*異邦人 翻訳*(第二部 第三章) | ミスター・ビーンのお気楽ブログ

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アルベール・カミュ
$ミスター・ビーンのお気楽ブログ-一部 第1章①


2時間03分58秒から2時間29分42秒まで



「異邦人」(1942)

第2部

第3章


結局、あっという間に次の夏がやって来たと言える。初夏になれば自分にとって何か新しいことが起こると分かっていた。僕の訴訟は重罪院の、最後の開廷期に組み込まれていた。最後の開廷期は6月に終了する。外がすっかり夏の日差しになると審理が始まった。それまでの弁護士の話では、審理は長くても2,3日で終わるということだった。「それに」と彼は言っていた。「法廷も忙しい、あなたの件が最重要というわけではありませんから。そのすぐ後に尊属殺人の件が控えているんです。」

朝の7時半に迎えが来て、僕は独房式囚人護送車に乗せられ裁判所に連れて行かれた。憲兵が二人いて僕を薄暗い小部屋に入れる。憲兵たちと僕は扉の近くに座って待った。扉の向こうでは話し声、呼び合う声、椅子を動かす音、それに騒々しい物音が聞こえてきたが、その物音は、コンサートの後、部屋を片付けてダンス会場に変えるあの街の祝典を思わせた。憲兵たちの話では裁判官の入廷を待たなければならないということだ。憲兵の一人がタバコをすすめてくれたが、僕は断った。少しして、彼は緊張しているかと尋ねた。いや、と僕は答え、それどころかある意味、裁判を見ることに興味がある。なにしろこれまで一度も裁判を見る機会がなかったからと言った。「なるほど」ともう一人の憲兵が言った。「でも、結局はうんざりするよ。」

やがて小さなベルの音が部屋に響いた。二人の憲兵は僕の手錠を外し、扉を開け、僕を被告席に入れた。法廷は満席だ。ブラインドを下ろしてあったが、陽光が所々から漏れて空気は息苦しい。窓ガラスが閉まったままなのだ。僕は席に着き、両脇を憲兵が固める。そのとき一列に並ぶ顔が目の前に見えた。皆僕を見つめている。それが陪審員だと分かった。しかし僕には彼らの顔の区別がつかない。そしてこんな印象しか頭に浮かばなかった。つまり、自分は市電のベンチ座席の前にいる。そして名も知らぬ乗客たちが新参者の乗客にどこか滑稽な所は無いかと窺っているという印象だ。それが馬鹿げた考えだったということはよく分かっている。この法廷で陪審員たちが求めていたのは滑稽さではなく犯罪だったのだから。しかし、大して変わりはない。いずれにしろ、それが僕の頭に浮かんだ考えだった。


第二部 第3章①

僕はまた、この閉めきった部屋にこれだけの人が集まっていることに少々呆気にとられていた。改めて法廷を眺めてみたが、誰一人知った顔はいない。僕はこの人たちが僕を見るために押しかけているのを最初はきっと分かっていなかったのだ。普段、僕が人の関心を引くことは無かったのだから。この騒ぎの原因が自分であることを理解するには骨が折れた。「随分いますね!」と憲兵に言うと、彼は新聞社の連中のせいだと答えて、あるグループを指差した。彼らは陪審席の下にあるテーブルの近くに集まっている。「ほら、あの連中だ。」と言うので、「誰です?」と訊くと、憲兵は「新聞社の連中さ。」と繰り返した。彼は記者の一人を知っていて、記者はそのとき憲兵を見ると僕らの方へやって来た。既に年配の、感じのいい男で、少ししかつめらしい顔をしている。記者は憲兵と熱のこもった握手をした。そのとき僕は気が付いたのだが、グループの連中は皆、互いに歩み寄り、大声で名前を呼び合い、話をしていた。同じ境遇の仲間と居ることを喜んでいる俱楽部のような雰囲気だ。同時に、僕は余計者で、侵入者のようなものだ、そんな奇妙な印象を抱いた理由も納得できた。それでも、例の新聞記者は微笑みながら僕に声をかける。全て上手く行くと思いますよと言ってくれたので、礼を言うと彼はこう付け加えた。「いやね、君の事件を少し大げさに報道したのです。夏は新聞には暇な時期でしてね。目玉と言えば君の事件と尊属殺人の件しかなかったんです。」それから、彼が抜け出してきたグループの中にいる背の低い男を指差した。太ったコエゾイタチに似ていて、黒縁の巨大な丸メガネをかけている。パリのある新聞社の特派員だということだった。「と言っても、彼は君の事件の取材に来たわけじゃない。でも尊属殺人の裁判を報告するのが仕事なので、ついでに君の事件も報告するように頼まれたわけです。」そのときも僕は危うく礼を言うところだった。でも、礼を言うのも滑稽だろうと思い直した。記者は僕に向かって、手で心のこもった小さな合図を送り僕らと別れた。僕たちはさらに数分の間、開廷を待った。

