*異邦人 翻訳*(第二部 第五章) | ミスター・ビーンのお気楽ブログ

ミスター・ビーンのお気楽ブログ

好きな音楽の話題を中心に、気の向くままに書いていきます。

アルベール・カミュ
$ミスター・ビーンのお気楽ブログ-一部 第1章①


2時間45分14秒から



「異邦人」(1942)

第2部

第5章



これで三度目になるが、僕は教戒師の訪問を断った。話すことなど何もないし、話したくもない。いずれ顔を会わせることになるのだから。目下の興味は、ギロチンという機械装置から逃れること、この避け難い状況に出口があるかどうかということなのだ。僕は独房を変えられた。寝そべると、そこから空が見える。と言うより、空しか見えない。毎日、昼から夜へと変わる空の色の変化を眺めて一日が過ぎる。僕は寝そべったまま、両手を頭の下に入れて待っている。過酷な機械装置を逃れ、処刑前に姿をくらまし、非常線を突破した死刑囚がいたのかどうか、僕は何度考えたかわからない。僕はそのとき、処刑の話に十分注意を払ってこなかったことを悔やんでいた。こういう問題には常に関心を持つべきなのだ。何が起こるか知れたものじゃないのだから。人並みに、処刑にまつわる新聞記事は読んでいた。しかし、それまで読もうとも思わなかった専門の書物がきっとあるはずだ。そこには脱走の話が幾つか載っていたかもしれない。少なくとも一度ぐらいは運命の輪が止まり、処刑というこの抗しがたい殺人計画の中で、ただ一度だけ、偶然とチャンスが働いて事態が変わったことがあったかもしれない。たった一度!ある意味、僕にはそれで十分だったと思う。後は僕のやる気次第だ。新聞はよく社会に対して借りがあるという言い方をしていた。新聞に寄れば、その借りを、死を持って償わなければならぬというわけだ。しかし、それでは何のイメージも湧いてこない。肝心なのは、逃亡の可能性があり、過酷な儀式から飛び出し、狂ったように走れるかということ。それしか希望を実現する道は無い。無論、希望というのは、街角を全力で走っているとき、一発で撃ち殺されるということだ。しかしよくよく考えてみれば、そんな贅沢が許されるはずもなかった。僕には何の手立てもなく、あの機械装置からは逃れられないのだ。

どんなに好意的に考えても、僕はこうした傲慢とも言える確実な進行振りを受け入れることは出来なかった。なぜなら、結局のところ、こうした事態を生み出した判決と、判決がくだされてからのゆるぎない事態の進行振りとの間には滑稽なまでに不均衡なところがあるからだ。判決文が17時ではなくて20時に読まれたこと、全く別の判決が下される可能性もあったこと、判決が下着を換えるただの人間によってなされたこと、判決がフランス国民(ドイツ国民でも中国国民でも同じことだ)というあいまいな概念を根拠に下されたことなどを考えれば、この決定にはひどく真面目さが欠けているように思えた。しかしながら、判決が下されたとたん、後に続く結果はこの牢獄の壁、僕が手当たりしだい身体を打ちつけている牢獄の壁と同じぐらい確実な事実となる。僕はそのことを認めざるを得なかった。





こんなとき、僕は母さんが父について語ってくれた話を思い出した。僕はそのときまで父のことを知らなかった。父について僕が正確に知っていることと言えば、おそらく母さんがそのとき話してくれたことだけだ。父は人殺しの処刑を見に行ったのだった。処刑場に行くと思っただけで、父は気分が悪くなっていた。それでも出かけて行って、帰って来ると午前には吐いていた。その話を聞いたとき、父に少し嫌悪感を覚えたが、今となれば理解できる。しごく当然のことなのだ。死刑ほど大事なものは無い、結局、人間にとって本当の意味で興味を引くものはそれだけだと何故あのときの僕には分からなかったのだろう?万一、出獄するようなことがあれば、一つ残らず死刑を見に行こう。でも、そんなことが可能だと考えるのはまちがっていたと思う。なぜなら、ある朝自由の身になり、非常線の背後、いわば向こう側の人間になると考えると、そして自分が処刑を見に来て、その後嘔吐するかもしれない見物人になると考えると、毒々しい喜びが波のように心に押し寄せてくるが、そんな考えは理にかなっていないからだ。そんな仮定に基づいて想像を膨らませるのは間違っていた。というのも、その直後、僕はひどい寒気に襲われて毛布の下で身体を丸めていた。歯がガチガチと鳴り、自分を抑えることが出来なくなったのだ。

