*ペスト 翻訳 II (9)* | ミスター・ビーンのお気楽ブログ

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アルベール・カミュ


la peste 翻訳



「ペスト」(1947)



II  (9)

ペストがその頂点に達する前に、そしてこの災いが都市に総攻撃を加え、都市を決定的に占拠すべく全勢力をかき集めている間に、正に語っておかなければならないことがある。それは、再び幸福を見い出すために、いかなる攻撃からも守って来た自己の一部をペストの手に触れさせぬために、ランベールのような人々が続けてきた努力、あの長きにわたる単調で絶望的な努力のことである。こうした努力は、彼らを脅(おびや)かしていた隷属状態を拒(こば)む彼らなりのやり方であった。それは明らかにもう一つの拒否の仕方ほど効果は無かったにしても、語り手はそれなりの意義があったと考えている。つまり、このやり方が虚しく矛盾に満ちているからこそ、当時我々一人一人が誇りに思っていたことへの有利な証言にもなっていたのだ。

ランベールはペストでがんじがらめになるのを防ぐために闘っていた。法的手段を使って都市を出ることは出来ないという証拠を掴んだからには、以前リゥに話していたように、彼は別の手段を用いる決意を固めていた。記者はまず手始めに、カフェのボーイたちに当たってみた。カフェのボーイというのは常に何ごとにも通じているものだ。ところが、最初に当たってみたボーイたちは、この手の企てを罰する非常に厳しい罰則に特に詳しかった。場合によっては、ランベールはおとり捜査官に間違われることすらあった。企てを少しでも前に進めるには、彼はリゥのところでコタールに出会う必要があった。その日、リゥとランベールは、行政当局を相手に記者がそれまで行った無駄な奔走のことをまた話題にしていたのだ。それから数日後、コタールは通りで偶々(たまたま)ランベールに出会い、今やどんな相手にも示す気さくな調子で彼はランベールを迎えた。

「相変わらず進展はありませんか?」とそのときコタールは尋ねた。

「ええ、何も。」

「お役所はあてに出来ませんからねえ。あの連中はとにかく頭が固い。」

「まったくです。でも僕は、別の方法を探っています。難しいですが。」

「ああ!」とコタールは言った。「なるほどね。」

実は、自分は闇のルートを知っているとコタールは言い、驚いているランベールに向かってこう説明した。前々から自分はオランのカフェというカフェには足繁く通っている。友だちも何人かいて、そういった企てを引き受けてくれる組織があると教えられたのだと。実を言えば、コタールは、今や支出の方が収入を上回るようになり、配給品の密売に手を出していたのだった。そんなわけで、彼はタバコや質の悪いアルコールを転売し、その値段が絶えず上がっていたので、ちょっとした財産が転がり込んできていたのだった。

「それは確かな話ですか?」とランベールは尋ねた。

「ええ、なにしろ僕にその話が持ちかけられたのですから。」

「それで、あなたはその話に乗らなかったのですか?」

「疑っちゃいけませんよ」といかにも人が良さそうにコタールは答えた。「話に乗らなかったのは、僕は町を出たくないからです。僕なりの理由(わけ)があるんですよ。」

しばらく黙った後、コタールはこう付け加えた。

「どんな理由(わけ)かお訊きにならないんですか?」

「それはまあ」とランベールは答えた。「僕には関係ないと思いますから。」

「なるほど、ある意味ではあなたとは関係ないことだ。しかし、別の意味では… とにかく、唯一つはっきりしているのは、此処はペスト騒ぎになってからの方が僕には居心地がいいってことです。」

ランベールはコタールの話に耳を傾けた。

「どうやったらその組織の仲間になれるんです?」

「ああ!」とコタールは言った。「簡単じゃありません。僕と一緒にいらっしゃい。」


la peste II  ㊱

午後の4時だった。重苦しい空の下で、都市はじりじりと暑さを増していた。店という店は全てシャッターを下ろしている。車道は車一台通らない。コタールとランベールはアーケード街を進み、長い間無言で歩いた。今はペストがその姿を見せぬ時間帯だ。このような沈黙、このように色彩も動きも消え去ってしまうこと、それは災禍のせいかもしれないが、夏のせいかもしれないのだ。この重苦しい空気は、ペストの脅威のためなのか、それとも、埃と焼けつくような暑さのためなのか見分けがつかない。ペストの姿を見つけるには観察し熟考しなければならなかった。なぜならペストは、負のサインを送ることでしかその正体を現してはいなかったからだ。例えば、ペストに親近感を覚えているコタールは、犬がいないことをランベールに指摘していた。普段なら、犬は通路の入り口で横になり、息を切らし、有りもしない涼しさを求めている筈なのだ。