僕の弁護士が、たくさんの同僚に囲まれ、法服姿でやって来た。彼は新聞記者たちの方へ行き、握手を交わす。彼らは冗談を言ったり、笑ったり、すっかり寛(くつろ)いでいる様子だ。それからベルの音が法廷に響いた。全員が自分の席に戻る。弁護士は僕の方へやって来て握手をし、質問には手短に答えること、自分からは発言しないこと、後は全て彼に任せるよう僕にアドヴァイスをした。

左側で、椅子を引く音が聞こえた。見ると、赤い法服を着て片メガネをかけ、痩せて、背の高い男がいる。念入りに法服を畳み、腰を下ろすところだった。それが検事だ。廷吏が裁判官の入廷を告げる。同時に、大きな換気扇が二つ唸りはじめた。裁判官が3人、二人は黒、三人目は赤い法服を着て、書類を抱え入廷した。それから足早に、法廷を見下ろす裁判官席に歩いて行く。赤い法服の裁判官は中央の肘掛椅子に座り、トック帽を前に置き、小さな禿げ頭をハンカチで拭うと開廷を宣言した。


第二部 第3章②

新聞記者たちは既に手にペンを持っていた。彼らは皆、無関心で少々嘲笑うような表情を浮かべている。しかし、そのうちの一人は、他の連中よりはるかに若く、グレーのフランネルのシャツを着、青いネクタイを締めていたが、ペンは前に置いたままじっと僕を見つめていた。少し左右非対称の彼の顔の中で、僕に見えるのはとても明るい色の彼の目だけだ。その目は注意深く僕を観察していたがはっきり是と分かる感情を浮かべてはいなかった。そして僕は自分自身に見つめられているという奇妙な印象を受けた。多分そのせいで、また法廷の慣習を知らなかったせいもあり、僕にはその後の出来事が全てあまりよく理解できなかった。陪審員のくじ引き、裁判長による弁護人、検事、陪審団への質問(その度毎に、陪審団は一斉に裁判官たちがいる方を振り返るのだ)、早口で行われた訴状の読み上げ、その訴状には僕が知っている土地の名前や人名が登場し、そして再び弁護人への質問といった具合だ。

しかし、裁判長はこれから証人喚問を始めると告げた。廷吏が僕の注意を引く名前を幾つか読み上げた。ついさっきまで誰が誰やら区別のつかなかった列席者の中から、一人また一人と顔見知りが立ち上がり、側面の扉から消えて行くのが見えた。老人ホームの所長と管理人、トマ・ペレーズ爺さん、レモン、マソン、サラマノ、それにマリーだ。マリーは僕に不安げな、小さな合図を送った。僕はもっと早く彼らに気づかなかったことに改めて驚いていたのだが、その時、最後に名前を呼ばれて、セレストが立ち上がった。彼の横に、レストランにいたあの小柄な女がいるのに僕は気づいた。あの時と同じ上着を着、相変わらずはっきりとした表情を浮かべている。彼女は鋭い目つきでこちらを眺めていたが、僕にはじっくり考える余裕はなかった。裁判長が口を開いたからだ。これから本格的な審理が始まると裁判長は言った。出席者に改めて静粛を求めるまでもないと自分は信じている。公正に審理を導くのが自分の役割だ。自分は客観的な立場でその審理を判断したい。陪審団の下す判決への解釈は正義に基づいて行われる。いかなる場合でも、わずかでも不都合があれば退廷を命じる。

暑さが増していた。法廷では列席者たちが新聞で自分を扇いでいた。そこで、皺になった紙のカサカサと鳴る音が絶えず聞こえてくる。裁判長の合図で廷吏が藁で編んだ3本の団扇(うちわ)を持ってきた。3人の裁判官はすぐにそれを使った。


