*異邦人 翻訳*(第一部 第六章) | ミスター・ビーンのお気楽ブログ

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アルベール・カミュ
$ミスター・ビーンのお気楽ブログ-一部 第1章①


1時間12分17秒から1時間33分48秒まで



「異邦人」(1942)

第1部

第6章


日曜日、僕はなかなか目が覚めない。そこでマリーは僕に呼びかけ、身体を揺すらねばならなかった。食事は抜き。早く泳ぎたかったからだ。気分は虚ろで、少し頭痛がする。タバコの味も苦い。そんな僕をマリーがからかった。葬式に行くような顔をしていると言うのだ。彼女は白地のワンピースを着て、髪をほどいていた。「綺麗だよ。」と言ってやると、嬉しがって笑った。

下に降りる途中、僕たちはレモンの部屋のドアをノックした。「今降りるよ。」という返事だ。疲労のせいと昨夜は鎧戸を開けていなかったこともあり、通りに出て既にギラついている日の光を浴びると、まるでビンタを食らった気分だ。マリーの奴は嬉しくて飛び跳ね、何度も「いい天気だわ!」を繰り返した。気分が良くなると、僕は腹が減っていることに気付いた。マリーにそう言うと、彼女は蠟引きの布地で出来たバッグを見せる。中には水着が2着、それにタオルが1枚あるだけだ。もう待つしかない。するとレモンがドアを閉める音が聞こえた。青いズボンに半そでのワイシャツ姿。でもカンカン帽を被っていたのでマリーが笑った。上腕部は黒い体毛の下がえらく白い。ちょっと気持ちが悪かった。レモンは口笛を吹きながら降りてきて、上機嫌の様子だ。僕には「よう、相棒。」と言い、マリーのことは「お嬢さん」と呼んだ。

前の日、レモンと僕は警察署に行き、女がレモンに対して「敬意を欠いていた」と僕は証言した。レモンは戒告処分で済み、僕の証言も吟味されることはなかった。玄関の前でレモンとひとしきり昨日の話をし、それから僕たちはバスに乗ることに決めた。浜辺はそれほど遠くない。しかしバスに乗れば速く行ける。早く着けば友人も喜ぶだろうというのがレモンの考えだ。いざ出かけようとすると、レモンが出し抜けに前を見ろと合図した。タバコ屋のショーウィンドーに寄りかかっているアラブ人のグループが目に入る。彼らは無言で僕らを眺めていた。まるで石ころか枯れ木を見ているような様子で、いかにもアラブ人らしい。レモンは、左から二番目が例の奴だと言い、気もそぞろな様子だ。それから、もう済んだ話さと言った。マリーは話があまり飲み込めず、どうしたのかと訊く。僕は彼女に、あれがレモンを恨んでいるアラブの連中だと説明してやった。するとマリーは「すぐに出かけましょう。」と言い、レモンも気を取り直し、笑いながら「急ごうぜ。」と言った。


第一部 第6章①

僕たちは少し離れたバス停に向かった。アラブの連中はついてこないとレモンが言う。僕は振り向いてみた。連中は相変わらず同じ場所にいて、相変わらず無関心な様子で3人が出発した場所を眺めている。僕たちはバスに乗り込んだ。レモンはすっかり気が楽になったようで、始終マリーに向かって冗談を言っている。どうやら奴はマリーが気に入ったようだ。しかしマリーの方は殆ど返事をしない。ときどき笑いながらレモンを眺めていた。

僕たちはアルジェの郊外で下車した。浜辺はバス停から遠くはない。しかし、小さな台地を横切らなければならなかった。台地からは海が見え、その端には浜辺に向かって急勾配の坂がある。台地は黄色い石とツルボラン(ユリ科の植物)の花で覆われていた。花は、既にどぎついほど青い空の色を背景にその白さが際立っている。マリーは防水バッグで思い切り叩いて花びらを散らし喜んでいた。僕たちは緑や白の柵のある小別荘の列の間を歩いて行った。別荘はヴェランダごとギョリュウの木々に埋もれているのもあるし、石ころだらけの中にむき出しになっているのもある。台地の端に着く前に、波ひとつない海が見え、その先には澄んだ水に浮かび、ずんぐりと眠っているような岬の姿が見える。静かな空気の中、軽いエンジン音が聞こえて来た。目を向けると、はるか遠くに小型のトロール船が見える。それはキラキラした海の上を、進んでいるとは気づかぬほどの速さで進んでいた。マリーは岩アヤメを何本か摘む。海に向かって下る坂から、もう泳いでいる人の姿が見えた。