しかし、当然のことながら、人は常に理性的でいられるわけではない。例えば別のときに、僕は法案を作ってみた。刑法を改正したのだ。僕は受刑者に一つチャンスを与えることが肝心だと気づいていた。千に一つのチャンス、事を丸く収めるにはそれで十分だ。僕は、患者が(僕は死刑囚を患者と思っていた)服用すれば十中八九死に至る化学化合物があるはずだと思っていた。ただし、死刑囚がそれを知っていることが条件だ。なぜなら、よく考え、冷静に考察して確認したのは、ギロチンの刃の欠陥は、死刑囚が全く助かるチャンスが無い、絶対に無いということだ。要するに、受刑者の死は確定していた。それは決裁事項、既定の段取り、了解済みの同意であり、再考の余地は無い。万が一、不発に終われば、またやり直すことになる。従って、厄介なことに受刑者も機械がうまく作動することを願わなくてはならない。それがギロチンの欠陥だと言っているのだ。ある意味で、この考えは正しい。しかし別の意味で僕は、ある仕組みが円滑に進む秘訣は正にそこにあると認めざるを得ない。結局、受刑者は精神的に協力する羽目になる。全てが恙(つつが)なく進むことが彼の利益になるのだから。


僕はまた、次のことを確認する羽目になった。つまり、これらの問題についてそれまで僕が抱いていた考えは正確ではなかったのだ。ぼくは長い間―理由は分からないが-こう考えていた。ギロチンの所に行くには処刑台に上がらなくてはならない、階段を一歩一歩昇らなければならないと。それは1789年の大革命のせいだと思う。つまり大革命時代の処刑について教えられたことや見せられたことのせいなのだ。しかし、ある朝、僕は世間の耳目を集めた処刑が行われた際、新聞が公表した一枚の写真を思い出した。実際には、その機械装置はひどく素っ気なく、地面に直に置かれていたのだ。それは僕が思っていたよりもはるかに幅の狭いものだった。もっと早くそれに気づかなかったのはかなり奇妙なことだ。その写真に写っていた機械が、精密で完成度が高く、キラキラしていることに僕は驚いていた。人は常に未知のものを誇張して考えるものだ。想像とは裏腹に、僕は全てが単純であることを認めざるを得なかった。その機械は機械に向かって歩いてくる人間と同じ背丈なのだ。歩いて人と出会うようにその機械に出会う。それもまた気が滅入ることだった。処刑台の方へ上がって行く、大空に向かって昇っていく、想像力もその動作に付随して高まっていける。ところが、その点でも現実の機械装置は全てを台無しにしていた。罪人は、密やかに、少しばかり恥ずかしい思いを抱いて、極めて確実に殺されていくのだった。

第二部 第5章②

また、始終頭から離れないことが二つあった。夜明けと恩赦請願のことだ。それでも僕は自分に言い聞かせて、もうそのことは考えないように努めていた。横になり、空を眺め、空に興味を持とうと努めてみる。空が緑に変わり、夕方がやってくる。さらに思考の流れを変えようと努力してみる。僕は心臓の鼓動に耳を傾ける。これほど長い間僕のお供をしてくれているこの音が止んでしまうなんて想像も出来なかった。僕はこれまで一度も真の想像力を働かせたことはない。それでもそのときは頭の中で、この心臓がもう鼓動しなくなる瞬間を思い描こうと努めてみた。でも無駄だった。夜明けあるいは恩赦請願のことが頭を離れない。結局、無理に自分を押さえつけないのが最も賢明だと思うようになった。