二人はパルミエ大通りを進み、練兵場を横切り、海軍兵舎の方へ下って行った。左手に、緑のペンキで塗られたカフェが一軒、粗い黄色のカンヴァス地の日除けを斜めに下ろし佇んでいた。中に入りながら、コタールとランベールは額の汗を拭った。二人は、緑の鉄板のテーブルの前にある、折りたたみの庭椅子に腰を下ろした。客室には人っ子一人いない。蠅がラジオの雑音のような音を立てて飛んでいる。ぐらぐらするカウンターに置かれた黄色の鳥かごの中で、一羽のオウムが羽毛を全て寝かせ、止まり木の上でぐったりとしていた。戦(いくさ)の場面を描いた古めかしい絵が何枚か壁に掛かっていて、手垢と太い糸で編まれた蜘蛛の巣に覆われている。全ての鉄板のテーブルの上にも、ランベールの目の前にも、乾いた雌鶏の糞があり、ランベールは何故そこにそんなものがあるのかわからなかった。しかし、丁度その時、少しばかりけたたましい音がした後で、暗い片隅から見事な雄鶏が一羽、跳ねながら飛び出してきた。

そのとき、一層暑さが増したように思えた。コタールは上着を脱ぎ、鉄板を叩いた。丈の長い青いエプロンに埋もれた小男が一人、奥から出て来て、コタールを見ると随分遠くから挨拶をした。片足で激しく雄鶏を蹴り飛ばしてこちらに来ると、彼は、雌鶏たちが雛を呼ぶこっこっという鳴き声の中で、何になさいますかと注文を訊いた。コタールは白ワインを頼み、ガルシアとかいう男の消息を尋ねた。チビの男が言うには、ここ数日カフェには姿を現していないということだ。

「今晩、奴は来ると思うかね?」

「ああ!」と相手は言った。「あの人と特に親しいわけじゃないんでね。でも、お客さんは、あの人がいつも来る時間をご存知なんで?」

「うん、でもそれは別にどうでもいい。奴に友人を一人紹介したいだけだから。」

ボーイはエプロンの前で汗ばんだ両手を拭っていた。

「ああ! お客さんも例の商売に関わっているんですか?」

「そんなところだ。」とコタールは言った。チビのボーイは鼻をすすって、

「じゃ、今晩またいらっしゃい。奴の所に小僧を報せにやりますよ。」

店を出ながら、ランベールは何の商売のことだと尋ねた。

「無論、密売のことですよ。奴らは商品を仕入れて、市門をうまく通過させるんです。その後、高値で売るってわけですよ。」

「なるほど」とランベールは言った。「共犯者がいるわけだ。」

「図星です。」


la peste II ㊲

その晩、店の日除けは巻き上げられていて、オウムは鳥かごの中で腹を空かせ、ピーピー鳴いていた。上着を脱ぎシャツ一枚になった男たちが鉄板のテーブルを囲んでいる。その中の一人は、麦藁帽を阿弥陀にかぶり、ワイシャツの胸がはだけ、焼土色の膚が覗いている。彼はコタールが店に入って来ると立ち上がった。日焼けした整った顔立ち、目は黒く小さい、歯は白く、指輪を2,3個嵌めている。歳は30がらみに見えた。

「やあ」と男は言った。「カウンターで飲もう。」

彼らは、黙ったまま3杯飲んだ。

「出ようか?」とそのときガルシアが言った。

3人は港に向かって歩き、ガルシアは自分に何の用かと尋ねた。実を言えば商売の件ではなく、ただ、いわゆる≪外出≫の件で彼にランベールを紹介したいのだとコタールは言った。ガルシアはタバコをふかしながら、真っ直ぐコタールの前を歩いていた。ガルシアは幾つか質問をしたが、ランベールを話題にするときは「奴(やつ)」と言い、まるで彼の存在など眼中にない様子だった。