レモンの友だちは浜辺の端にある木造の小別荘に住んでいた。別荘の裏手は岩で、前面を支える基礎杭は既に水に浸っている。レモンがマリーと僕を紹介する。友だちの名前はマソンだ。背の高い男で、腰と肩ががっしりしている。奥さんは小太りの優しそうな女性。パリ訛りがある。マソンはすぐに寛いでくれと言い、今朝釣ったばかりの魚のフライがあると言った。僕は随分きれいなお宅ですねと言ってやる。マソンの話では、毎週土日と休暇の日はいつもここに来るそうだ。「家内とは上手くいってますよ。」とマソンは付け足した。丁度その時、マソンの奥さんはマリーを相手に笑っていた。おそらくそのとき初めて、僕は自分が結婚することになるのだと本気で思った。


第一部 第6章②

マソンは泳ぎたがったが、彼の妻とレモンは行きたがらなかった。マソン、マリーそれに僕の3人が下に降り、マリーはすぐに水に飛び込んだ。マソンと僕は少し待つ。マソンの口調はゆっくりで、何か言い終わった後は必ず「さらに言えば」と付け加える癖があるのに僕は気づいた。実際には何も付け加えない場合でもそうなのだ。マリーのことは、「すごくいい女だ、さらに言えば、魅力的だな。」と言った。僕はもうその変な癖は気にならなくなった。気持ちの良い日差しの方に気を取られていたのだ。足元の砂が熱くなり始める。僕は水に入りたい気持ちをまだ抑えていたが、とうとうマソンに向かって、「行きましょうか?」と言って飛び込んだ。マソンはゆっくりと水に入り、足が着かなくなってから飛び込んだ。泳ぎは平泳ぎでかなり下手だ。そこで僕は彼を置き去りにしてマリーのいる方に向かう。水は冷たく、泳いでいると気持ちがいい。マリーと僕は岸から離れて行く。行動も満足感も二人は一緒だという気になっていた。

沖に出ると、僕らは仰向けに浮かんだ。空に向けた顔の上で、最後の水のヴェールを陽光が押しのけ、水は僕の口の中に流れ込む。マソンが浜辺に戻り、日光浴する姿が見えた。遠くからだとマソンの体はえらく大きく見える。マリーが一緒に泳ぎたいと言った。僕はマリーの背後にまわり腰を掴む。マリーは腕だけで前に進み、僕はバタ足で助ける。午前中は僕が疲れるまで、水を打つ小さな音が僕らの後に続いた。それから僕はマリーを残し、しっかり呼吸をし、整然と泳ぎながら浜辺に向かった。浜辺に戻ると、マソンの近くで腹這いになり、砂に顔をうずめる。「気持ちがいいですね。」とマソンに言うと、彼も同意見だ。その後すぐにマリーも戻って来た。振り向くと彼女がやって来るのが見える。海水で体中ぬらぬらして、髪は後ろに束ねている。僕の隣に脇腹をくっつけて寝そべる。彼女の体と日光の温もりのせいで僕は少し眠くなった。

マリーが僕を揺すり、マソンが別荘に戻った、お昼を食べなくちゃと言う。僕は腹が減っていたのですぐに起きたが、彼女は僕が今朝から自分にキスしていないと言った。それは本当だし、僕はキスしたい気持ちだ。「水に入ろう。」とマリーが言う。僕たちは駆け出し、最初の小さな波がやって来るとその中で腹這いになった。少し平泳ぎで進み、マリーが僕にぴったり体を寄せる。脚の周りに彼女の脚が絡まるのを感じ、僕はマリーが欲しくなった。


