた。


la peste V ⑱

宵の口は、通行人の靴音が冷え冷えとした闇の中ではっきりと聞こえていた。

「準備は全て整ったのかい?」とリゥの母が言った。

「ええ、電話をかけておきました。」

それから二人は押し黙ったまま通夜を続けた。リゥの母は時々息子に目をやり、じっと眺めていた。自分が見つめられているのに気が付くと、その度毎にリゥは母に向かって微笑むのだった。通りからは、聞きなれた物音が次々と聞こえていた。まだ許可は出されていないのだが、再び多くの車が行き来していた。車は、素早く舐めるように舗道を走り過ぎ、姿を消してそれから再び姿を現していた。話し声や呼び合う声が聞こえ、再び静寂が訪れる。馬の蹄の音が聞こえ、市電が二台、カーブの所で軋んだ音を立てる。おぼろげにざわめきが聞こえ、再び夜の息吹が訪れる。

「ベルナール?」

「ええ。」

「疲れていないの?」

「ええ。」

リゥは、そのとき母が考えていること、母が自分を愛していることを知っていた。しかし彼は、人を愛することは大したことではないということ、少なくとも、愛というものはそれ自身の表現を見出せるほど決して強くは無いことも分かっていた。だから、母と自分はこれからも常に無言のまま愛し合うことになる。そして今度は母が、あるいは自分が、生涯に渡りこれ以上情愛の気持ちを相手に伝えることが出来ぬまま死んでいくのだ。自分はタルーの傍らで生きてきたのだが、事情は同じだった。互いの友情を真に体験する暇もないまま、タルーは今夜死んでしまった。タルーの言い方を借りれば、彼は勝負に負けてしまったのだ。しかし、生き残った自分、つまりリゥは、何を勝ち取ったと言うのか?手に入れたものと言えば、ペストを知ったこと、そして後にそれを思い出すこと、友情を知ったこと、そして後にそれを思い出すこと、情愛を知っていること、そしていつの日かそれを思い出さねばならなくなること、ただそれだけなのだ。人がペストとのゲームで勝ち取ることが出来るものと言えば、知識と記憶だけ。多分それが、タルーが勝負に勝つと呼んでいたものの正体なのだ!


la peste V ⑲

再び車が一台通り、リゥの母は椅子の上で少し身体を動かした。リゥは母に向かって微笑んだ。彼女はリゥに、自分は疲れていないと言って、すぐにこう付け加えた。

「お前はあの山(注:リゥの妻が入院しているサナトリウムのある山)に行って、休息しなけりゃいけないわ。」

「勿論だよ、母さん。」

そう、自分はあの山に行って休息しよう。勿論そうするつもりだ。それも記憶を増やす機会になる。しかし、それが勝負に勝つということなら、希望を奪われ、知識と思い出だけで生きることはひどく辛いことに違いない。おそらくタルーはそんな生き方をしていたのだ。そして、幻想を抱かぬ人生に、彼は何か不毛なものを意識していたのだ。希望のない心の平安などは存在しない。タルーは人が人に(それがいかなる犯罪者であれ)死刑判決を下す権利を認めなかったのだが、それでも人に死刑判決を下さずに済む人など一人もいないこと、ときには死刑を宣告された犠牲者ですら死刑執行人になることを知っていた。そんなタルーは苦痛と矛盾に満ちた人生を送って来たのであり、決して希望など抱くことは無かったのだから。だからこそ、彼は聖人になることを望み、人々に奉仕することで心の平安を求めたのだろうか?実を言えば、その点についてリゥは何も分からなかったし、それはさして重要なことではなかった。彼がこの先抱くことになるタルーのイメージは、リゥの車のステアリングを両手で握り、リゥを送っていくイメージ、あるいは、今は動くことも無く横たわっているあのがっしりとした肉体のイメージだけになるだろう。命の熱気と死のイメージ、それこそがタルーについての知識であった。

おそらくそんなわけで、その朝、リゥ医師は妻の死の知らせを冷静に受けとめた。彼はそのき診察室にいた。リゥの母が、殆ど走らんばかりにリゥ宛ての一通の電報を届けた来たのだった。それから彼女は配達人にチップを渡すために診察室から出て行った。外から戻ってくると、彼女の息子は、窓から見える港に訪れた壮大な朝の光景を頑なに凝視していた。

「ベルナール。」とリゥの母は言った。

リゥ医師は放心したように母の姿を眺めまわした。

「その電報は?」と母は尋ねた。

「そうなんです」とリゥ医師は頷いた。「一週間前です。」

リゥの母は顔を背け、窓に目をやった。リゥ医師は黙ったままだ。それから彼は母に向かって、泣かないでくれ、自分は覚悟していた、それでもやはり辛いと言った。ただ、そう言いながらも、リゥは自分の苦しみが昨日今日のものではないことを知っていた。何か月も前から、そして二日前から、同じ苦しみが続いていたのだ。


la peste V ⑳

(ミスター・ビーン訳)

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