*異邦人 翻訳*(第一部 第一章) | ミスター・ビーンのお気楽ブログ

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アルベール・カミュ
$ミスター・ビーンのお気楽ブログ-一部 第1章①


26分57秒まで




「異邦人」(1942)

第1部

第1章

今日、母さんが死んだ。それとも、昨日だったかもしれない。老人ホームから電報が来た。「母上、逝去。埋葬は明日。敬具。」これでは何もわからない。多分、昨日だったのだろう。
老人ホームはマランゴにある。アルジェから80キロのところだ。2時のバスに乗れば、午後には着くだろう。だから、通夜をして明日の晩には帰れる。社長には2日の休暇を願い出た。社長も理由が理由だけに断れない。でも、不満顔だ。そこで、「僕のせいじゃありません。」と言ってやった。社長は無言だった。それで、そんなことは言うべきじゃなかったかなと思った。結局、弁明する必要はなかったのだから。社長の方こそお悔みの一つも言ってしかるべきだ。でも、明後日、喪服姿の僕を見れば、多分言ってくれるだろう。今のところ、母さんが死んだなんて気がしない。
しかし、埋葬の後はそれが決定的になって、全てが周知の事実になっているだろう。
僕は2時のバスに乗った。ひどく暑い。食事はいつものようにセレストの店で済ませた。店のみんなは僕のために大いに悲しんでくれて、セレストはこう言ってくれた。「おふくろは一人きりだからね。」店を出るときは、店の連中がドアの所まで見送ってくれた。少し頭がボーっとしている。上の階にいるエマニュエルの所に行って、黒いネクタイと喪章を借りなきゃならなかったからだ。奴は数か月前に叔父を亡くしていた。
バスに乗り遅れないように僕は走った。多分、こんな風に急いだり走ったり、それにがたがた道やガソリンの匂い、道路や空の照り返しのせいで、うとうとしてしまった。バスに乗っている間は殆ど眠っていた。目が覚めると隣の軍人に寄りかかっていた。彼は僕に微笑み、遠くから来たのかと訊く。それ以上話さなくてもいいように僕は「そうだ」と答えた。

第一部 第1章①
老人ホームは村から2キロの所にある。僕はそこまで徒歩で行った。すぐに母さんに会いたかったが、管理人の話では、先ず所長に会わなければいけなかった。所長は別の件で手が離せず、少し待つことになった。待っている間、管理人はずっとしゃべっている。それから所長に会ったのだが、彼は僕を執務室に迎え入れた。小柄な老人で、レジョン・ドヌール勲章を付けている。目の色は明るく、その目で僕を見つめると、彼は僕に握手をした。ずいぶん長い間握っていたので、僕は手をどう引っ込めたらよいやら分からなかった。所長は書類に目を通すと、こう言った。「ムルソー夫人は3年前に入所されたのですね。あなただけが頼りだったわけだ。」僕は何か責められている気がして、説明を始めた。しかし彼は僕の話をさえぎり、「なにも責めているわけではありませんよ、君。母上に関する書類は読みました。あなたには母上にかかる費用を賄えなかったわけだ。介護人が必要でしたからね。あなたの給料は高くないし。それに、結局のところ、母上はこちらにいた方が幸せだったんです。」「ええ、所長さん」と僕は答えた。所長はさらに続けて、「母上にはお友だちがいましたからね、同年輩の。昔の共通の話題に花を咲かせていたわけです。あなたはお若いから、一緒に暮らしたところで母上はきっと退屈なさったと思いますよ。」
それは、その通りだった。家にいる頃、母さんは無言で僕の動作を目で追って時間を過ごしていた。ホームに来た最初の数日、母さんはよく泣いていた。でもそれは、慣れの問題なのだ。数か月後に、もし母さんをホームから引き取ったりしたら、また泣いただろう。それも慣れの問題だ。多少そのせいもあって、最後の一年、僕は殆どもうホームへは行かなかった。それに、ホームに行けば日曜がまるまるつぶれるし、バスの所に行って切符を買い、二時間もバスに揺られるのも辛かった。
所長はまだしゃべっていたが、僕はもう殆ど聴いていなかった。それから彼は、「母上とお会いしたいでしょう。」と言った。僕が無言のまま立ち上がると、彼は先に立ってドアに向かった。階段の所で所長の説明があった。「母上をささやかな霊安室にお移ししました。他の入居者を動揺させないためです。一人亡くなると、2,3日は周りが動揺しますからな。そうなると仕事がやりにくいんです。」 僕たちが中庭を横切ると、そこには大勢の年寄りがいて、小さなグループに分かれ、おしゃべりをしていた。僕たちが通りかかるとシンとするのだが、通り過ぎるとまたおしゃべりが始まるのだ。
そのやかましさときたら、まるでインコの群れのけたたましい囀りのようだ。小さな建物の戸口の所で、所長と僕は別れた。「ムルソーさん、じゃ私はこれで。執務室におりますから何なりとお申し付けください。原則として、埋葬は10時と決められています。そうすれば故人のお通夜ができると考えましてね。最後に一言。どうやら母上はよくお友だちに、宗教に則って埋葬してほしいとおっしゃっていたようです。必要な手続きは私がやっておきました。ただ、あなたにそのことをお伝えしておこうと思いましてね。」僕は所長に礼を言った。母さんは無信心ではなかったが、生前一度も宗教のことなど考えたことは無かったのだ。

