*ペスト 翻訳 V(2)* | ミスター・ビーンのお気楽ブログ

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アルベール・カミュ


la peste 翻訳



「ペスト」(1947)



V  (2)

しかし、ペストがオランから遠ざかり、それが音も無く抜け出してきた人知れぬ棲家に戻るように思えたとき、都市には茫然自失している人物が少なくとも一人はいた。タルーの手帳を信じれば、それはコタールである。

実を言えば、統計数字が下がり始めてからは、この手帳はかなり奇妙なものになっている。疲労のせいだろうか?筆跡が読みにくくなり、あまりにも頻繁に話題が変わるのだ。おまけに、しかも初めてのことなのだが、手帳は客観性を欠き、かわりにそこには私事に関わる考察が書きこまれているのだった。こうして、コタールの件についてかなり長い記述をしている途中で、猫を追いかける例の老人について短い報告が顔を出したりする。タルーの言を信じれば、ペストのせいで老人に対する彼の敬意が決して何一つ奪われることは無く、ペストの流行が終わっても、それ以前と変わらず、老人はタルーの関心を引いていた。そして、不幸なことに、この先老人がタルーの興味を引くことが出来なくなってしまうのだ。しかし、タルーの老人に対する好意に変わりはなかった。というのも、タルーは老人の姿を再び見ようと努めていたのだから。1月25日の夜から数日経つと、タルーは例の横丁の片隅に待機していた。猫たちは約束をたがえず姿を現し、陽だまりで体を温めていた。しかしいつもの時間になっても、鎧戸は頑なに閉じたままだ。その後何日もの間、タルーはもう決して鎧戸が開かれるのを見ることはなかった。その事実からタルーは奇妙な結論を引き出していた。つまり、この小柄な老人は気分を害しているか、死んでいるかのどちらかだ。気分を害しているとすれば、それは老人が、自分の行為は正しい、猫が来なくなったのはペストのせいだと考えているからだ。しかし死んでいるとすれば、喘息病みの老人の場合と同様に、この小柄な老人が聖人であったかどうか考えてみなければならない。タルーは聖人であるとは思わなかったが、この老人の場合には聖人になる≪兆し≫があると考えていた。≪おそらく≫と手帳は指摘していた。≪人は聖人に近い所までしか到達できない。その場合、人はささやかで、寛大な悪魔的行動に甘んじるしかあるまい≫。


la peste V ⑥

相変わらずコタールについての考察に混じり、しばしばあちこちに散らばった形で、タルーの手帳には他の多くのコメントも書かれている。一つはグランに関わるもので、グランは今や回復期にあり、まるで何事も無かったように仕事に復帰していた。その他は、リゥ医師の母親についての記述だ。共に暮らしたおかげで、タルーとリゥの母が交わすことの出来た会話の幾つかが事細かに記されている。タルーはリゥ夫人の控えめな態度を特に強調し、彼女が何事も単文で表現すること、ある一つの窓を特に好むことを強調していた。それは静かな通りに面した窓で、彼女は夕方になるとその後ろに座り、黄昏が部屋を満たし、次第に濃さを増し、身じろぎもせぬ彼女のシルエットを溶かし込んでいく灰色の光の中で、彼女の姿を一つの黒い影にしてしまうまで、夫人はやや居住まいを正し、両手はじっと動かぬまま、注意深い視線を注いでいるのだった。そして、夫人が身軽に部屋から部屋に移動していくこと、タルーの前ではっきりとした形で決して示されることはないのだが、彼女の全ての行い、全ての言葉の中にその光を見て取れる夫人の善意、そして最後に、タルーによれば、決して深く考えることはないのだがそれでも夫人が全てを知っているという事実、これ程寡黙で目立たぬ人ではあるが、例えそれがペストであれ、いかなる傑出した人物を相手にしても引けを取らぬという事実を強調していた。ところが、このあたりから、タルーの筆跡には奇妙に衰弱した印が現れていた。後に続く行は読みにくく、この衰えの新たな証拠を示すかのように、最後の言葉は、初めて私的な内容を語る言葉になっていた。≪僕の母もそうだった。僕は母の中に見られる夫人と同じ控えめな生き方を愛していたのだ。僕が常に戻りたいと思っていたのは母の所だ。あれから8年になるが、僕には母が亡くなったとは思えない。母は単に普段よりも更に少しばかり目立たなくなったのだ。僕が振り向いたとき、母はそこには居なかった。≫