「何のために?」とガルシアは言っていた。

「フランスに細君がいるのさ。」

「ああ!」

それからしばらく間をおいて、

「奴の商売は何だ?」

「新聞記者だ。」

「口の軽い商売だな。」

ランベールは黙っていた。

「友だちなんだよ。」とコタールが言った。

3人は無言で進んだ。波止場に着いていたのだが、高い柵があり、近づくのは禁じられていた。それでも彼らは鰯のから揚げを売っている小さな立ち飲みスタンドに向かった。から揚げの匂いが3人のいるところまで漂ってくる。

「どっちみち」とガルシアが言った。「そういう仕事は俺じゃなくてラウルの仕事だ。だから奴を見つけなきゃならねえ。簡単には見つからないぜ。」

「ああ!」コタールが活気づいて尋ねた。「身を隠しているのか?」

ガルシアは答えなかった。立ち飲みスタンドの近くでガルシアは立ち止まり、初めてランベールの方を振り向いた。

「明後日、11時、町の山の手にある税関の建物の隅で。」

彼はそのまま立ち去るそぶりを見せたが、ランベールとコタールの方を振り向いた。

「費用がかかるぜ。」と彼は言った。

念押しというわけだ。

「無論です。」とランベールが同意した。

その少し後、ランベール記者はコタールに礼を言った。

「ああ!とんでもない」とコタールはいかにも快活に答えた。「お役にたてて僕の方こそ嬉しいですよ。それに、あなたは新聞記者だ。いつかお返しをしてもらいます。」


la peste II ㊳

翌々日、ランベールとコタールは、我が都市の山の手に向かう木陰一つない大通りを、息を切らせて上っていた。税関の建物は、一部臨時の病室に変えられていて、その大きな門の前には人だかりができていた。見舞いなど許可されるはずもないのだが、ひょっとしたらという気持ちでやって来た人々や、刻々と更新される情報を求めにやって来た人々だ。いずれにしろ、その人だかりのせいで人の行き来も多かった。ガルシアがランベールとの待ち合わせ場所をここに決めたのも、どうやらそのことと無関係ではないようだった。

「変ですなあ」とコタールは言った。「それほどまでに町を出たがるなんて。結局、今起こっている出来事は、随分面白いことなんだが。」

「僕には面白くありませんよ。」とランベールは答えた。

「ああ!勿論、多少の危険はあります。しかし、なんだかんだ言っても、ペスト騒ぎの前だって交通量の多い交差点を渡れば、同じぐらいの危険はあったわけだし。」

そのとき、リゥの車が彼らのいる所で止まった。タルーが車を運転していて、リゥは半ば眠っているようだった。リゥは目をさまし、タルーに二人を紹介した。

「僕らは知り合いですよ」とタルーが言った。「同じホテルに泊まっていますから。」

タルーはランベールに、町まで車で送ろうと言った。

「いや結構。ここで待ち合わせがあるんでね。」

リゥはランベールを見つめた。

「ええ、そうなんです。」とランベールは答えた。

「おやおや!」コタールは驚いていた。「先生はご存知なんですか?」

「ほら、予審判事が来るよ。」コタールを見つめながらタルーが知らせた。

コタールの顔色が変わった。というのも、オトン氏が通りを下って来て、力強いが規則正しい足取りで彼らの方に近づいて来たのだ。オトン氏は4人の前を通るとき、帽子を脱いだ。

「こんにちは、判事さん!」とタルーが言った。

判事は車の二人に挨拶を返し、後ろに控えているコタールとランベールを見ながら深々と頭を下げた。タルーが二人を紹介する。判事は一瞬空を見上げ、辛い時期ですなと言いながらため息をついた。

「タルーさん、あなたは予防措置のお仕事に取り組んでおられるそうですな。私としては、やや賛成しかねるのですが。先生は、あの病気はさらに広がるとお考えですか?」

リゥは、広がらぬことを期待すべきですと言った。判事は、そう、常に期待すべきですなとリゥの言葉を繰り返し、神意ははかり難しですと言った。タルーは判事に、ペスト騒ぎのせいで仕事が増えたかと尋ねた。

