アルベール・カミュ
「ペスト」(1947)
I (7)
翌日、見当違いであると判断されはしたが、リゥがしつこく主張したおかげで、県庁で保健委員会を招集してもらうことになった。
「なるほど、市民は不安に思っているがね」とリシャールも認めていた。「それに、お喋りってやつは何でも大袈裟にしてしまう。知事はこう言っていたよ。『やりたければ、手早くやってしまおう、ただし目立たぬようにだ。』それに知事は取り越し苦労だと思い込んでいる。」
ベルナール・リゥはカステルを自分の車に同乗させて県庁に向かった。
「知っているかね?」とカステルがリゥに言った。「県には血清が無いのだ。」
「知ってます。県の薬品保管部に電話しましたから。部長は驚いて腰を抜かしてましたよ。パリから取り寄せなきゃなりません。」
「時間がかからなきゃいいが。」
「もう電報を打っておきました。」とリゥは答えた。
知事は愛想は良かったが、ピリピリしている。
「始めましょうか、みなさん」と知事は言った。「先ず、私からかいつまんで状況を説明すべきですかね?」
リシャールはそれには及ばないと考えていた。医者たちは状況を知っているからだ。それより問題は、ただいかなる処置を下すのが適切かを知ることなのだ。
「問題は」と老カステルはあからさまに言ってのけた。「ペストかどうかを知ることです。」
2,3人の医者が叫び声を上げた。他の連中はためらっているようだ。知事の方は椅子から飛び上がり、思わずドアの方を振り向いた。このただならぬ発言がドアから廊下に漏れはせぬかと確認するような素振りだった。リシャールが声高に意見を述べた。私見では、パニックになるべきではない。これは鼠蹊部の炎症を併発する熱病だ。今言えるのはそれだけである。仮説というものは、日常生活においても科学においても常に危険を伴うものだ。老カステルは、黄色い口髭を静かにゆっくり噛んでいたが、澄んだ目を上げてリゥの方を見た。それから出席者一同に好意的な視線を向けて、こう指摘した。自分はそれがペストだとよく分かっている。しかし、無論、それを公式に認めることになれば、非情な対策を取らざるを得ないだろう、それもよく分かっている。結局、それ故に諸君が尻込みしているのも分かる。従って、諸君を動揺させないように、それはペストではないと認めても差し支えは無いのだ。知事は興奮して、そういう考え方は良くないと声高に言った。
「肝心なのは」とカステルは言った。「考え方の良し悪しではなくて、これを契機に皆にジックリ考えてもらうことだ。」
リゥが黙っていたので、皆は彼の意見を求めた。
「チフスのような熱病ですが、リンパ節腫と嘔吐を伴います。私はリンパ節腫を切開しました。そのおかげで、分析を行う運びになったわけです。分析の結果、試験所はずんぐりした形のペスト菌の存在を認めています。しかしながら、完璧を期すために申しあげるなら、この観察された細菌に固有のいくつかの変異は従来の記述とは一致しません。」
リシャールは、だからこそ早計な判断は禁物であり、数日前から一連の分析が始まっているのだから、少なくともその統計結果を待つべきだと強調した。
「ある細菌が」短い沈黙の後、リゥは言った。「三日で脾臓の体積を4倍にし、腸間膜リンパ節をオレンジ大の大きさにし、粘り気のある粥上のものにしてしまう力がある場合、それこそ正に、ぐずぐずしていることは許されない。感染源は拡大しています。この病気の今の感染速度ですと、病気が食い止められない限り、2か月以内に市民の半数が命を奪われる危険があります。したがって、この病気をペストと呼ぼうが、成長熱と呼ぼうが、そんなことはどうでもいい。唯一肝心なことは、この病気のせいで市民の半数が命を奪われる事態を防ぐことです。」
リシャールは、何事も悲観的に考えてはならぬ、それに、自分の患者の身内はまだ無事なのだから、感染は証明されていないという意見だった。
「しかし、死んでいる者もいる」とリゥは指摘した。「それに、100%感染するというものでもない。さもなければ、感染者の数は数学的には無限に増え、凄まじい人口減少を引き起こすことになる。物事を悲観的に考えるなどということではないのです。予防策を講じることが肝心なのです。」
しかしながらリシャールは、以下のことを想起させることで事態をまとめようと考えていた。つまり、この病気が自然に歩みを止めるのでなければ、それを食い止めるには、法律で規定された重大な感染予防策を適用しなければならない。そのためには、病気がペストであることを公式に認めなければならない。しかし、その点では、まだ絶対的な確信が持てる段階ではない。したがって、まだ熟考する必要があるというわけだ。
「問題は」とリゥは食い下がった。「法律が規定する予防策が重大なものであるかどうかということではなく、市民の半数が命を奪われるのを防ぐのに、それらの予防策が必要であるかどうかということなのです。その他のことは行政の仕事だ。それにまさに、我が国の諸制度はこのような諸問題を解決するために、予め知事という役職を設けたわけです。」
「おそらくそうだろう」と知事が言った。「しかし、私にはペストの感染であると君たちが公式に認めることが必要なのだ。」
「たとえ我々がペストだと認めなくても、依然として、この病気のせいで市民の半数が命を奪われる危険はあるのですよ。」
リシャールがやや興奮して口を挟んだ。
「実の所、我が同僚リゥ医師はペストだと信じている。彼が詳述する症候群を聞けば、それは明らかだ。」
リゥは、自分は症候群を詳述したわけではない、自分が見たままを詳しく述べたまでだと答えた。つまり、自分がこれまで見たのは、リンパ腺腫、斑点、並外れた発熱、48時間で死に至る発熱だ。リシャール氏は、厳しい予防措置を取らずとも感染は終息すると責任を持って言い切れるのだろうか?
リシャールはためらい、リゥを眺めた。
「君の考えを言ってくれ。君は本気でペストだと確信しているのか?」
「問題の立て方が間違ってます。言葉の問題ではなくて、時間の問題なのです。」
「君の考えは」と知事が言った。「たとえペストでないにせよ、ペストのときに課される予防措置を適用すべきだということのようだな。」
「どうしても考えを聞かせろというなら、正にそれが私の考えです。」
一同は協議をし、リシャールが最後にこう結んだ。
「つまり、我々は責任を持ってこれがあたかもペストであるかのように行動しなければならぬということだ。」
この言い回しに一同は熱烈な賛意を示した。
「これは君の意見でもあるわけだな?親愛なるリゥ君。」とリシャールが尋ねた。
「言い回しなどはどうでもよろしい」とリゥは答えた。「ただ、市民の半数が命を奪われることは無いなどと楽観して行動すべきではないと言っておきましょう。何故なら、そうなれば実際、半数が命を奪われるのです。」
一同が苛立つ中、リゥは会場をあとにした。その少し後、揚げ油と尿の匂いがする周辺地区で、鼠蹊部を血だらけにし断末魔の悲鳴を上げている一人の女が、リゥの方に身体を向け、助けを求めていた。
(ミスター・ビーン訳)