la peste V ⑥

しかし、話をコタールのことに戻さなくてはならない。統計数字が下がってからは、コタールは何かと口実を設け、何度かリゥを訪ねていた。しかし実を言えば、その度毎にコタールはこの疫病の動向についての予測をリゥに尋ねていたのだ。「先生は、ペストが突然、何の前触れもなく、こんな風に終息するとお思いですか?」コタールはその点については懐疑的だった。少なくとも彼は、そう断言していた。しかし、こう何度も質問を繰り返しているからには、彼の信念も口で言うほど堅固なものではないらしい。一月半ば、リゥはコタールの質問にはかなり楽観的な返事をしていた。そしてその度毎に、こうした楽観的な答えはコタールを喜ばせるどころか、不機嫌から意気消沈に至るまで、日によって様々な負の反応を引き出していた。後に、リゥ医師はコタールにはこう言ってやらざるを得なくなった。つまり、統計では好ましい指標が示されてはいるが、まだ勝どきはあげないほうが良いと。

「言い換えれば」とそのときコタールは言っていた。「どうなるか分からんということだ。ペストは明日にでも勢いを盛り返すかも知れないのですね?」

「そうだ、もっとも、逆に治癒の動きが加速される可能性もあるがね。」

この不確かな状況は、誰にとっても不安なものであったが、コタールは明らかにほっとしていた。そしてタルーの目の前で、コタールは自分が住む界隈の商店主たちと会話を交わし、その中でリゥの見解を広めようとしていた。もっとも、彼はわざわざそんなことをする必要もなかったのだ。何故なら、初めての勝利がもたらした熱狂の後、多くの人々の心には再び疑念が生まれ、県庁の宣言が引き起こした興奮が収まった後でもその疑念は生き残ることになったからだ。コタールは、人々がこのように再び不安に駆られている様子を眺め、ほっとしていた。また、別の時には、コタールは落ち込んでいた。「そうさ」と彼はタルーに言っていた。「結局は市門を開くことになるんだ。今に判るが、そうなれば、みんな俺のことなんか見捨ててしまうんだ。」


la peste V ⑧

1月25日まで、誰もがコタールの情緒不安定ぶりに気付いた。これまで懸命に近所の連中や知人たちを味方につけようとしていたのに、ここ数日の間ずっと、彼はその同じ連中を激しく非難していた。少なくとも表向きは、そのときコタールは世間から身を引き、手のひらを返したように人付き合いを断ち始めていたのだ。レストランでも劇場でも、また、お気に入りのカフェでも、もうコタールの姿を見かけることは無くなっていた。とは言っても、ペストが伝染する以前に彼が送っていた生活、つまり、慎ましく人目につかぬ生活に戻っているようにも思えなかった。コタールはすっかり自分のアパルトマンに引き籠り、食事は隣のレストランから運ばせていた。ただ、夜になると、彼はこっそり外出し、必要な品物を買い込み、店を出ると人気のない街路に飛び出していくのだった。そんなとき、たまたまタルーがコタールと出会っても、コタールは一言二言、素っ気ない言葉で返事をするだけだった。それから出し抜けに、今度はまた社交的になり、ペストのことを滔々と弁じ、相手の意見を聞きたがり、そして毎晩、得意げな様子で人波の中に飛び込んでいくのだ。

県庁から終息宣言が出された日(1月25日)、コタールは完全に消息を絶った。その二日後、タルーは街を彷徨っているコタールと出会った。コタールはタルーに、周辺地区の自宅まで自分を送ってくれと頼んだ。タルーは、その日は特に仕事疲れがひどかったので躊躇った。しかし相手は、どうしてもと言って譲らない。ひどく動揺している様子で、ぎくしゃくした身振りを交えながら、声高にまくしたてていた。コタールは、県庁の宣言で本当にペストが終息すると考えているかとタルーに尋ねた。タルーの意見はこうだった。無論、行政府が宣言を出したところで、それだけで災禍が終息するわけではない。しかし、不測の事態が起こらぬ限り、近いうちにペストの流行が終わると考えるのは妥当だろう。