「とんでもない、いわゆる一般法にかかわる案件は減っています。予審の仕事は、もはや新規定に対する重大違反案件だけですよ。従来の法律がこれほど守られたことはありません。」

「ということは」とタルーが言った。「比較してみると、必然的に従来の法律はましだということになりますな。」

判事は、それまでの視線を宙に浮かせ、夢見るような態度を捨て、冷たい眼差(まなざ)しでタルーを眺めまわした。

「だから何です?」と判事は言った。「大事なのは、法律ではなく判決です。そればかりはどうにもなりません。」

「あの男は」判事が行ってしまうとコタールが言った。「最大の敵だ。」

リゥとタルーの乗る車が動き出した。

それから少しして、ランベールとコタールにはガルシアがやって来るのが見えた。ガルシアは何の合図もせず二人の方にやって来て、挨拶代わりに「待たなくちゃならねえ。」と言った。

3人の周りでは、群衆が、その多くは女だが、黙りこくったまま待っていた。殆どの女が籠を持参しており、それを病気の身内に渡してもらえるものという虚しい期待を抱いているのだった。それどころか、病人に籠の中身を使ってもらえるなどというとんでもなく馬鹿げたことを考えてもいたのだ。門は武装した番兵に守られていて、ときどき建物と門を隔てる中庭を超えて、奇妙な叫び声が聞こえてきた。すると、集まった人々の中には、病室の方に不安な顔を向ける者もあった。

3人がその光景を眺めていると、背後で「こんにちは」という声が聞こえた。はっきりとした重々しい声だ。3人は振り向いた。この暑さにもかかわらず、ラウルはひどくきっちりとした身なりだった。背が高く、がっしりしていて、濃い色のダブルのスーツを着込み、つばの反ったフェルト帽を被っていた。顔はかなり青白い。目は茶色、口元は引き締まっている。ラウルは早口ではっきりとした口調で話していた。

「町の方に降りましょう」と彼は言った。「ガルシア、あんたはここに残っていていいよ。」

ガルシアはタバコに火を点け、三人を見送った。ランベールとコタールは速足で歩き、二人の間にいるラウルの歩く速度に足並みをそろえた。

「ガルシアから話は聞きました」と彼は言った。「何とかなりそうです。いずれにしろ、費用は1万フランかかりますよ。」

ランベールはそれでいいと答えた。

「明日、海軍兵舎地区のスペインレストランで私と昼食を共にしてください。」

ランベールが了解したと答えると、ラウルはランベールと握手をし、初めて微笑みを浮かべた。ラウルが行ってしまうと、コタールが「申し訳ないが」と言った。自分は、明日は時間が取れない、それに、自分はもう用済みだろう。


la peste II ㊴

翌日、ランベール記者がスペインレストランに入ると、全ての客が振り返って彼が通るのを眺めた。この薄暗い地下レストランは、日差しのせいで乾燥した黄色い小道の下にあり、常連は男ばかり、その大部分はスペイン系の連中だ。しかし、奥のテーブルにいるラウルが記者に合図し、ランベールがラウルの方に向かうと、たちまち客の顔からは好奇心が消え、再び自分の皿に顔を向けるのだった。ラウルのテーブルには痩せた背の高い男がいた。髭の剃り残しがあり、異様に肩幅が広く、顔は馬面で髪が薄い。黒い体毛に被われたひょろ長い両腕が、まくりあげたシャツの袖から覗いている。ランベールが紹介されると、男は3度頷(うなず)いた。男の名前が告げられることは無く、ラウルが彼を話題にするときは、ただ「我々の友人」と言っていた。

「我々の友人はきっとあなたのお役にたてると思っています。彼があなたを…」

ラウルは口をつぐんだ。ランベールの注文を訊きにウェイトレスがやって来たからだ。

「彼があなたを我々の友人の中の二人に紹介します。で、その二人が、我々の味方をしてくれる衛兵たちにあなたが会う手引きをする。それで終わりというわけじゃありません。今度はその衛兵たちが都合の良い時期を判断しなければならない。一番手っ取り早いのは、衛兵たちの中で、市門の近くに住んでいる衛兵の家にあなたが幾晩か泊まることですかね。でもその前に、ここにいる我々の友人があなたに対して、ことを果たすのに必要な連絡をとることになります。そして万事準備が整った段階で、彼に料金を支払ってください。」

