*ペスト 翻訳 II (1)* | ミスター・ビーンのお気楽ブログ

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アルベール・カミュ


la peste 翻訳



「ペスト」(1947)



II  (1)

その時から、ペストは市民全体の問題になったと言える。それまでは、この奇妙な出来事がもたらした驚きや不安はあるにせよ、市民一人一人は普段通りに各自の活動を続けてきたし、実際それが可能だった。そして、恐らく今後もそれが続くはずだった。しかし一度(ひとたび)市門が閉鎖されると、語り手も含め、全員が袋のネズミであり、それに甘んじるしかないことに市民は気が付いたのだ。こうして、例えば愛する者との別れといった個人的な感情が、もう最初の数週間から市民全体の感情となり、そして恐ろしいことに、この長きにわたる追放期間の主な苦しみになったのだ。

というのも、市門閉鎖がもたらした最も著しい影響の一つは、何の心の準備も無い人々が味わうことになった突然の別れだった。母親、子供、夫婦、恋人たち、彼らは数日前まではこれは束の間の別れにすぎないと信じ、駅のホームで互いに相手の身を案じる言葉を二言三言かけてキスを交わし、数日後には、あるいは数週間後にはまた会えるものと確信していた。いかにも人間的な愚かな自信に浸り、この別れによって日頃の関心事から気を逸らすことも殆ど無かった彼らが、突然、自らの状況を目の当たりにしたのだ。つまりこれは救いようのない別離であり、再会することも互いに連絡を取り合うことも禁じられていることを突如自覚したのだった。というのも、市門閉鎖は県の禁令が公表される数時間前に行われていた。そして、当然のことながら、個々のケースを考慮するなどということは不可能だった。この残酷な病が最初にもたらした結果は、我が市民たちがまるで個人的感情などは持ち合わせていないかのように振る舞わざるを得なくなったことだと言える。禁令が発効した日、最初の数時間は県庁に山のような陳情が寄せられた。陳情者たちは、電話で、あるいは直接職員に対して、どれも興味深い、と同時にどれも調査不可能な個人的状況を披歴していた。実の所、我々が妥協の余地のない状況にあること、「折り合いをつける」、「特別のはからい」、「例外措置」などという言葉がもう意味を持たないことを理解するのに数日かかったのだ。

手紙を書いて少しは満ち足りた気持ちになることすら禁じられた。無論、都市はもう通常の交通手段で外界とつながることは無かったのだが、新たな禁令が出されて一切の文通が禁じられた。手紙がペスト菌を運ぶのを防ぐためだ。初めのころ、特権階級の中には、市門にいる衛兵と渡りをつける連中もいた。衛兵は外部の人間にメッセージを手渡すことを引き受けてくれたのだ。ただし、それはペストの感染が宣告された最初の数日のことであり、衛兵たちが、同情に駆られるのは人として当然だと思っていた時期の話である。しかし、しばらくすると、つまりその同じ衛兵たちが、事態の深刻さを十分に納得する頃になると、彼らはそれがどんな影響を及ぼすのか予測できないような責任を引き受けることを拒むようになった。都市間の電話連絡も最初は許可されていたのだが、公衆電話に人が殺到し、また、回線がパンク状態になってしまったので、数日の間、全く不通になってしまった。そのあと、電話の使用は、死亡、誕生、結婚といった、いわゆる緊急連絡のみに厳しく制限されることになった。そこで、電報が我々に残された唯一の連絡手段となったのだ。それまで、知性、心情、肉体で結びついていた人々は、その昔の絆の印を、10語の電報の大文字の中に求める羽目になった。ところが実際には、電報で使える表現などはすぐに底をついてしまうので、これまでの長い共同生活や苦しい胸の内といった情念もたちまち要約されて、「ゲンキダ キミヲオモッテイル アイジョウヲコメテ」といった決まり文句を定期的に繰り返すだけになってしまうのだった。



