*ペスト 翻訳 II (10)* | ミスター・ビーンのお気楽ブログ

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アルベール・カミュ


la peste 翻訳



「ペスト」(1947)



II  (10)

翌日、コタールがリゥ医師の家に着くと、タルーとリゥが、リゥの部署で起きた思いがけぬ快復例を話題にしていた。

「10人に1人ですね。彼は運が良かった。」とタルーが言っていた。

「ああ!なるほど」とコタールが言った。「それはペストじゃなかったんですよ。」

確かにペストだったとリゥとタルーは請け合った。

「有り得ませんよ、治ったんだから。お二人ともよく御存じでしょう、ペストは情け容赦がないのだから。」

「一般的にはそうだ」とリゥが言った。「しかし、少々粘り強くやれば、思いがけないこともあるさ。」

コタールは笑っていた。

「そうは思えませんね。今晩、お二人は数字を聞いてらっしゃいますか?」

タルーは、この遊び人を好意的な目で眺めながらこう言った。自分も数字は知っている。事は深刻だ。しかし、だからどうしたと言うのだ?今までよりはるかに例外的な措置が必要だということを証明しているにすぎないのだ。

「おやおや!でも、既にそうした措置は取っているでしょう。」

「その通り。しかし、一人一人が自分のこととしてそうした措置を講じなければならないのだ。」

コタールは訳が分からぬと言った様子でタルーを眺めていた。タルーは、手をこまねいている連中が多すぎる、この伝染病は一人一人が対処すべき問題だ、一人一人が自分の義務を果たさねばならぬと言った。それに、誰でもヴォランティア部隊には入れるのだ。

「そういう考え方もあります」とコタールは言った。「でも、何の役にも立たないでしょう。ペストは余りにも強力です。」

「やれることを全てやってみなければ」と辛抱強い調子でタルーは言った。「役にたつか立たぬか分からんでしょう。」

その間、リゥは机に向かい統計カードを書き写していた。タルーは椅子の上で身体をもぞもぞさせているコタールを相変わらず眺めている。

「僕らと一緒にやってみませんか、コタール君?」

コタールはムッとしたように立ち上がり、丸い帽子を手に取った。

「それは僕の役目じゃありません。」

それから、虚勢を張る様に

「それに僕にとっては、ペストは居心地がいいんです。ペストを止める仲間になる理由なんてありません。」

タルーは、突然真実に目覚めたといった調子で額を叩いた。

「ああ!なるほど。忘れていたよ、ペストが無けりゃ君は逮捕されるからね。」

コタールは飛び上がらんばかりに驚き、そのままでは倒れてしまうというように椅子を掴んだ。リゥは書き写すのを止めて、真剣で興味深い様子でタルーを眺めた。

「誰がそんなことを言ったんです?」とその遊び人は叫んだ。タルーはいかにも驚いたという様子でこう言った。

「いや、君がそう言ったんだよ。少なくとも、先生と僕はそのように了解している。」

そして、突然自力では抑えきれぬ激しい怒りに襲われて、コタールが訳の分からぬ言葉を口ごもっていたので、

「そうかっかとしなさんな」とタルーが続けて言った。「先生も僕も君を告発するようなことはしやしない。君の話は我々とは関係のないことだ。それに昔から、警察っていうのは、先生も僕も決して好きじゃないからな。さあさあ、座り給え。」

遊び人は椅子を眺め、少しためらってから腰を下ろした。その少し後で、彼はため息をついた。

「昔の話を」と彼は認めた。「また蒸し返したんです。もう忘れているものと思っていました。でも、奴らのうちの誰かが話題にしたんです。奴らは僕を呼び出して、調査が終わるまで身柄を拘束すると言いました。結局僕を逮捕するつもりだと分かりました。」