彼らは夜明けにやって来る、僕はそれを知っていた。要するに、僕はその夜明けを待つために夜を使ったのだ。不意打ちを食らうのは決して好きじゃなかった。自分の身に何かが起きるときは、身構えている方がいい。だから僕は、結局、もう昼間少し眠るだけにして、夜はずっと辛抱強く天窓に明かりが射し込むのを待っていた。一番厄介なのは、普段おそらく処刑がおこなわれると思われる時間帯だ。真夜中が過ぎると、僕は身構え、外を窺っていた。僕の耳がこれほど物音に敏感になり、ほんのわずかな音も聞き逃さなかったことはそれまで無かった。それに、その間ずっと僕はある意味幸運だったと言える。というのも決して足音が聞こえることはなかったからだ。母さんはよく、人は完全に不幸になることは無いと言っていた。空が茜色に染まり、新しい日の光が独房に射し込んで来ると、僕は牢獄の中で母さんの言う通りだと思っていた。何故なら、そのとき足音が聞こえ、心臓が張り裂ける思いを味わったかもしれなかったのだから。たとえほんのわずか何かが滑る音が聞こえてもドアに駆け寄り、ドア板に耳を押し付け、気も狂わんばかりに待ち受けることがあっても、たとえ挙句の果てに自分の呼吸が聞こえ、それがしわがれた音で、犬の呼吸に似たぜいぜいする音であり、それに気づいてぎょっとすることがあっても、結局、心臓が張り裂けることは無く、僕はまたこの先24時間を手に入れることになったのだ。


第二部 第5章①

一日中、特赦請願のことが頭にあった。僕はその考えを最大限活用してみたと思う。「受け」を計算し、いろいろ考えた挙句最良の見返りを手に入れてみたのだ。僕は常に最悪の仮定を立ててみた。つまり請願が却下されることだ。「そう、だから僕は死ぬことになる。」他の人間より早く、それは明らかだ。でも、人生など生きるに値しないのは誰でも知っている。結局、三十で死のうが七十で死のうが大して変わらない。僕はそのことを知らないわけではなかった。というのも、どちらにせよ、当然他の人間は、男にせよ女にせよ、この先生きるのだし、何千年もその辺の事情は同じなのだ。要するに、これほど明白なことはなかった。今だろうが20年先だろうが、僕が死ぬことには変わりない。そのとき、こう考えているうちに少し心に引っ掛かるものがあった。それは、この先20年生きると考えるとひどく心が弾んでしまったことだ。でも、そんなものは押し殺してしまえば済む。つまり、20年後にやはり死に直面したときに、自分はどう思うだろうかと想像してみればいい。どうせ死ぬのだから、どう死のうがいつ死のうがどうでもいい、それは明らかだった。だから(厄介なのは、この「だから」という言葉が表している思考の全ての道筋を見失わないことだ)、だから、僕は恩赦請願の却下という仮定を受け入れざるを得なかった。

そうなって、そうなって初めて、僕は言わば権利を手に入れることになる。つまり、「恩赦を受ける」という二番目の仮定に近づく許可を、言わば、自分に与えることができた。厄介なのは、狂おしい喜びで僕の目を刺激するこの血と肉の高まり、それを落ち着かさねばならぬことだ。ぼくは叫び声を小さくし、それを抑えることに努めねばならなかった。たとえ恩赦という仮定にたっても自然体でいなくてはならない。そうすることで、最初の仮定から生まれる諦観をより真実にすることが出来るのだ。それに成功すると、僕は一時の落ち着きを手に入れるのだった。束の間とはいえ、それは大したことだった。


第二部 第5章⑤

再び教戒師の訪問を断ったのはそんなときだ。横になり、空がかなり金色に染まっているのを見て、夏の夕暮れが近づいていることが分かった。僕は恩赦請願という考えを拒否したばかりだったのだが、身体の中を血潮が規則正しく流れて行くのを感じることが出来た。教戒師に会う必要などなかった。ずいぶん久しぶりに僕はマリーのことを考えた。もう彼女からの手紙が来なくなってから随分日にちが経っている。その晩、よく考えた挙句、マリーは多分、死刑囚の愛人でいることに飽きてしまったのだろうと思った。それとも病気にかかったか死んでしまったのかもしれない。有り得ることだ。でも、僕には知りようがない。今や離れ離れになっている二人の肉体を除けば、僕らを結び付けるものは何もないし、互いを思い起こすよすがもないのだから。それにマリーが死んでしまえば、彼女の思い出は僕にはどうでもよくなっているだろう。死んでしまえば、僕はもう彼女に興味を持たなくなるのだから。僕はそれが当たり前だと思っている。だから僕の死後、人々は僕のことなど忘れてしまうのもよく分かる。彼らは僕とはもう何の関係もなくなるのだ。そう考えるのは辛いなどと口に出すことすら憚(はばか)られた。