la peste II ①

しかし、中には書くことを諦めず、外部と文通するために絶えず策を巡らす者もいる。だが、どんな策も結局は常に徒労に終わるのだ。思いついた手段の中で上手くいくものがあるにしても、返事が来ないのだからどの手段が成功したのか知る由もなかった。そこで、何週間も我々は同じ手紙を書き続け、同じ呼びかけを繰り返す羽目になるのだが、しばらくすると、最初は心の底から湧き出てきた血の滴(したた)るような言葉も内容空疎なものになってしまう。そうなると、我々は機械的に同じ言葉を繰り返し、何とかこうした干からびた文章を通して困難な生活ぶりを伝えようとすることになる。そして挙句の果てに、こういう頑なで不毛な独白よりは、このように壁に向かって味気ない会話を繰り返すよりは、電報を使った型通りの呼びかけの方がまだしもましなように思えるのだった。

しかし、数日後、もう誰も市からは出られないことが明白になると、人々はこんなことを思いついた。伝染病が認定される前に市を出て行った人々の帰還が許されるかどうか当局に尋ねてみようと思いついたのだ。数日熟慮した後、県庁側はイエスの答えを出した。しかし、帰還者はいかなる場合も再び市から出ることは出来ない、市に戻る自由はあるが、再び市から出る自由は無いと明言した。それでもやはり、稀ではあるが、事態を軽く見る家族もいた。そしていかなる慎重な配慮よりも身内に再会したいという欲望が先に立ち、市外にいる身内に対し、是非この機会を利用するように誘ったのだ。しかしたちまち、言わばペストの囚人となった人々は、自分たちのせいで身内が危険にさらされることを理解し、あきらめてこの別離の苦しみを味わう道を選んだ。ペストが最も猛威を振るった時期、人間的な感情が酷(むご)い死に様への恐怖に打ち勝った例は一例しか見られなかった。世間の予想とは裏腹に、死の苦しみなどものともせず互いに身を寄せ合う道を選んだのは恋人たちではなかった。その一例とは、長年夫婦生活を営んできた老医師カステルと彼の妻だったのだ。カステル夫人はペスト騒ぎが起こる数日前に隣町に出かけていた。しかも、カステル夫妻は、非の打ちどころのない幸福を世間に示してくれるような夫婦ですらなかった。語り手である私には言えるのだが、これまでこの夫婦は、十中八九、一緒に暮らすことで互いに満足しているなどという確信は持てないでいたのだ。しかし、この突然のいつ果てるとも知れぬ別れのせいで、この二人は、互いに離れて暮らすことはできないこと、そして突然明らかになったこの真実に比べれば、ペストなどは物の数ではないことを確信したのだった。


la peste II ②

しかし、それは例外に過ぎない。大多数の場合、別離はペストの終焉と同時にしか終わらないのは明白だった。そして市民全員にとって、生活の基盤となる感情、自分ではよく分かっていると思い込んでいる感情(前にも述べたが、オラン市民の情念は単純である)、それが新たな顔を見せ始めたのだ。パートナーに全幅の信頼を置いている夫たち、恋人たちが、嫉妬の芽生えを感じていた。息子たちは、それまでまともに母親の顔も見ずにその傍で暮らしていたのだが、今や頭から離れぬ母の顔、そこに刻まれた一本の皺の中にあらん限りの不安と後悔の念を注いでいるのだった。この突然の別れ、完璧な別れ、先の見込みのない別れのせいで、我々の心は千千(ちぢ)に乱れ、まだ身近でありながら、既に遠く離れてしまった大事な人の思い出、日々我々の心を占める思い出に逆らうことが出来なくなっていた。実の所、我々は二重の苦しみを味わっていた。先ず、我々自身の苦しみ、次に、不在の人々、つまり、息子や、妻や、恋人が味わっていると想像される苦しみだ。

それに、別の状況であれば、我が市民たちは、町の外の、もっと活動的な生活の中に出口を見い出していたことだろう。しかしペストは同時に、市民たちに無為の生活を送らせることになった。つまり市民は、陰鬱な市内を堂々巡りする羽目になり、来る日も来る日も思い出のもたらす期待外れの作用に身を任せることになったのだ。というのも、当て所(あてど)も無い散策に出かけても、常に通る道は同じであり、たいていの場合、こんな小さな都市なので、正にその道は、今はここにいない人とかつて歩き回った道になってしまうからだ。