「重い罪かね?」とタルーが尋ねた。

「考え方にもよります。いずれにしろ、殺人じゃありません。」

「禁固か徒刑になるのかね?」

コタールは酷く落ち込んでいる様子だった。

「禁固ですね、運が良ければの話ですが。」

しかし、そのすぐ後、彼は激しい調子で言葉を継いだ。

「過失なんです。誰だって過失は犯す。こんなことでしょっ引かれて、家からも、習慣からも、全ての知り合いからも切り離されることを考えると我慢がならないんです。」

「ああ!」タルーが尋ねた。「それで君は首を吊ろうなんて考えたのかね?」

「ええ、確かに馬鹿な真似をしたものです。」

リゥが初めて口を開き、彼の不安は分かるが、おそらく全て上手く収まるだろうとコタールに言った。

「ああ!でもさしあたり、何も恐れるものは無いと分かっています。」

「分かった」とタルーが言った。「君は僕らの衛生部隊には入らないというわけだ。」

コタールは両手で帽子を廻しながら、不安な眼差しをタルーに向けた。

「僕を恨んじゃいけません。」

「無論、恨んだりしないさ。でも少なくとも」と微笑みながらタルーは言った。「わざと黴菌をばらまこうなんてしないでくれよ。」

コタールは、自分がペストを望んだわけじゃない、たまたまペストがやって来たのであって、そのおかげで当面私事が上手く行っている。だからといって、それは自分のせいではないと抗議した。そしてランベールがドアの所にやって来たとき、声に大いに力を籠めてこう付け加えていた。

「それに、あんたたちのやり方ではどうにもならないと思う。」

ランベールは、コタールがゴンザレスの住所は知らないこと、しかしあの小さなカフェにはいつでもまた行けることを知った。ランベールとコタールは、翌日、会う約束をかわした。そして、リゥが事の顛末をぜひ知りたいと言ったので、ランベールはリゥとタルーに、週末、夜何時でも構わないから自分の部屋に来てくれるように伝えた。


la peste II ㊻

翌朝、コタールとランベールは例の小さなカフェに行き、ガルシア宛てにその晩か、都合が悪ければ翌日会いたいという伝言を預けておいた。その晩、二人はガルシアを待ったが無駄だった。翌日、ガルシアは来ていた。ガルシアは黙ってランベールの話に耳を傾けた。彼はゴンザレスと二人の若者の事情は知らなかったが、居住確認を行うために幾つかの地区が24時間全面的に外出禁止になっていたことを知っていた。ゴンザレスと二人の若者は非常線を突破できなかったのかもしれない。しかし、彼に出来ることは、再びコタールとランベールをラウルに引き会わせることぐらいだ。当然、それは翌々日以後の話になる。

「なるほど」とランベールは言った。「また一から始めなきゃならない。」

翌々日、街角で、ラウルはガルシアの考えが正しかったことを裏付けた。下町地区が外出禁止になっていたのだ。再びゴンザレスと連絡を取らなければならなかった。その二日後、ランベールは例のサッカー選手と昼食を共にしていた。

「間抜けな話だ」とゴンザレスは言っていた。「再会する方法を決めておくべきだったな。」

ランベールも同じ意見だった。

「明日の朝、あの二人の家に行って何とか全て手筈を整えよう。」

翌日、二人の若者は家にはいなかった。ゴンザレスとランベールは、翌日の正午、高校広場で待ち合わせようという伝言を残してきた。ランベールは午後、ホテルの自室に戻って来たのだが、そのときたまたま彼と顔を合わせたタルーはその表情に驚いた。

「上手く行ってないのか?」とタルーが尋ねた。

「またやり直さなきゃならなくなったからね。」とランベールは答えた。そして改めて彼を招待した。

「今晩僕の部屋に来てくれ。」

その晩、タルーとリゥがランベールの部屋に入ると、ランベールは横になっていた。
彼は起き上がり、用意してあったグラスを酒で満たした。リゥは自分のグラスを手に取り、ランベールに順調に行っているのかと尋ねた。記者は、もう一度すっかり手筈を整えたこと、前回と同じ地点までたどり着いたこと、じきに最後の待ち合わせをすることを語った。彼はグラスを飲み干し、こう付け加えた。

「当然、奴らは来ないだろう。」

「そう決めつけるものじゃないよ。」とタルーが言った。

「君はまだ分かっていないんだ。」肩をすくめながらランベールは答えた。

「いったい何を?」

「ペストのことをさ」

「ああ!」とリゥが叫んだ。

「そう、君は、こういうことは繰り返されるということがわかっちゃいない。」

ランベールは部屋の片隅に行き、小さな蓄音機を開いた。

「このレコードは何だい?」とタルーが尋ねた。「聞き覚えがあるな。」

ランベールは、セント・ジェームス・インファーマリー・ブルースだと答えた。レコードの途中、遠くで2発の銃声が聞こえた。

「犬か逃亡者だな。」とタルーが言った。

その少し後でレコードが終わり、はっきりと救急車の音が聞こえた。それが次第に大きくなり、ホテルの部屋の窓の下を通過し、次第に弱まり、終には消えていった。

「面白くも無いレコードだ」とランベールが言った。「それに、僕は今日これを10回も聞いている。」

「それほど好きなのかい?」

「いや、でもこれしか持ってないのだ。」

それから少し間をおいて、

「いいかい、こういうことは繰り返されるものなのさ。」


ランベールはリゥに衛生部隊の進捗状況を尋ねた。今、5チームが活動している。更に他のチームを編成することを期待しているとリゥは答えた。新聞記者はベッドに腰を下ろし、自分の爪に気を取られているように見えた。リゥは、ベッドの端で身体を丸め背は低いが力強い彼のシルエットを観察していた。そのとき突然、リゥはランベールが自分を眺めていることに気付いた。