第一部 第1章②
僕は霊安室に入った。とても明るい部屋で、壁は石灰で白く塗られ、屋根は天窓に覆(おお)われている。家具は椅子が数脚、X型の架台(かだい)がいくつか。二つの架台が部屋の中央でふたに覆われた棺(ひつぎ)を支えている。胡桃色(くるみいろ)に塗られた板を背景に、まだ深くは打ち込まれていないキラキラしたネジ釘だけが際立って見えた。棺の近くには、アラブ人の看護婦が一人、白いスモックに身を包み、頭には鮮やかな色のスカーフを被っている。
そのとき、例の管理人が背後から入って来た。駆けてきたに違いない。すこし口ごもって、「棺にはふたをしましたが、故人をご覧になれるようネジ釘を外さなきゃなりません。」と言った。管理人が棺に近づく途中で僕は止めた。「ご覧になりたくないのですか?」と管理人。僕は、「ええ。」と答えた。
彼は途中で口をつぐみ、僕は気詰まりになった。そんなことを言うべきじゃなかったという気がしたのだ。少し時間を置いて、管理人は僕を見つめ、「何故です?」と訊いた。でも非難がましくはない。ただ理由を知りたいといった口ぶりだ。「わかりません。」と僕は答えた。すると、彼は、白い口髭を捻(ひね)りながら、僕の方は見ずに、「なるほど。」とはっきりした口調で言った。管理人は、美しい、薄青い目をしていて、顔色は少し赤みがかっている。僕に椅子を勧め、自分は少し後ろに座った。付添いの看護婦が立ち上がり、出口に向かう。そのとき、管理人は僕に、「あの女は下疳(性病の伝染性潰瘍)持ちですよ。」と言った。訳が分からないので、僕は看護婦を見つめた。分かったのは彼女が目の下からぐるっと頭を囲むヘアバンドをしていたことだ。出っ張っているはずの鼻の所でもそれは平らだ。彼女の顔で目に見えるのは真っ白なヘアバンドだけだった。
看護婦が行ってしまうと、管理人が口を開いた。「ではお一人にしておきます。」そのとき僕はどんな仕草をしたか分からないが、彼はその場に残り、僕の後ろに立った。背後に管理人がいるのは気詰まりだった。部屋は午後の終わりの美しい光に溢れている。モンスズメバチが二匹、ぶんぶん羽音をたてて天窓にぶつかっている。すると眠気が襲ってきた。僕は前を向いたまま管理人に訊いた。「ここは長いんですか?」「5年になります。」と彼はたちどころに答えた。まるで随分前からその質問を予期していたかのようだ。
それから、彼は大いにしゃべった。自分はまさかマランゴの老人ホームの管理人で終わるとは思ってもみなかった。歳は64で、もともとパリの人間だ。そう聞いて、僕は話をさえぎり、「ああ!こちらの人じゃないんですか?」と訊いた。そして、僕を所長の部屋に案内する前に、彼が母さんのことを話題にしていたのを思い出した。彼はこう言っていたのだ。母さんを一刻も早く埋葬しなくてはいけない。特にこの国では平地は暑いから。そのとき管理人は、自分はそれまでパリで暮らしていて、それがなかなか忘れられないと言っていた。パリなら、時には3,4日、故人と一緒に過ごす。こちらではそんな時間は無い。すぐに霊柩車の後について行かなきゃならず、自分は未だにそういう考え方に慣れないと。すると、彼の妻が口を挟んだ。「お黙りよ、この方にお聞かせする話じゃないでしょ。」老管理人は顔を赤らめ、僕に詫びた。僕は間に入って、こう言ってやった。「いえいえ、構いませんよ。」管理人の話はもっともで、面白いと思ったからだ。