教戒師が入って来たのは、正に僕がそんな考えに耽っていたときだった。彼の姿を見て、僕は少し体が震えた。教戒師はそれに気づき、怖がらなくてもよいと言った。普通は別のときに来るものでしょうと僕は教戒師に言った。それに答えて彼は、これは恩赦請願とは無関係のごく友好的な訪問だ、それに自分は恩赦請願については何も知らないと言った。教戒師は僕の簡易ベッドに腰を下ろし、隣に座るように手招きした。僕は断ったが、随分優しげな人だと思った。

教戒師は、少しの間座ったまま両ひざに上腕部をのせ、俯いてじっと両手を眺めていた。彼の両手は繊細だったが筋肉質で、敏捷な二匹の獣を思わせる。彼はゆっくりと両手をこすり合わせた。それから、相変わらず俯いたまま随分長い間同じ姿勢でいたので、僕は一瞬彼の存在を忘れてしまったような気がした。


第二部 第5章⑥

しかし教戒師は突然顔を上げ、正面から僕を見据えた。「何故なんです?」と彼は訊いた。「何故君は私の訪問を拒むのです?」自分は神を信じていないからだと僕は答える。それは確かなのかと訊くので、改めて問うまでもない、そんな問題はどうでもいいと思えるからだと僕は答える。すると教戒師は上体を後ろにそらし、壁に背中をつけ、両手を開いて腿に置いた。そしてまるで独り言のように、ときどき自分で確かだと思っていても実際はそうでないこともあると言った。僕は無言のままだ。彼は僕を見つめ、「どう思います?」と訊いてきた。そうかもしれないと僕は答え、いずれにしろ、自分が本当は何に興味があるのかは分からないが、何に興味が持てないかははっきりしている、そして正に、彼の話には興味が持てないのだと答えた。

教戒師は目を背け、相変わらず姿勢は変えぬまま、僕がそんな風に言うのは極度に絶望しているせいではないかと尋ねた。絶望しているのではないと僕は言い、ただ怖いだけだ、それは当然だろうと説明する。「それなら神様が君を助けて下さるかもしれない」と彼は言った。「私の知り合いで、君のような立場にいた者は皆、神様におすがりしていましたよ。」それはその人たちの自由だと僕は認め、それに、それは彼らにはその時間があった証拠でもある、自分は助けてほしいなどとは思わないし、興味のないことに興味が持てるようになるほどの時間が自分にはないのだと言った。

そのとき教戒師は、両手は苛立つ仕草を示したが、再び姿勢を正し法衣の皺を整えた。整え終わると、僕を「わが友よ」と呼びながら僕に声をかけ、自分がこんな話をするのは僕が死刑囚だからではない、自分の考えでは、我々は全て死刑囚なのだと言う。でも僕は話を遮り、それは事情がちがう、それにそんなことを言っても何の慰めにもならないと言った。「確かに」と彼は賛同した。「しかし君は、今日でないにしろ後々死ぬことになる。そのとき、また同じ問題が持ち上がって来る。その恐ろしい試練にどう対処していくのですか?」今と全く同じように自分は対処していくだろうと僕は答えた。

その言葉を聞くと、教戒師は立ち上がり、僕の目を真っ直ぐに見つめた。僕が良く知っている遊びだ。エマニュエルやセレストを相手に僕はよくその遊びをやった。目を先に背けるのはたいてい彼らの方だった。僕にはすぐ分かったが、教戒師もこの遊びをよく知っている。彼の視線は微動だにしない。声の方も揺らぐことなく、彼はこう言った。「それじゃ、君には何の希望もないのですか?君は、死後は無だと思って生きているのですか?」「そうです。」と僕は答えた。

すると彼は、俯(うつむ)いてまた腰を下ろした。僕が気の毒だと彼は言った。人間にとってそれは耐え難いことだと思うと言うのだ。僕は教戒師の存在が疎(うと)ましくなり始めているのを感じているだけだった。今度は僕の方が目を背け、天窓の下へ行く。片方の肩を壁につけて寄り掛かっていた。教戒師の話などよく聴いていなかったが、彼がまた僕に質問をし始めるのが聞こえる。彼は不安な、差し迫った声で話していた。彼が興奮していることが分かり、僕は彼の話をもっとよく聴くことにした。