第一部 第2章①

別荘に戻ると、マソンがもう僕らを呼んでいた。腹がペコペコだと言うと、彼は妻に向かってこの男は気に入ったと声高に言う。パンは美味しく、僕は自分の分の魚をガツガツと平らげた。続いて肉とフライド・ポテトが出る。僕たちは皆、無言のまま食べていた。マソンはよくワインを飲み、絶えず僕のグラスにも注ぐ。コーヒーのときには頭が少し重くなり、やたらタバコをふかした。マソンとレモンと僕は、費用は折半で八月を一緒に浜辺で過ごす計画を立てる。出し抜けにマリーが僕らに、「ねえ、何時か知ってる?11時半よ。」と言った。皆驚いたが、マソンは「ずいぶん早く食事をしたな。でも当然さ。腹が減ればそれが昼飯の時間なんだ。」と言う。なぜかマリーはその言葉に笑いこけた。きっとマリーは飲み過ぎていたのだろう。そのときマソンが一緒に浜辺を散歩しないかと僕に訊いた。「かみさんは昼飯の後はいつも昼寝をする。俺は嫌だね。歩かなきゃ。かみさんにはその方が健康にいいとしょっちゅう言うんだが、まあ結局、どっちにするかはかみさんの自由だしな。」マリーは、別荘に残ってマソン夫人の皿洗いを手伝うと言う。小柄なパリジェンヌは、それなら男性陣を外に追い出さなきゃと言った。そこで僕ら3人は下に降りた。

太陽が殆ど真上から砂浜を照らしていた。海の照り返しは耐え難いほどだ。もう浜には誰もいない。台地の端にあり海に張り出している別荘からは、サラや食器の音が聞こえてくる。地面から立ち昇る容赦ない熱気のせいで、ほとんど息も出来ない。最初、レモンとマソンは僕の知らないことや人物を話題にした。二人が昔からの知り合いで、それどころか一時期一緒に暮らしていたことが分かる。僕たちは水辺に向かい、海沿いに歩いた。ときどき小さいが波長の長い波が寄せてきてズック靴を濡らす。頭の中は真っ白。むき出しの頭に太陽を浴び、半ば眠っていたからだ。

そのときレモンがマソンに何か言ったがよく聞こえない。しかし同時に、浜辺のずっと向こう、僕らから随分離れた所にアラブ人が二人いるのが見えた。作業着を着て僕らの方に向かってくる。レモンに目を向けると、彼は「奴だ。」と言った。僕たちはそのまま歩き続ける。マソンはどうしてここまでつけてこられたのだろうと言う。奴らは海浜バッグを持って僕らがバスに乗る姿を見たに違いないと思ったが、僕は何も言わなかった。


第一部 第6章④

アラブ人たちはゆっくり進んで来たが、もう前よりはるかに近くにいる。こちらも歩く速度は変えなかったが、レモンが「乱闘になったら、マソン、お前さんは二番目の奴が相手だ。俺は例の奴を引き受ける。ムルソー、三人目が来たら、そいつはお前に任せる。」と言った。「了解。」と僕は言い、マソンは両手をポケットに突っ込む。僕にはひどく熱い砂が今や真っ赤に焼けているように思えた。僕たちは歩調を変えずにアラブ人の方へ向かっていった。距離が着々と縮まる。後2,3歩というところでアラブ人たちが立ち止まった。マソンと僕は歩調を緩め、レモンは真っ直ぐ例の奴の方へ向かう。レモンが奴に何と言ったかよく聞こえなかったが、相手は頭突きをくらわせるような素振りをした。レモンが先に殴り、すぐにマソンに声をかけた。マソンは指示された相手に向かい、力任せに2回殴りつける。殴られたアラブ人は顔を水底につけ、水の中で這いつくばった。奴は2,3秒そのままの姿勢で、頭のまわりにあぶくが湧き水面で割れる。その間レモンも相手を殴りつけ、相手の顔は血だらけになっていた。レモンが僕の方に振り向き、「奴が何を持っているか見るんだ!」と言った。「気を付けろ!ナイフを持ってるぞ!」と僕は叫んだ。しかしレモンの片腕はパックリ割れ、口も切られていた。

マソンが前に飛び出す。しかし水の中でのびていたアラブ人はもう立ち上がっていて、ナイフを持っている男の後ろにまわる。僕たちは動くに動けない。二人のアラブ人はゆっくり後退し、絶えずこちらを見、ナイフをちらつかせて脅している。奴らは十分後退したと見て取ると、一目散に逃げて行った。一方こちらは炎天下で釘づけになり、レモンは血の滴る片腕をぎゅっと押さえていた。

マソンはすかさず、台地の別荘で日曜を過ごす医者がいると言う。レモンはすぐにも医者に行きたがったが、口を開く度に傷口から血が流れ、口の中であぶくになった。マソンと僕がレモンを支え、僕たちは出来るだけ速く別荘に戻った。別荘に着くとレモンが、傷は浅い、このまま医者に行けると言った。レモンはマソンと一緒に医者に行き、僕は残って女たちに事の顛末(てんまつ)を説明する。マソン夫人は泣きだし、マリーは顔色が真っ青になっていた。僕はこれ以上説明する気も失せ、しまいには押し黙って、海を眺めながらタバコを喫った。