こうして、ペストが我が市民たちに最初にもたらしたものは、流刑であった。そして、語り手である私は、全市民を代表して、語り手自身が当時味わった気持ちをここに書き記し得るものと確信している。というのも、語り手は多くの我が市民たちと同時にそれを味わったからだ。そう、常に我々の中にあったこの心の空洞、この鮮明な心の動揺、過去に戻りたい、あるいは逆に、時の歩みを進めたいという理不尽な願い、記憶の底から矢の様に降りかかる身を焦がす思い出、それは正に流刑がもたらす感情であった。たとえ、ときには想像に身を任せ、帰宅を報せるベルの音や階段から聞こえる聞き慣れた足音に嬉々として耳を澄ませる気持ちなり、その時は、実際は列車が走っていないことは忘れることにして、普段なら夜の急行に乗った旅行者が我々の住む地区に降り立つ時間に家にいるように手筈を整えたとしても、無論、そんな遊びは長続きするものではない。列車は来ないことを嫌でも自覚する瞬間が必ずやって来る。そうなると我々は、別離はいつ果てるとも知れぬものであり、時間というものと折り合いを付けねばならぬことを悟るのだった。それ故、結局、我々は囚人の立場に戻り、過去だけを見つめて過ごすことになる。そして、例え未来を見つめて生きようと試みる者が我々の中に何人かいるとしても、一般に想像力を信頼する者たちに、結局は、他ならぬ想像力自身が与える心の傷を被(こうむ)ることで、彼らは、速やかに、少なくとも出来うる限り速やかに、そんな企てを放棄してしまうのだった。


la peste II ③

特に、我が都市の全ての市民は、おそらく身につけられたはずの習慣、つまり別離の期間を計算する習慣を、あっという間に、しかも公然と捨ててしまった。何故か?それはこんな理由からだ。最も悲観的な人々が、別離の期間を、例えば6か月と定め、予めその6か月間で味わうありとあらゆる苦しみを数え上げ、その試練に耐えるだけの勇気をかろうじて絞り出し、最後の力を振り絞って、長きにわたる日々、間断なく続くこの苦しみに臆することなく立ち向かう覚悟が出来たとき、偶々出会った友人であったり、新聞に載った意見であったり、ふと頭に浮かんだ疑いであったり、あるいは急に先の見通しがはっきりしたりすることで、結局、ペストが6か月以上は続かないという理由はなく、おそらく1年、もしくはそれ以上続くかもしれぬことに気付いたからなのだ。

そのとき、市民たちの勇気、意志、忍耐は突然ガラガラと崩れ去ってしまい、もう二度とその落ち込んだ穴からは這い上がれないように思えるのだ。その結果、彼らは無理にでも、もう二度と解放の期限に思いを馳せないこと、もう未来に目を向けないこと、言わば、つねに目を伏せたままでいることを自らに課したのだった。しかし、当然、このような慎重な態度、苦痛を避けるために策を弄したり、戦いを避けるためにガードを固めるこのようなやり方は報われることも少なかった。彼らは、何としても受け入れ難いこの崩壊を避けると同時に、あの瞬間を、それもかなり頻繁に訪れるあの瞬間を味わう機会を自ら退けてしまったのだ。あの瞬間、つまり、来るべき再会を思い描くことでペストのことなど忘れられる瞬間だ。こうして、絶望の淵と歓喜の頂点から程よい距離を置くことに失敗して、彼らは方向の定まらぬ日々と不毛な思い出に身を任せ、甘んじて苦悩という土壌に根を張ることでしか力を持ちえない彷徨(さまよ)える亡霊のように、生きているというよりはむしろ漂っていたのである。