馬面の友人は、貪(むさぼ)るように食べていたトマトとピーマンのサラダを絶えずバリバリと噛み砕きながら再び頷(うなず)いた。それから軽いスペイン訛りで口を開いた。
ランベールに、明後日、朝8時に大聖堂のポーチの下で待ち合わせるのはどうかと言ってきたのだ。

「また二日待つんですか。」とランベールが言った。

「事は簡単ではないからですよ」とラウルが言った。「こちらも、必要な連中とまた会わなきゃなりませんからね。」

馬面はもう一度頭を上下に振り、ランベールは気のない様子で承諾した。その後の時間は話題探しで過ぎて行った。しかし、ランベールが馬面の主はサッカー選手であることを知ると、俄然話が盛り上がった。ランベールもサッカーは大いにやっていたのだ。そこで話題は、フランス選手権、イギリス・プロチームの品定め、Wフォーメーションへと移っていった。昼食が終わる頃には、馬面の主はすっかり活気づいて、ランベールを君呼ばわりし、チームではセンター・ハーフほど素晴らしいポジションは無いとランベールを説き伏せにかかっていた。「分かるだろう」と彼は言っていた。「センター・ハーフがゲームを組み立てるのさ。ゲームを組み立てること、それこそサッカーだ。」ランベールはそれまでいつもセンター・フォワードをやっていたのだが、その点は同意見だった。そのときラジオのニュースが流れ、ようやく話が途切れた。ラジオは弱音で繰り返し感傷的なメロディーを流した後、昨日ペストの犠牲者は137人に達したと告げた。聴衆は誰一人反応を示さなかった。馬面の男は肩をすくめ、立ち上がった。ラウルとランベールも彼に倣った。

出がけに、そのセンター・ハーフは力を籠めてランベールと握手をした。

「俺の名前はゴンザレスだ。」と彼は言った。


la peste II ㊵

その二日間はランベールには果てし無く長いものに思えた。彼はリゥの家に出かけ、事細かに自分の首尾を語り、それから彼の往診に同行した。ランベールは、ペストが疑われる患者が待ち受けている家の戸口で、リゥに別れを告げた。廊下では走り回る音と人声が聞こえる。家族に医師の到着が告げられていたのだ。

「タルーが遅れなければいいのだが。」とリゥが呟(つぶや)いた。疲れている様子だ。

「流行はひどく速まっているのですか?」とランベールが尋ねた。

そうではない、統計数字の上昇カーブですら以前よりは緩やかだとリゥは言った。ただ、ペストと闘う手段はあまり多くはないのだ。

「我々には物資が欠けている」と彼は言った。「世界のどの軍隊でも、普通、物資が不足すれば人手で補う。しかし、我々には人手も不足している。」

「外部から医者も、保健担当の職員も来てますよ。」

「そうだな」とリゥは言った。「医者が10人、それに職員が100人ほどだ。多いように見えるが、それではギリギリ現状をカヴァーできる程度だ。流行が広がれば、それではとても足りないよ。」

リゥは家の中の物音に耳を傾け、それからランベールに微笑んだ。

「そうだな」と彼は言った。「君は成功を急がねばなるまいな。」

ランベールの顔が曇った。

「いいですか、先生」と彼は籠った声で言った。「僕はそんな理由で町を出たいんじゃありません。」

リゥは、それは分かっていると答えた。しかし、ランベールは更に続けた。

「僕は自分が卑怯者だとは思っていません、少なくともたいていの場合は。卑怯者ではないことを体験する機会もありましたし。ただ、耐えられぬ思いというものがあるのです。」

リゥ医師はランベールをまじまじと見つめた。

「彼女とはまた会えるさ。」とリゥは言った。

「多分。でも僕は、こんなことが長引いて、その間に彼女が年を取ってしまうと考えると我慢できないんです。30になれば、老いが始まります。だから形振(なりふ)り構ってはいられません。先生にお分かりになるかどうか分かりませんが。」