第一部 第6章⑤

1時半頃、レモンはマソンと一緒に戻って来た。腕には包帯を巻き、口の端には絆創膏を貼っている。医者の話では大したことはないそうだが、レモンはひどく暗い顔をしている。マソンはレモンを笑わせようとするが、彼は相変わらず無口のままだ。レモンが浜に降りると言うので、僕は何処に行くのかと訊いてみた。彼は散歩をしたいと言う。マソンと僕が一緒について行くと言うと、レモンは怒り出し僕らを罵った。「俺を怒らせるな!」とキッパリした口調で言う。それでも僕はレモンについて行った。

僕たちは長い間浜辺を歩いた。強烈な日差しだ。日光は砂に当たり、海に当たり、砕け散っている。レモンには行き先が分かっているという気がしたが、多分それは間違いだったのだろう。砂浜の端まで来ると、小さな泉があった。それは大きな岩の後ろにあって、砂の間を流れている。そこにあの二人のアラブ人がいた。油じみた作業着を着たまま寝転がっている。落ち着き払っていてむしろ満足げな様子だ。僕たちがやって来ても顔色一つ変えない。レモンを殴った奴は無言でレモンを眺めている。仲間の方は小さな葦の笛を吹き、横目で僕らを眺めながら葦笛で吹ける三つの音を絶えず繰り返し吹いていた。

その間、そこにはもう太陽と沈黙しかなかった。泉が流れる小さな音と葦笛の奏でる三つの音を伴う沈黙だ。レモンは片手を尻ポケットに回したが、相手は動かなかった。相変わらずお互いに睨み合っている。僕は葦笛を吹いている男は、足の指がひどく離れていることに気付いた。レモンは相手から目を離さずに僕に訊いた。「奴を撃ち殺すか?」もし「ダメだ。」と言えば、レモンは一人頭に血が昇って間違いなく引鉄を引くだろうと僕は思った。そこでただこう言った。「奴はまだ口をきいていない。このままぶっ放すのは卑怯だろう。」再び沈黙と暑さの中に小さな水音と葦笛の音が聞こえる。するとレモンが言った。「じゃ、奴を罵ってやろう。口答えしたら奴を撃ち殺す。」「そうだ。でも、奴がナイフを抜かないなら撃っちゃだめだ。」と僕は答えた。レモンが少し興奮気味になる。奴の仲間は相変わらず葦笛を吹き、二人ともレモンの一挙手一投足を見守っている。「ダメだ!」と僕は言った。「奴とは差しで勝負しろ、あんたのピストルは俺によこせ。奴の仲間が邪魔したり、奴がナイフを抜くようなら、俺がそいつを撃ち殺す。」

レモンが僕にピストルを渡し、太陽が頭上を滑って行く。しかし、僕たちはまだじっとしたままだ。まるで周囲の全てがそこに閉じ込められているような感じだ。僕たちは目を逸らさず睨み合っている。海と砂と太陽の間にあり、葦笛の音と泉の水音の二重の沈黙の間にあるこの場所では、あらゆるものが停止していた。僕はいつピストルを撃ったらよいか、あるいは撃ってはならぬかを考えていた。しかし突然、二人のアラブ人は後ずさりをして岩の後ろに潜り込む。そこでレモンと僕は来た道を引き返した。レモンはほっとした様子で、帰りのバスの話をした。


第一部 第6章⑥

僕は別荘までレモンと一緒に行った。彼が木の階段をよじ登っている間、僕は一段目の前で佇んでいた。強い日差しに頭がガンガンして、苦労して木の階段を登り、またあの女たちに会わなくてはいけないと考えると気が滅入ってしまう。しかしひどく暑いので、空から雨のように降り注ぐ目もくらむような光の下でじっとしているのも耐え難い。ここにいても出かけても結局は同じことだ。少しして、僕は浜辺の方に向かい歩き始めた。

周りは相変わらず真っ赤に燃えるような景色だ。海はまるで気忙(きぜわ)しく呼吸をするように、小刻みに小さな波を砂の上に打ち寄せている。岩場に向かいゆっくり歩いて行くと、日差しを浴びて額が膨れ上がるような気がした。この暑さが全て僕の上にのしかかり、行く手を阻む。そして顔にその大きな熱い息吹を感じる度に、僕は歯を食いしばり、ズボンのポケットに入れた両手を握りしめ、身体全体を緊張させて太陽と太陽が浴びせかけるあの得体のしれぬ酩酊感に打ち勝とうとした。砂や白い貝殻、あるいはガラスのかけらから剣(つるぎ)のように光が目を射る毎に、両顎が緊張する。僕は長い間歩いた。