第二部 第5章⑦

教戒師は、僕の恩赦請願が受理されることを確信していると言っていた。しかし、僕は罪の重荷を背負っている、それから解放されなければならない、彼の考えでは、人の裁きなど無に等しく、神の裁きが全てだと言うのだ。僕を断罪したのは人の裁きだと僕は指摘した。だからと言って、罪が洗い流されたわけではないと彼は答える。罪とは何なのか自分には分からないと僕は彼に言った。自分は有罪であると知らされただけだ。有罪であり、その償いをする、それ以上のことを僕に要求することは出来ないと。そのとき、教戒師は再び立ち上がった。こんな狭い独房では動きたくても選択の余地が無いのだと思う。座るか立つしかなかったのだ。

僕はじっと地面を眺めていた。彼は一歩近づいたが、前に進む勇気が無いとでもいう風に立ち止まった。鉄格子越しに空を眺めている。「息子よ、君は間違っています」と彼は言った。「それ以上のことが要求されるかもしれません。いや、おそらく要求されるだろう。」「一体何をです?」「『見る』ことを要求されるかもしれない。」「何を『見る』のです?」

司祭はぐるっと周りを見回し、突然ひどく疲れているように思える声で答えた。「この周りの石からは苦しみが滲み出ている。私にはそれが分かります。これらの石を見る度に胸が締め付けらる思いがするのです。しかし、心底そう思うのですが、君たちの中で最も惨めな者たちも暗い石の壁から神の顔が浮かび上がるのを見てきたのです。君が見ることを求められているのは正にそのお顔なのです。」

僕は少し活気が出てきた。自分はもう何か月も周りの壁を眺めていると僕は司祭に言った。物にせよ、人にせよ、この壁ほど自分がよく知っているものは無い。随分前のことになるが、多分自分はそこにある顔を探し求めていた。でも、それは日焼けした、欲望の炎を燃え上がらせた顔、つまりマリーの顔だ。それを探し求めたが無駄だった。今はそれも終わりだ。いずれにしろ、あの何かが滲み出てくると言う石から浮かび上がって来るものなど何も見なかったと。

教戒師はある種の悲しみを込めて僕を眺めた。今、僕はすっかり壁に背中を付けている。日の光が額を流れていく。教戒師は二言三言何か言ったが僕には聞こえない。それから彼は僕に接吻してもいいかとひどく早口に尋ねた。「ダメです。」と僕は答える。彼は向きを変え、壁に向かって歩き、片手でゆっくり壁をなぜた。「じゃ君はそれ程までにこの世を愛しているのですか?」と教戒師は呟いた。僕は何も答えなかった。


第二部 第5章⑧

彼はかなり長い間、壁に向いたままだ。その存在が鬱陶しくなり、僕は苛立っていた。もう出て行って僕を一人にしてくれと言いかけたとき、司祭は僕の方に振り向き、突然弾(はじ)けるように叫んだ。「いや、君の言うことは信じられない。君も来世を願うことがきっとあったはずだ。」無論そうだ、でもそれは金持ちになりたいとか、凄く速く泳ぎたいとか、もっと形のいい口元になりたいとかいう願いと大して変わらない。同じ類(たぐい)のものだと僕は答えた。しかし彼は僕の言葉を遮り、来世をどう考えているか知りたがった。そこで僕は、「この世のことを思い出せるようなところさ。」と叫び、もううんざりだと言った。司祭はまだ神のことを語りたがっていたが、僕は彼に、自分には殆ど時間が残されていないと最後にもう一度説明しようとした。神のことなどで時間を無駄にしたくないのだと。司祭は話題を変えようとして、なぜ僕が彼を「ムッシュー」と呼び、「我が父」と呼ばないのかと尋ねた。イラッとした僕は、彼は僕の父親ではない、他人だからだと答えてやった。