リゥは、それは自分も分かるつもりだと呟いていたが、そのときタルーが意気揚々としてやって来た。

「僕はパヌルーに我々の仲間になってくれと頼んできたところです。」

「それで?」とリゥが尋ねた。

「考えた後、彼はイエスと言いましたよ。」

「それは嬉しい」とリゥ医師は言った。「あんな説教をするわりにはいい人間だと分かって嬉しいよ。」

「皆そんなものです」とタルーは言った。「ただ、チャンスを与えてやらなきゃならない。」

タルーは微笑み、リゥに向かってウィンクをした。

「人にチャンスを与えること、それは人生における僕の得意技でしてね。」

「すみませんが」とランベールが言った。「僕はこれでおいとまします。」


la peste II ㊶

約束の木曜日、ランベールは8時5分前に大聖堂のポーチの下に行った。空気はまだかなり涼しい。空には丸くて白い小さな雲が広がっていたが、やがて気温が上がれば熱い空気に一挙に呑み込まれ消えてしまうだろう。湿っぽいかすかな匂いがまだ芝生から立ち昇っていた。しかし、芝はもう乾いている。太陽は、東地区の家並の後ろにあり、広場を占める全身金色のジャンヌダルク像の兜だけを暖めていた。大時計が8時を打った。ランベールは人気(ひとけ)のないポーチの下で歩を進めた。内部からは、地下埋葬所と香の古びた匂いと共に詩編を朗唱するくぐもった声が聞こえてきた。突然、朗唱が止んだ。十人ほどの小さな黒い人影が教会から出て来て、町に向かい小刻みに歩き始めた。ランベールは苛立ってきた。別の黒い人影の群れが大階段を上がり、ポーチの方へ向かってくる。ランベールはタバコに火を点けた。それから、多分此処は禁煙だろうと気づいた。

8時15分、大聖堂のパイプオルガンが密やかに鳴りはじめた。ランベールは暗い丸天井の下に入る。やがて外陣の辺りに黒い人影の群れがいるのに気付いたが、それはさっき彼の前を通り過ぎて行った人影だった。それらは皆、片隅に集まり、臨時に築かれた祭壇の様な物の前にいた。祭壇には、我が都市のどこかの工房で急ごしらえに作られた聖ロクス像が安置されたばかりだ。跪いているせいで、それらの影は一層縮こまって見え、灰色の背景に溶け込んだ黒い塊となり、霧に漂う人影の様にかろうじてその厚みが所々感じられる程度だった。その人影の頭上では、パイプオルガンが絶えず変奏曲を奏でていた。

ランベールが外に出ると、ゴンザレスが既にポーチの階段を下り、町に向かおうとしていた。

「あんたはもう帰ってしまったと思ったんだ」と彼はランベール記者に言った。「それが普通だからね。」

彼の説明によると、ゴンザレスは大聖堂からほど遠からぬところで別の約束があり、8時10分前に友達を待っていた。しかし、20分待っても友達は来なかった。

「きっと何かあったんだ。俺たちの仕事は、いつもいつも気楽にやれるってわけじゃないからな。」

ゴンザレスは、明日同じ時間に、戦没者記念碑の前でまた会おうと言っていた。ランベールはため息をつき、フェルト帽を乱暴にあみだにずらした。

「何でもないさ」と笑いながらゴンザレスが締め括った。「シュートを決める前にやらなきゃならないコンビネーションとか、速攻アタックとか、パスのことをちょっと考えてみろよ。」

「勿論さ」とそれでもランベールは言った。「しかし、サッカーの試合はたったの90分だからな。」


la peste II ㊷

オランの戦没者記念碑は、この町で唯一海が見える場所にある。間隔はかなり短いが、港を見下ろす断崖に沿った散歩道のような場所だ。翌日、ランベールは先に着き、戦没者のリストを注意深く読んでいた。数分後、男が二人近づいて来て、無関心な様子でランベールを眺め、それから散歩道の手すりに行き肘をついた。二人は余念なく船荷も人影もない波止場をひたすら眺めているように見えた。二人とも同じ背丈で、青いズボンと海軍兵が着るような袖の短いニットを着ている。ランベール記者は少し離れ、それからベンチに腰を下ろしたので、二人の姿を心行くまで眺めることが出来た。彼は、その二人がおそらくまだ二十歳にもなっていないことに気付いた。そのとき、何か言い訳をしながら彼の方に歩いてくるゴンザレスの姿が目に入った。