「そうですね」とコタールは言った。「不測の事態が起きなければね。しかし、不測の事態というものは常に起きるものですよ。」


la peste V ⑨

それに、県庁は言わば不測の事態を想定して、市門を開くのを二週間遅らせているとタルーはコタールに指摘した。

「良くやりましたよ」とコタールは相変わらず陰気で動揺した様子で答えた。「県庁は事態の成り行きについて、さしたる理由も無く楽観的に語ることも出来たわけですからな。」

そうかもしれないが、それでも自分は近いうちに市門が開かれ、普段の生活に戻ることを考えておいた方が良いと思っているとタルーは言った。

「まあ、そういうことにしておきましょう」とコタールは言った。「そういうことにしておきますよ。でも、何をもって普段の生活に戻ると言っているのですか?」

「映画館に新しい映画が入って来る事さ。」と微笑みながらタルーは答えた。

しかしコタールの顔には微笑みは無かった。彼は、ペストがその後の市民生活を何も変えず、以前と同じように、つまり、まるで何事も起らなかったように全てが再開すると考えていいものかどうか知りたがっていた。タルーの考えはこうだ。ペストの影響で都市が変わる所もあるし、変わらぬ所もある。無論、我が市民たちが最も強く願っているのは、今もこれから先も以前と何も変わっていないかのように振る舞うことである。それ故、ある意味、何も変わらないだろうが、別の意味では、どれ程忘れようとしても全てを忘れることは出来ないし、少なくとも市民の心の中にペストは何らかの痕跡を残すことになる。それを聞いて、この金利生活者はきっぱり断言した。自分は心のことには興味がない、心の問題など毛ほども心配していない。自分に興味があるのは、行政機構そのものが変化しないかどうか、例えば、全ての公共業務がペスト以前と変わらずに機能するのかどうかということだ。タルーは、その点については自分には全く分からないと認めざるを得なかった。タルーの意見では、ペスト期間中混乱していたこれらの業務は、再び始動するには多少の困難を伴うと考えておかなければならない。それに、これも考えらることだが、新たな問題が山ほど生まれており、それ故、少なくともかつての業務の再編成が必要になるだろう。

「ああ!」とコタールは言った。「多分そうなりますよ。なるほど、誰もが何もかも一から始めなければならないわけだ。」


la peste V ⑩

二人はコタールの家の近くまで来ていた。コタールは活気づき、必死に楽観的になろうとしていた。彼は、都市が再び動き始め、過去を消し去りゼロから出発する様を想像していた。

「そうだな」とタルーが言った。「結局、君にとっても多分事態は丸く収まることになるだろう。ある意味、これから新たな生活が始まるのだ。」

コタールの家のドアの前で、二人は握手をしていた。

「おっしゃる通りです」とコタールが次第に興奮しながら言っていた。「ゼロから再スタートするなら、素晴らしいことですよ。」

しかし、通路の陰から二人の男が突然姿を現していた。お前らはいったい何の用があるんだと問いただすコタールの声がタルーの耳に届くか届かぬうちに、かしこまった公務員風のいでたちの連中はコタールに向かって、君はコタールに間違いないかと尋ねていた。するとコタールは押し殺したような叫び声を上げ、踵を返すともう闇の中に姿を消していた。タルーも二人の男たちも身じろぎ一つする暇も無かった。我に返ると、タルーはその二人の男たちに何の用かと尋ねた。二人は控えめで丁寧な口調で、身元調査に伺ったと答え、コタールが去って行った方向におもむろに進んで行った。

家に戻ると、タルーはその出来事を手帳に書き止め、そのすぐ後に自分が疲れていること(それは筆跡に十分表れていた)を記していた。さらに、自分にはまだやることが沢山あるが、だからといって準備しないで済むということにはならないと書き加え、自分は正に準備出来ているのだろうかと自問していた。タルーの手帳は此処で終わることになるのだが、最後にこう答えていた。昼と夜にはそれぞれ、人が意気地をなくす時刻が必ずある、自分が恐れているのはその時刻だけだと。


la peste V ⑪

(ミスター・ビーン訳)

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