こうして、市民たちは、あらゆる囚人や流刑者が味わう深い苦しみ、何の役にも立たぬ思い出と共に生きるというあの深い苦しみを味わっていた。しかも、彼らが絶えず思いを馳せていた過去は後悔の味しかしない。というのも、彼らはやり残したことを悔やんでいるすべての事柄をできればその過去に付け加えたいと願っていたのだ。やり残したこと、それは、彼らが今待ち続けている彼、または、彼女が傍らにいた頃に一緒にやれることだった。また、市民たちは囚人暮らしのありとあらゆる状況に、それが比較的幸福な状況の場合でも、不在者をそこに付け加えていた。そこで、現状は満足のいかぬものになってしまう。こうして、現状に耐え切れず、過去に敵対し、未来を奪われている我々は、人間の正義と憎しみ故に鉄格子の背後で暮らすことを強いられる人々と正に似通った存在になっているのだった。最後に、この耐え難いヴァカンスから逃れる唯一の方法は、想像力を駆使して再び電車を走らせ、頑固なまでに押し黙っている呼び鈴のチャイムを繰り返し鳴らすことで時間を埋めることなのだ。


la peste II ④

しかし、流刑と言っても、大多数は自宅軟禁のようなものだ。そして、語り手は人並みの流刑しか体験しなかったが、ランベール記者その他の、市民ではない人々のことを忘れてはならない。彼らにとって別離のもたらす苦痛は、以下の事実によって弱まるどころか逆に倍増したのだった。つまり、不意にペストに巻き込まれ、オランに拘禁されることになった彼らは、再会の叶わぬ人と切り離されているばかりでなく、故郷とも切り離されているのだ。流刑全般の中で、彼らが最も重い流刑者であった。何故なら、市民同様、彼らは時間がもたらす固有の苦悶を味わっていたが、空間への執着もあり、ペストに侵された彼らの避難所と失われた故郷とを隔てる壁に絶えずぶつかっていたのである。無言のまま、彼らだけが知っている夕闇や、祖国の朝に呼びかけながら、埃まみれの市内を一日中彷徨(さまよ)い歩いていたのはおそらく彼らなのだ。そのとき彼らは、例えば、ツバメたちの飛翔、夕暮れ時の一滴の露、あるいは人気のない通りに太陽がときどき残していく奇妙な光線といった、思いがけぬ徴(しるし)、心惑わすメッセージのせいで心の痛みを深めていったのだった。常に何事からも救ってくれるあの外の世界には目もくれず、彼らは頑なに、生々し過ぎる幻想を培(つちか)い、ある種の光や2,3の丘、お気に入りの木や女たちの顔が、彼らにとってかけがえのない風土を作っている土地、その土地のイメージを全力で追い求めているのだった。

最後に、最も興味をそそる恋人たちのことをより明確に語ることにするが、語り手は、彼らの身の上を語るには誰よりもうってつけの立場にいる。その恋人たちは更に別の様々な苦悩に苛(さいな)まれていたのだが、中でも特筆すべきは後悔の念である。このような状況に追い込まれて、実際彼らは、ある意味熱に浮かされたような客観的態度で己(おのれ)の感情を考察する機会を与えられていた。そしてこのような場合、たいていは己自身の欠陥が明確に姿を現すのだった。その最初の機会が訪れるのは、不在者の行為や仕草をいざ正確に思い描いてみようとしても、それがなかなか上手くいかない場合である。そのとき彼らは不在者の時間の過ごし方について自分が無知であったことを嘆く。つまり、軽率にも不在者の時間の過ごし方について日頃から情報を集めることを怠り、愛する者にとって、愛している人の時間の過ごし方などはあらゆる喜びの源にはならないと信じ込む素振りをしていたこと、その己の軽率さを責めるのだ。そうなると、自分たちの恋を遡り、その欠陥をあれこれ調べ上げるのは簡単であった。普段なら、意識するにしろしないにしろ、我々は皆、実態以上の恋などは存在しないことは分かっているし、それでも、かなり冷静に自分たちの恋がお粗末なものであることを受け入れるのだった。しかし、思い出というものは現実よりも容赦がない。そして、極めて首尾一貫しているのだが、外部から我々の身に降りかかり、都市全体を打ちのめすこの不幸は、我々が当然憤(いきどお)ることが出来た筈の不当な苦しみを我々にもたらすだけではなかった。それはまた、我々自身のことで我々が悩むように仕向け、そうすることで、苦痛は自業自得と思わせているのだった。それが正に、このペストという病が持つ、人の注意を逸らし、事態を混乱させるやり方の一つだったのだ。