第二部 第3章③

すぐに僕に対する審問が始まった。裁判長の質問は穏やかで、それどころか僕にはどこか温かみがあるように感じられた。再び次々と身元確認の質問がありいらいらしたが、それもまあ当然かなと思う。別人を裁いたりしたら大変なことになるからだ。それから裁判長は事件当日の僕の行動を再び話し始めた。二言三言(ふたことみこと)話すたびに「間違いありませんか?」と僕に声をかける。その度に僕は、弁護士に指示された通り「はい、裁判長」と答える。随分時間がかかったが、それは裁判長が細心の注意を払って話を進めていったからだ。その間ずっと新聞記者たちはメモを取っていたが、あの一番若い記者と小柄なロボットのような女の視線を僕は感じていた。市電のベンチ席のような陪審員席に座っている連中は、全員が裁判長の方に顔を向けている。裁判長は咳払いをして書類をめくり、団扇(うちわ)で自分を扇ぎながら僕の方を向いた。

これから一見事件とは無関係な質問をすることになると彼は言った。しかし、おそらく事件と密接に関わる質問だと続けた。僕は、また母さんの話をするのだと分かり、同時にひどく煩わしい気がした。なぜ母さんを老人ホームに入れたのかと裁判長は訊く。お金が無くて母さんに介護人をつけられないからだと僕は答える。母親をホームに預けて辛いと思ったかと裁判長が訊く。母さんも僕も、もうお互いから何も期待していないし、誰に対しても何も期待していない、それに二人とも新しい生活に慣れてしまったと僕は答える。すると裁判長は、これ以上自分はこの問題に立ち入るつもりはないと言い、検事に向かって他に尋ねることはないかと訊いた。

検事は半ば僕に背を向け、こちらを見ずに、「裁判長のご許可があれば、被告人はアラブ人を殺す意図で一人泉に戻って行ったのかどうか知りたいのですが。」と声高に言った。「ちがいます。」と僕は答える。「それでは、なぜ被告人は武装していたのでしょうか? それに、なぜ正(まさ)しくあの場所に向かったのでしょうか?」僕は偶然そうなったのだと答える。すると検事は意地悪い口調で、「差し当たり質問はこれだけです。」と言った。その後は、少なくとも僕には何をやっているのかよく分からなくなった。しかし何度か密談を交わした後で裁判長は、一旦閉廷し午後に証人喚問を行うと宣言した。


第二部 第3章④

考える暇(いとま)もなかった。連行されて護送車に乗せられ、監獄に送られて食事をした。ほんのわずかな時間、自分が疲れていることが何とか自覚できるわずかな時間を過ごした後、また迎えが来た。再び全てが始まる。僕は同じ法廷に入り、同じ顔ぶれを前にする。暑さだけがはるかに強烈になっていた。そしてまるで奇跡のように、全ての陪審員、検事、僕の弁護人、それに新聞記者の何人かは藁の団扇を手に入れていた。例の若い新聞記者と小柄な女も相変わらずいる。でも、ふたりは扇ぎもせず相変わらず無言のまま僕を眺めていた。

僕は顔一面の汗を拭った。再び自分がいる場所と自分の立場を多少とも意識したのは老人ホームの所長が証人に呼ばれるのを聞いたときだ。所長は、母さんが僕について愚痴を言っていたかと訊かれると、「はい。」と答えたが、近親者のことで愚痴を言うのは多少とも入居者の癖だと付け加えた。裁判長は所長に、僕が母さんを施設にいれたことで母さんが僕を責めていたか明確に答えてほしいと言った。所長は再び「はい。」と言った。しかし、今度は何も付言しない。別の質問に所長は、埋葬の日に僕が見せた冷淡さに驚いたと答えた。冷淡さとはどういう意味かと訊かれると、所長は靴の先を眺め、それから、僕は母さんの遺体を見ようともしなかった、一度も涙を流すこともなく、母さんの墓の前で黙想することもない、埋葬が済むとそそくさと帰って行ったと答えた。他にも驚いたことがある。葬儀社のある職員の話だと、僕は母さんの歳を知らなかった。一瞬、廷内は静まり返った。すると裁判長は、それは本当に僕のことかと所長に訊く。所長は質問の意味が分からず、「無論です。」と答えた。それから裁判長は次席検事に向かって、証人に尋ねることは無いかと訊く。検事は「いえ、ありません!それで十分です。」と叫んだ。その声がひどく晴れやかで、また勝ち誇ったように僕の方を見るので、何年かぶりに僕は愚かにも泣きそうになった。この人たちの僕に対する憎しみを嫌というほど感じたからだ。