「あれが我々の友人だ」とゴンザレスは言い、ランベールを二人の若者の所に連れて行き、「マルセルとルイだ」と言って紹介した。正面から見ると二人はよく似ていて、ランベールは彼らが兄弟なのだろうと思った。

「これで」とゴンザレスは言った。「顔つなぎは出来たわけだ。次は、いよいよ段取りを決めなきゃならんな。」

すると、マルセルかルイのどちらかが、歩哨当番は二日後に始まり一週間続く、一番都合のいい日を決めておかなければならないと言った。西門の歩哨は4人で行い、他の二人は職業軍人だ。彼らを仲間に引き入れるわけにはいかない。信用できないし、それに費用が嵩(かさ)むことになる。しかしその二人の兵士たちは、幾晩かは、二人が知っているとあるバーの奥のホールで夜の一部を過ごすことがある。こうして、マルセル、あるいはルイの方が、市門の近くにある彼らの家に泊まって迎えを待ったらどうかとランベールに提案した。そうすれば、市門は楽々通過できるというわけだ。しかし、ことを急がなければならない。つい最近、市の外側にも二重に歩哨所を設けようという話が出ているからだ。

ランベールは賛成し、二人に残ったタバコを何本かやった。すると、それまでまだ口をきいていなかった方が、費用の件はけりがついたのか、前金を支払ってもらえるのかとゴンザレスに尋ねた。

「いや」とゴンザレスが言った。「それには及ばない。こいつは友達だからな。費用の精算は市門を出るときだ。」

4人は次の待ち合わせの日取りを決めた。ゴンザレスは、翌々日、例のスペインレストランで夕食を食べるのはどうかと提案した。そのレストランから二人の若者の家に行けばいいというわけだ。

「最初の夜は」と彼はランベールに言った。「俺もあんたにお供するよ。」


la peste II ㊸

翌日、ランベールは部屋に向かう途中、ホテルの階段でタルーと擦れ違った。

「僕はこれからリゥに会いに行くところだ」とタルーは言った。「君も来ないか?」

「先生の邪魔にならなきゃいいのだが。」ためらった後、ランベールは言った。

「そうは思わないね、彼は随分君のことを話していたから。」

ランベール記者は考え込んでいた。

「いいかい」とランベールは言った。「夕食の後少し時間が取れるようなら、二人揃ってホテルのバーに来てくれ。」

「リゥとペスト次第だな。」とタルーは答えた。

それでも夜の11時に、リゥとタルーは、小さくて狭いホテルのバーに入った。そこでは30人ほどの先客が肩を並べ、ひどく大声でしゃべっている。ペストに汚染され、静まり返った都市からやって来たこの二人の新参者は、やや呆然として足を止めた。バーではまだ酒を出しているのが分かり、二人はこの騒々しさの理由を理解した。ランベールはカウンターの端のスツールに座り、二人に合図を送っている。タルーが騒々しい隣の客を静かに押しやって、二人はランベールの両脇に座った。

「酒は苦手じゃないかい?」

「いや」とタルーが答えた。「その逆だ。」

リゥはグラスから立ち上る苦い草のような香りを嗅いでみた。この喧噪のなかで話をするのは難しかったが、ランベールはひたすら酒を飲むことに専念しているようだった。リゥ医師はランベールが酔っぱらっているのかどうかまだ判断がつきかねていた。三人が席に着いていた狭い空間の残りを2脚のテーブルが占めていたのだが、そのうちの一つには両腕に一人ずつ女を抱えた海軍士官がいて、真っ赤な顔をした肥った男にカイロでチフスが伝染したときの話をしていた。「収容所さ」と士官は言っていた。「現地人を放り込む収容所を作ってあったのさ、病人用のテントと一緒にね。歩哨がその周りをぐるっと囲んで警戒線を張り、家族の者がこっそり民間治療薬など持ち込もうとしようものなら発砲したってわけだ。酷(むご)い話だが、正解だったよ。」もう一つのテーブルは品のいい若者たちが占領し、その会話はチンプンカンプンで、上にある蓄音機から流れてくるセント・ジェームス・インファーマリー・ブルース(注:1928年のルイ・アームストロングの演奏で有名になったジャズのスタンダード曲)の物憂いリズムの中に埋もれていた。