la peste II ⑤

こうして、それぞれが、ただ空だけを相手にしてその日暮らしを送る道を受け入れるしかなくなった。このようにすっかり見離されること、それは長い目で見れば性格を鍛えることになるのだが、初めは人を浮ついた性格にしてしまう。例えば、我が市民たちの中には、気分はすっかりその日の天気次第という者も現れた。彼らを見ていると、生まれて初めて、しかも直に、その時々の天気から影響を受けているという気がする。一筋の黄金の光が訪れただけで表情が輝き、一方、雨の日々はその表情と思いは厚いヴェールに覆われてしまうのだ。数週間前の彼らは、このような弱さ、このような不条理な隷属状態を免れていた。何故なら、彼らは一人で外界に立ち向かっているわけではなく、共に暮らす人がある程度外界の前に立ちはだかっていたからだ。ところが、都市封鎖の瞬間からは、彼らは明らかに空の気まぐれに身を任せた。つまり、理由なく苦しんだり、期待を抱いたりしたのだった。

このような極限的な孤独の中では、結局、だれも隣人の助けなど期待することはできない。そしてそれぞれが、思い思いの懸念を抱いて孤立していたのだ。たまたま、我々のうちの誰かが胸の内を打ち明ける、或は、自分の感情の幾許(いくばく)かを語ろうとしても、どんな答えであれ、返ってくる答えは、たいていの場合彼の心を傷つけるものだった。そのとき彼は、相手と自分が同じことについて話していないことに気付くのだ。彼の方は、長い日々をかけて反芻し、苦しんだ挙句湧き上がって来た気持ちを伝えているのであり、彼が伝えたいイメージは、長い間、期待と情熱の炎に架けられて煮詰まったものだった。ところが相手方は、お定まりの感情、ありきたりの苦しみ、判で押したような憂鬱を思い描くことになる。好意的であれ、冷たいものであれ、答えは常に的外れであり、そんな試みは諦めなければならなかった。あるいは少なくとも、沈黙していることに耐えられない人々は、他人は心が生み出す本当の言葉が分からないのだから、諦めてありきたりの言葉を使い、自分もまたお定まりの表現、言わば、単純なレポート風の表現、三面記事風の表現、日々のコラム風の表現で話すことになる。そこでもまた、正真正銘の苦しみがありふれた会話表現で伝えられると言う癖がついてしまったのだ。こうした代償を払って初めて、ペストに囚われた人々は管理人の同情を、或は、聞き手の関心を手に入れることができるのだった。

しかしながら、最も肝心なことだが、このような苦しみがどんなに辛いものであっても、虚ろな心は運ぶにはどれほど重いものであっても、この種の流刑者たちは、ペストの初期段階では恵まれていたと言ってさしつかえない。というのも、人々の気が動転し、取り乱し始めたまさにその時期に、彼らの思いは再会を待ち焦がれている人の方にすっかり向けられていたからだ。皆が悲嘆に暮れていた中で、愛のエゴイズムは彼らの身を守っていた。そして、彼らがペストのことを考えるのは、ペストが愛する人との別れを永遠のものにしてしまう、そんな危険があるときに限られるのだ。こうして、彼らはペスト流行のさ中でも、人が冷静を保つために取り入れてみようかという気になる有益な気晴らしを携えていた。例えば、偶々彼らの一人がペストで亡くなったとしても、殆どの場合、彼はペストに対して何の用心もしていなかった。不在の人と心の中で長々と語り合うという状態から引き離されて、突然彼は大地という最も分厚い沈黙に放り込まれるのである。その間、彼には何をする暇もなかったのだった。


la peste II ⑥

(ミスター・ビーン訳)

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