陪審団と僕の弁護人に質問は無いかと尋ねた後、裁判長は管理人の証言を聞いた。管理人の場合も他の証人同様、同じ儀式が繰り返される。入廷すると彼は僕を眺め、それから目を背けた。管理人は尋ねられた質問に答え、僕が母さんの遺体を見ようとしなかったこと、タバコを喫ったこと、通夜の間眠ったこと、カフェ・オ・レを飲んだことを話した。僕はそのとき法廷全体を突き動かす敵意のようなものを感じた。そして初めて、自分が有罪であることを理解した。検察側は管理人にカフェ・オ・レとタバコの話を繰り返させた。次席検事は目に皮肉の色を浮かべて僕を眺める。そのとき弁護人が管理人に、彼も僕と一緒にタバコを喫ったのではないかと尋ねた。しかし検事の方はその質問に激しく異議申し立てをする。「この裁判で、犯罪者は誰でしょうか?しかるに検察側証人を貶(おとし)め、決定的証言を過小評価しようとするやり口はいかがなものか!」それでも裁判長は管理人に、弁護人の質問に答えるよう要求した。老管理人は戸惑った様子で、「自分が間違っていたのはよく分かっています。しかし、ムルソー氏の勧めたタバコを敢えて断る勇気がなかったのです。」と答えた。最後に、何か付け加えることはないかと僕が尋ねられた。「何もありません」と僕は答え、「ただし、証人の言う通りです。確かに僕が証人にタバコを勧めました。」すると管理人は、少し驚いたように、感謝にも似た眼差しで僕を眺めた。管理人はためらった後、僕にカフェ・オ・レを勧めたのは自分だと言った。弁護人は騒々しく勝ち誇ったように、この発言は陪審員の方々に評価して頂けるだろうと宣言した。しかし検事は、我々の頭越しに割れ鐘のような大声で、「その通り、評価して頂けるでしょう。そして他人がコーヒーを勧めたところで、息子たる者、自分を生んだ母親の遺体を前にすれば当然断るべきであるという結論を下されるでしょう。」管理人は席に戻った。


第二部 第3章⑤

トマ・ペレーズの番になると、廷吏は証言台まで彼を支えてやらなければならなかった。ペレーズは、僕の母とは懇意にしていたが僕の姿を見たのは一日だけ、つまり母の埋葬の日だけだと言った。その日、僕が何をしていたかと訊かれ、彼はこう答える。「お分かりでしょうが、私は耐え難いほど悲しかったのです。ですから、何も目に入りませんでした。悲しくて周りが見えなかったんです。私には本当に大きな悲しみでしたから。それどころか、私は気を失ってしまいました。だから、息子さんの姿など目に入りませんでした。」次席検事は、少なくとも僕が涙を流しているのは見ただろうとペレーズに尋ねた。ペレーズが「いいえ。」と答えると、今度は検事が「陪審員の方々には今の発言を重視して頂きたい。」と言った。ところが、僕の弁護人は憤然として、誇張とも思える口ぶりで、「被告人が泣いていないのをご覧になったのですか?」とペレーズに尋ねる。ペレーズが、「いいえ。」と答えると、法廷に笑いが起きた。すると弁護人は片袖をまくりあげ、有無を言わせぬ調子でこう言った。「これぞこの訴訟の実態であります。全てが真実であり、しかるに何も真実ではない!」検事は硬い表情を浮かべて、訴訟記録のタイトルを鉛筆でつついていた。