「いや、息子よ」と片手を僕の肩に置き司祭は言った。「私は君の味方だ。でも君にはそれが分からない。心が盲(めし)いているからだ。君のために祈ってあげよう。」


そのとき、なぜかは分からぬが、僕の中で何かが弾けた。大声で喚(わめ)きだし、教戒師を罵倒し、祈るのはやめろと叫んだ。僕は彼のスータンの襟を掴んでいた。歓喜と怒りに心ふるわせ、僕は自分の思いを洗いざらい彼にぶちまけた。随分自信ありげな顔をしてるじゃないか。でもな、あんたの確信なんてどれ一つとして、女の髪の毛一本程の価値もない。あんたは死人のように生きているのだから、生きていることにすら確信が持てない。僕は、両手が空っぽに見える。でも自分に確信がある、全てに確信がある、あんた以上に自分の人生とこれから迎える死について確信がある。そうさ、僕にはそれしかない。しかし、少なくとも、この真理が僕を捉えて離さないように、僕はこの真理を掴んでいる。僕は正しかったし、今も正しい。僕は常に正しいのだ。僕はこんな風に生きてきた、別の生き方もできたろう。これはやったが、あれはやらなかった。僕はあることはやらなかったが、別のことはやった。だから何だと言うのだ?僕はその間ずっと、その瞬間を、自分が正しいことを証明してくれるその暁を待っていたようなものだ。何もないのさ、重要なことなど何もない。僕にはその理由がよく分かっている。あんたにも分かっているのさ。僕があの馬鹿げた生活を送っていた間ずっと、未来の奥底から、まだ来てはいない年月を超えて、暗い息吹が僕の方に吹き上がって来た。その息吹が、吹き上がる途中、まだ現実味の少ない来たるべき年月の中で僕に示される提案をどれもこれも大差のないものにしてきたのだ。他人の死や、母への愛が何だと言うのだ?あんたの神様、人が選ぶ人生、人が選ぶ運命が何だと言うのだ?唯一無二の運命が僕という人間を選び取り、僕と共に、あんた同様僕の兄弟だと称する無数の特権者を選ぶことになるのだから。なあ、分かるかい?全員が特権者だ。特権を与えられている人間しかいないのだ。他の連中も、いつの日か死刑宣告を受けることになる。あんたもだ、あんたも死刑宣告をされる。殺人罪で告発されたのに、母親の埋葬で涙を流さなかったと言う理由であんたが処刑されたところで、それが何だと言うのだ?サラマノの犬は奴の奥さんと同じだけの価値がある。あのロボットのようなチビの女も、マソンが妻にしたパリの女も、僕との結婚を望んでいたマリーも、みな等しく有罪なのだ。レモンが、奴よりましなセレスト同様、僕の仲間だから何だと言うのだ?マリーが別の新しいムルソーにキスをしたからどうだと言うのだ?あんたにはこの死刑囚の言うことが分かるか?僕の未来の奥底から…僕は息を詰まらせて、そんなことを叫んでいた。しかし既に教戒師は僕の手から引き離され、看守たちが僕を脅しにかかっていた。しかし、教戒師は看守たちを宥(なだ)め、少しの間無言で僕を見つめた。彼の両目は涙に溢れている。踵(きびす)を返し、教戒師は立ち去った。

教戒師が行ってしまうと、僕は落ち着きを取り戻した。すっかり消耗して、簡易ベッドの上に身を投げ出す。きっと眠ったのだ。目が覚めると顔に星明りが注いでいたのだから。田園のざわめきが僕の所まで聞こえて来る。夜と大地と塩の匂いのおかげでこめかみが爽やかになっていた。この微睡(まどろ)む夏の素晴らしい静けさが上げ潮のように僕の中に入りこんで来る。そのとき、夜の終わりの時刻に、けたたましいサイレンの音がした。今はもう、僕には永遠に無縁のものになった世界への出発を告げているのだ。随分久しぶりに、僕は母さんのことを考えた。人生の終わりに、なぜ母さんが「フィアンセ」を選び、なぜ人生をやり直すふりをしたのか僕には分かるような気がした。様々な命が消えて行く老人ホーム、その周りにあるあの場所、あの場所でも夕暮れは物悲しい束の間の休息だったのだ。死を間近に控え、母さんはあの場所で解放感に浸り、全てを生き直す気持ちになっていた。誰一人、誰一人として母さんのことで涙を流す権利はない。そして僕も、全てを生き直す気持ちになっているのを感じていた。まるであの激しい怒りが僕から悪を一掃し、希望を根こそぎにしたかのように、この様々な徴(しるし)と星々に溢れた夜を前にして、僕は初めて世界の優しい無関心に心を開くのだった。世界をこれ程自分と似たものに、結局は友愛に満ちたものに感じることで、僕は自分が幸福だったと、今もなお幸福であると思うのだった。最後の仕上げのために、また、自分は前ほど孤独ではないと感じるために、僕が最後に望むのは処刑の日に沢山の観衆が集まること、そして彼らが憎しみの叫びをあげて僕を迎えてくれることだった。


第二部 第5章⑩

(ミスター・ビーン訳)

ペタしてね