遠くに小さな黒い岩の塊が見える。その塊は光と海の埃が作り出す眩(まばゆ)い光輪に包まれている。僕は岩の後ろにある冷たい泉のことを考えていた。その水のせせらぎを聞き、太陽と苦痛と女の涙から逃れたい、そして日陰と日陰がもたらす休息を手に入れたいという気分だった。しかしもっと近づいてみると、レモンの敵がそこに戻っているのが見えた。

奴は一人だった。仰向けに寝て、両手は項(うなじ)の下、顔だけを岩の影に入れ身体全体を日に晒している。作業着は暑さで湯気を立てている。僕は少し驚いた。僕にとっては済んだことであり、奴がいるなどとは思いもせずにここに来てしまったのだ。


第一部 第6章⑦

僕の姿を見るとすぐ、奴は少し体を起こして片手をポケットに入れた。勿論僕は上着の中のレモンのピストルを握りしめる。するとまた奴は体を後ろにずらせたが、ポケットからは手を出さない。奴との距離はかなりある。10メートルぐらいだ。僕はときどき半ば閉じた瞼(まぶた)から覗く奴の目の動きをうかがっていた。でもたいていは、燃えるような空気の中、奴の姿全体が踊るように目の前で揺れている。波の音は正午に比べ、はるかに緩慢になり静かになっていた。ところが、ここでは正午と同じ太陽、同じ砂を照らす同じ光が居座っている。もう二時間も前から昼は歩みを止めている。昼は二時間前に煮えたぎる金属のような海に時を止める碇を投げ込んでいたのだった。水平線で小さな蒸気船が通り過ぎる。もっとも、絶えずアラブ人を凝視していたので、目の隅に蒸気船らしい黒い影が見えただけだ。

引き返せば済むことだと思った。しかし浜全体が陽光に身を震わせ、僕の背中を押している。僕は泉に向かい2、3歩前進した。アラブ人は動かない。それでも奴はまだかなり遠い。おそらく彼の顔にかかる影のせいで、奴が笑っているように見える。僕は待った。焼けつくような日差しが頬を捉え、汗の滴が眉毛に溜まっていく。それは母さんを埋葬した日と同じ日差しだ。あのときのように額が特に痛くなる。そして額の皮膚の下で全ての血管が一斉に脈打っていた。もうこれ以上は耐えられない暑さ、焼けつくような暑さのせいで、僕は一歩前に進んだ。それが馬鹿げたことで、一歩前進したところで太陽からは逃れられないことは分かっている。それでも僕は前に進んだ。たった一歩の前進だ。今度は体を起こしもせず、アラブ人はナイフを抜き陽光の中でそれを僕の目の前にかざした。ナイフから光が迸(ほとばし)り、長い光の刃(やいば)が僕の額を襲う。それと同時に、眉毛に溜まっていた汗が一気に瞼に流れ、生温かい厚いヴェールになって瞼を覆う。涙と塩のカーテンに隠れ、僕の目は見えなくなっていた。もはや感じられるのはシンバルを鳴らすように額に降り注ぐ陽の光と、それと分かちがたく襲ってくる刃、目の前のナイフから迸る光の刃だけだ。その焼けつくような光の剣(つるぎ)がまつ毛を蝕(むしば)み、痛む目を抉(えぐ)る。そのとき、全てが揺らいだ。海は焼けつくような分厚い息吹を運んで来る。僕には空の全面が開き、火が降り注がれるように思えた。僕は全身を固くし、ピストルを握りしめる。安全装置を外し、銃床の艶やかな腹に触る。そのとき、渇いた、それでいて耳を聾するような音と共に全てが始まった。僕は汗と陽光を振い落とした。自分が真昼の均衡を破り、それまで幸福に過ごしていた浜辺の並外れた静寂を破ったことが分かった。動かなくなった体にさらに4発撃ち込む。弾丸は死体に食い込んだが、とてもそうは見えない。そしてそれは不幸の扉を叩く4回の短いノックの音のようだった。


第一部 第6章⑧

(ミスター・ビーン訳)

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