5分間の中断があり、弁護士は全てがすこぶる順調に進んでいると僕に言った。中断後、弁護側の証人としてセレストの証言があった。弁護側、つまり僕の方だ。セレストはときどき僕の方に視線を送り、両手でパナマ帽を回している。真新しいスーツを着ているが、それはときどき日曜日に僕と一緒に競馬に行くときに着て来たスーツだ。でもカラーを付けることが出来なかったのだと思う。銅のボタンが一つしかなく、それでシャツの前を閉じていたからだ。僕が店の常連客かと訊かれて、「はい、友人でもありました。」とセレストは言う。被告人をどう思うかと訊かれ、男らしい人ですと答える。男らしいとはどういう意味かと訊かれ、どなたもその意味はご存知でしょうとはねつける。被告人が閉鎖的であることに気づいていたかと訊かれ、話題が無ければ黙っているとだけ認めた。次席検事が被告人は食事代をきちんと払っていたかと訊くと、セレストは笑って、「我々は、そんなことは気にもしない間柄でした。」ときっぱり言った。さらに、被告人の犯行をどう思うかと訊かれると、セレストは証人台の手すりに両手をかけた。その様子から彼が何か発言を用意していたことが分かる。「私の考えでは、それは不幸な出来事であります。不幸がいかなるものかは皆さんご存知の通りだ。それは防ぎようがないのであります。でありますから、私の考えでは、それは不幸な出来事であります。」セレストはさらに発言を続けようとしたが、裁判長は「結構です。ご苦労様でした。」と言った。セレストは少し呆気にとられていたが、自分にはまだ話したいことがあると声高に言った。手短に願いますと言われると、セレストは再び「それは不幸な出来事であります」を繰り返した。すると裁判長は、「はい、分かりました。しかし、こういった不幸な出来事を裁くために我々は裁判を行っているのです。ご苦労様でした。」と言った。セレストはまるで万策尽きたという面持ちで、振り向いて僕の方を見る。僕にはセレストの目が涙で光り、唇が震えているように思えた。他に自分にできることは無いかと僕に尋ねているように見える。僕は何も言わず、何の仕草もしなかったが、生まれて初めて男にキスしたいという気持ちになった。裁判長は再び厳しい口調で証人台を離れるように命じる。セレストは傍聴席に行き腰を下ろした。その後の審問の間ずっと、彼は傍聴席で少し前かがみになり、膝に両肘をのせ、両手でパナマ帽を握り、全ての発言にじっと耳を傾けていた。マリーが入廷して来た。帽子を被っていたが、相変わらず美しい。でも僕は髪をほどいているマリーの方が好きだ。僕の席からは、マリーのバストの軽い重みが想像され、相変わらずふっくらとしている下唇が見て取れた。ひどく動揺している様子だ。すぐに審問が始まる。被告人を知ったのはいつからかと訊かれ、同じ会社で働いているときからだと彼女は答えた。裁判長は二人がどんな関係なのかを知りたがった。マリーは、自分は僕の恋人だと答える。また、別の質問に対して、確かに自分は僕と結婚する予定だと答えた。書類をめくっていた検事が出し抜けに、二人の親密な関係はいつから始まったのかとマリーに訊いた。マリーが日付を答えると、検事は何気ない調子で、それは母さんが死んだ翌日に当たるようだがと指摘した。それから、やや皮肉な口調で、自分は微妙な問題に立ち入るつもりはないし、マリーの心労もよく分かる、しかし(ここで、検事の口調は厳しいものに変わった)職務上の義務として礼儀作法を無視してかからねばならないと言った。そして検事は、僕と再会した日の様子をかいつまんで話すようにマリーに要求した。マリーは話すのを嫌がったが、検事の度重なる要求に負けて、一緒に泳いだこと、映画に行ったこと、その後、僕の部屋に行ったことを話す。次席検事は予審でのマリーの供述に従い、その日の映画のプログラムを調査したと言った。さらに、マリー本人の口からそのときどんな映画を上映していたか伝えて頂きたいと付け加えた。殆ど虚ろな声で、マリーはフェルナンデルの映画だと言った。マリーの証言が終わると、法廷はすっかり静まり返っていた。すると検事が立ち上がり、重々しい様子で、僕にはまことに感情的だと思われる声で、僕を指差しながら、一語一語区切るようにゆっくりとこう言った。「陪審員諸兄、母親の死の翌日、この男は海水浴をし、女と怪しからぬ関係を結び、おまけに喜劇映画を観て笑っていたのです。これ以上、私から申し上げることは御座いません。」検事が着席すると、相変わらず法廷は静まり返っていた。しかし、突然、マリーのすすり泣きが始まった。それは違う、そういうことじゃない、自分は無理やり思っていることと反対のことを言わされた、僕のことはよく知っている、僕は悪いことなんて何もしなかったとマリーは言った。しかし、裁判長の合図で廷吏がマリーを証言台から連れて行き、再び審問が続いた。


第二部 第3章⑥

次に、ごく手短にマソンの証言があった。彼は僕が誠実な男であり、「さらに言えば、律儀な男である」と断言した。これもごく手短にサラマノの証言があり、サラマノは僕が彼の犬に優しかったと言ってくれたが、母と僕の関係についての質問に答え、母さんと僕にはもう話題が無かったこと、それが理由で母さんを施設に入れたことを話した。「分かってあげてください、分かってあげてください。」とサラマノは繰り返していたが、だれも分かっているようには見えない。サラマノも証言台から連れて行かれた。