「ねえ、先生」と彼は言った。「僕は先生の組織のことを随分考えてみました。僕が参加しないのは、僕なりの理由があるからです。他のことなら、まだまだ身体を張って活動できると思います、僕はスペイン戦争を戦ったのです。」

「どちらの側で?」とタルーが尋ねた。

「敗者の側さ。でもそれ以来、僕は少し考えるところが有ってね。」

「何について?」とタルーが訊いた。

「勇気についてだ。今僕は、人間は偉大な行為を為し得ることは分かっている。しかし、人間が偉大な感情を持ち得ないのなら、僕には興味が無いのだ。」

「人間は何でもできるという気がするがね。」とタルーが言った。

「いや違う、人間は長い間苦しんだり、喜んだりすることは出来ないのだ。だから、価値のあることなど何も出来ないのさ。」

ランベールは二人を眺め、それからこう言った。

「なあ、タルー、君は愛のために死ねるか?」

「分からんな、しかし今のところ死ねそうもない。」

「やはりな。しかし君は観念のためなら死ねる、それは一目見れば分かるさ。ところで僕は、観念のために命を懸ける連中には飽き飽きしてるんだ。僕はヒロイズムなんか信じない。それは容易(たやす)いことだと分かっているし、それが多数の人命を奪ってきたことを学んだのだ。僕に興味があるのは、愛するもののために生きそして死ぬことだ。」

リゥは注意深く新聞記者の話に耳を傾けていた。そして彼から目を離さず、静かにこう言った。

「人間は観念などではないよ、ランベール。」

ランベールは、興奮で顔を真っ赤にしてベッドから跳ね起きた。

「観念ですとも、それも愛から目を背けた途端に取るに足らぬ観念になる。そして正に、我々はもう愛を持ち得ないのです。諦めましょう、先生。愛を持てるようになるのを待ちましょう。そしてもし本当にそれが出来ないのなら、ヒーローごっこなどやめて全員が解放されるのを待ちましょう。僕は、それ以上先には進めません。」

リゥは突然疲れた様子で立ち上がった。

「君の考えは正しいよ、ランベール、全くその通りだ。だから私は、金輪際(こんりんざい)君がやろうとしていることを思いとどまらせようなんて考えちゃいない。それは正しく良いことだと思えるからね。しかしそれでも、これだけは言っておかなきゃいけない。ペストとの闘いで大事なのはヒロイズムなんかじゃない。大事なのは誠実であることなのだよ。こんな考えはちゃんちゃら可笑しいかもしれない。しかし、ペストと闘う唯一の手段は誠実であることなのだ。」

「誠実とは何です?」突然真剣な調子でランベールは尋ねた。

「一般にそれがどういうものかは僕には分からん。しかし僕の場合で言えば、それは自分の職務を果たすことだと思っている。」

「ああ!」激高してランベールは言った。「僕には自分の職務が何なのか分かりません。だから多分、僕が愛を選ぶのはまちがっているのですね。」

リゥはランベールの顔を見据えた。

「いや違う」力を籠めてリゥは言った。「君は間違ってなんかいない。」

ランベールは考え深げに二人を眺めていた。

「お二人は、ペストとの闘いで何も失うものが無いのだと思う。だから正義の側に着くのはずっと簡単なのだ。」

リゥは自分のグラスを飲み干した。

「さあ行こう」と彼は言った。「我々にはやらなきゃならんことがある。」

リゥは部屋を出て行った。

タルーがその後に続いたが、部屋を出るとき、思い返したように新聞記者の方に引き返してこう言った。

「リゥの奥さんがここから何百キロも離れたサナトリウムにいることを君は知っているのか?」

ランベールは驚いたような素振りを示したが、タルーはもう行ってしまった。

翌早朝、ランベールはリゥ医師に電話をかけていた。

「僕が町を出る手段が見つかるまで、先生と一緒に働くことを認めていただけませんか?」

電話の向こうで短い沈黙があった。そして

「いいとも、ランベール、感謝するよ。」


la peste II ㊽

(ミスター・ビーン訳)

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