「上手く行ってるかい?」と声を大きくしてリゥが尋ねた。

「もうすぐです」とランベールが答えた。「多分、一週間後に。」

「そりゃ残念だ。」とタルーが叫んだ。

「何故だい?」

タルーはリゥの方を眺めた。

「ああ!」とリゥは言った。「タルーがそう言うのは、君がここにいれば我々の役に立ってくれただろうと考えているからだよ。」

タルーは二人に酒をもう一杯おごった。ランベールはスツールから降り、初めてタルーをまじまじと見つめた。

「どんなことで僕が君たちの役に立つのだ?」

「そうだな」おもむろにグラスの方に手を伸ばしながらタルーが言った。「我々の衛生部隊にさ。」

ランベールはいつもの依怙地で考え込むような様子になり、再びスツールに腰かけた。

「君は、この衛生部隊は役に立ちそうもないと思うかい?」グラスを飲み干した後、注意深くランベールを眺めながらタルーは尋ねた。

「非常に役に立つと思う。」とランベール記者は言い、グラスを飲み干した。

リゥはランベールの手が震えているのに気が付いた。そう、間違いなくこの男はすっかり酔っているとリゥは思った。


la peste II ㊹

翌日ランベールが、これで2回目になるが、スペインレストランに入ったとき、男たちの小グループの間を通り抜けた。彼らは入り口の前に椅子を持ち出し、暑さがようやく和らぎはじめた緑と金色の夕暮れの雰囲気を味わっていたのだ。彼らは匂いのきついタバコを喫っている。レストランの中には、客は殆どいなかった。ランベールは初めてゴンザレスに会った奥のテーブルに行き、席に着いた。ウエイトレスには人を待っていると言っておいた。19時30分だ。少しずつ、外にいた男たちも中に戻り席に着いた。料理が運ばれ始め、低円球の円天井は、食器の音やくぐもった話声で満たされた。20時、ランベールは相変わらず待っていた。灯りが点けられ、新たな客たちがテーブルに着いた。ランベールも夕食を注文した。20時30分、夕食を食べ終えたが、ゴンザレスもあの二人の若者も姿を見せない。彼はタバコを何本か喫った。徐々に部屋は客が少なくなっていく。外は、あっという間に日が暮れていった。海から吹く生温かい風が、フランス窓にかかるカーテンを静かに持ち上げていた。21時になると部屋には客がいなくなり、ウエイトレスが驚いたように彼を眺めていることにランベールは気付いた。かれは支払いを済まし外に出た。レストランの真向かいでカフェが店を開けている。ランベールはカフェのカウンターに陣取り、レストランの入り口を見張った。21時30分、彼はホテルに向かったが、住所も知らぬゴンザレスと再会する方法を思いあぐね、また一から全てやり直さねばなるぬことを考えると暗澹たる思いに駆られるのだった。

正にその時、救急車が現れてはすぐに消えていく闇の中で、彼はあることに、後にリゥに語ることになるあることに気付いたのだった。つまり、その間ずっと、彼は言わば女の存在を忘れていたこと、彼と彼女を隔てている壁の中にぽっかり口を開けている出口だけをひたすら求めていたことを。しかし、同時にその時、あらゆる道が再び塞がれてしまった今、彼の欲望の中心に、突然弾けるような激しい苦痛を伴って再び彼女の姿が現れたので、振り捨てることの出来ぬ残酷な苦しみから、彼のこめかみに食らいつく焼けるような痛みから逃れるためにランベールはホテルに向かって走り出したのだった。

翌早朝、それでも彼はコタールに会う方法を尋ねるため、リゥに会いに行った。

「こうなった以上」と彼は言った。「もう一度手順を繰り返すしかありません。」

「明日の晩来給え」とリゥは言った。「タルーが僕にコタールを呼んでくれと頼んだのだ、理由は分からんが。コタールは10時に来ることになっている。君は10時半に来てくれ。」


la peste II ㊺

(ミスター・ビーン訳)

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