次にレモンの番が来た。彼が最後の証人だ。レモンは僕に小さく合図をするとすぐに、僕は無罪だと言った。しかし裁判長は、判決を訊いているのではなく事実を訊いているのだと言って、質問されてから答えるようにと強い調子で命じた。レモンは彼と被害者との関係を詳しく説明させられる。その機会に乗じてレモンは、被害者が憎んでいるのは自分であり、被害者の姉に平手打ちを食らわせて以来恨まれていると言った。しかし裁判長は、被害者には僕を憎む理由は無いのかと尋ねる。僕が浜辺に居合わせたのは偶然そうなっただけだとレモンは答える。すると検事が、事の発端になったあの手紙はどのような経緯(いきさつ)で僕によって書かれたのかと訊く。それも偶然だとレモンが答えると、検事は、この事件では偶然が良心に対し、それでなくても大いに悪事を働いているとやり返した。次々と検事の質問が続く。レモンが情婦に平手打ちを食らわせたとき、僕が間に入らなかったのは偶然なのか?僕が警察署で証言したのは偶然なのか?さらに、証言の際の僕の陳述が全くのでたらめだと分かったのだが、それも偶然なのか?最後に検事は、何を生業(なりわい)としているのかとレモンに訊いた。レモンが「倉庫番です」と言い終わらぬうちに、次席検事は陪審団に向かって、周知のとおり、証人はヒモ稼業を営んでおりますと高らかに言った。被告人はこの男の共犯者であり友人だ。これは低俗極まりない事件であり、被告人という冷血漢が絡んだがゆえに深刻な結果を生んだ悲劇である。レモンは弁明を望み、僕の弁護人も抗議をしたが、検事の発言が終わるのを待つようにと言われる。検事は、「付け加えることは殆どありません。」と言って、「被告人はあなたの友人でしたか?」とレモンに訊いた。「ええ、俺のダチでした。」とレモンが答える。今度は次席検事が僕に同じ質問をした。僕がレモンを見つめると、彼は目を背けない。僕は次席検事の質問に「はい。」と答えた。すると検事は陪審団の方を向き、こう断言した。「母親の死の翌日に、極めて恥ずべき放蕩に身を任せたこの同じ男が、取るに足らない理由で、また、言語道断のセックス・スキャンダルを清算する為に人を殺したのであります。」

第二部 第3章⑦

それから検事は着席したが、我慢しきれなくなった僕の弁護人は両腕を突き上げて叫んだ。その結果、両袖が再びまくれ上がり糊付けしたワイシャツの折り目があらわになった。「結局のところ、被告人は母親を埋葬したことで告発されているのでしょうか?それとも人を殺したことで告発されているのでしょうか?」法廷に笑いが起きた。しかし検事は再び立ち上がり、法服をまとってこう断言した。「敬愛すべき弁護人のような無邪気な心を持たない限り、この二つの出来事の間に深くかつおぞましい、そして本質的な繋がりがあると感じざるを得ないのであります。」「そうです」と検事は力を込めて叫んだ。「私は、殺人犯のごとき心情で母親を埋葬したかどでこの男を告発するものであります。」検事のこの発言は法廷にかなりの衝撃を与えたようだ。僕の弁護人は肩をすくめ、汗だらけの額を拭った。しかし、彼自身もどうやら動揺しているようだ。僕はことが有利には運んでいないことが分かった。

審問が終わった。裁判所を出て護送車に乗り込むとき、僕はほんの一瞬、夏の夕暮れの匂いと色を認めた。移動する護送車の闇の中で、ひどく疲れていたので一つまた一つという感じであのお馴染みのざわめきが聞こえてきた。僕が愛する街が、僕が満ち足りた気持ちになるある時刻が放つざわめきだ。
既に暑さの和らいだ空気の中で聞こえる新聞売りの叫び声、小公園に最後まで残る鳥の囀り、サンドイッチ売りの客寄せの声、町の高台のカーブで市電が放つ悲鳴、港に夜の帳が下りる前のあの空のざわめき、その全てが僕には目に見えぬ道標(みちしるべ)になっていた。囚人になる前のお馴染みの道標だ。そう、随分前のことだが、僕が満ち足りた気分になっていた時間だ。その後に続くのはいつも、浅い眠り、夢のない眠り。でも、今は何かが違っている。明日を待ち受ける僕が再び見出すのは独房なのだから。まるでそれは、夏空に描かれた馴染の道たちが罪のない眠りと牢獄の両方に通じているかのようだった。


第二部 第3章⑧

(ミスター・ビーン訳)

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