第一部 第1章③
その小さな霊安室の中で、管理人は、自分がホームに入ったときはひどく貧しかったと打ち明けた。健康には自信があったので、管理人の仕事を志願したというのだ。でも、結局、あなたも入居者でしょ、と僕は言ってやった。「いや、違います。」と彼は答えた。僕はそれまで既に、彼が他の入居者を語るのに、「やつら」、「他の連中」、たまに、「年寄ども」と呼んでいるのに驚いていた。彼より若い入居者もいたのにだ。でも当然、立場は同じではない。彼は管理人であり、ある程度他の入居者を支配する立場にあったのだ。
そのとき、付添いの看護婦が入って来た。突然日が暮れ、たちまち天窓の上の闇はその濃さを増していた。管理人がスイッチをひねり、出し抜けに光を浴びた僕は目がくらんだ。管理人から食堂に行って夕食を食べるように勧められたが、腹はへっていなかった。すると彼は、カフェオレを持ってきましょうと言ってくれた。カフェオレは大好物だ。そこで頼むことにする。管理人はすぐにお盆をもって戻り、僕はカフェオレを飲んだ。今度は、タバコが吸いたくなる。でも、ためらいがでた。母さんの前でタバコを吸っていいものか分からなかったからだ。よく考えた挙句、なに構うものかと思った。管理人に一本あげ、僕らは一緒にタバコを吸った。
その合間に、管理人が言った。「そうそう、お母様のお友達もこれから通夜に来るんですよ。それが慣わしでね。私は椅子とブラック・コーヒーを取りに行かなきゃなりません。」僕は彼に、電球を一つ消せないかと訊いた。白い壁に反射する光がまぶしくて疲れてしまったのだ。それは出来ないと管理人は言った。
配線の具合で、電球は全て点くか全て消えるかのどちらかなのだ。僕はもう管理人にはあまり注意を払わなかった。彼は部屋を出て戻ってくると、椅子を並べた。一つの椅子にコーヒー・ポットを置き、その周りにカップを積み上げる。それから母さんの棺を挟んで、僕の真向かいに座った。例の看護婦も部屋の奥にいて、こちらに背を向けている。何をしているのかは見えなかったが、腕の動きからすると、どうやら編み物をしているようだ。暖かかった。コーヒーのおかげで体が温まっていたのだ。開いた戸口からは夜と花の匂いが入り込んでいた。少しうとうとしたようだ。

第一部 第1章④
外に軽い気配がして、僕は目が覚めた。目を閉じていたせいで、部屋は前よりはるかに白く輝いて見える。目の前には影ひとつない。物も、部屋の隅々も、曲線も、何もかも目が痛くなるほどクッキリ際立って見える。そのとき、母さんの友だちが入って来た。全部で10人ほど。無言のまま、このまぶしい光の中に滑り込んで来る。全員着席したが、椅子が軋(きし)む音もしない。初めて「人」というものを見るような目つきで、僕は彼らを眺めた。その表情、その衣服の隅々まで僕は何一つ見逃してはいない。しかし声一つ聞こえないので、彼らが実在しているとは思えなかった。女性はほぼ全員がエプロン姿で、ウエストを締め付けるエプロンの紐が、太鼓腹をなおいっそう際立たせている。僕はそれまで、年配の女がこれほど腹が出ていることに一度も気付かなかった。男の方は、ほぼ全員がひどく痩せていてステッキを持っている。年寄りたちの顔を見て驚いたのは、目が見つからなかったことだ。それは無数の皺(しわ)に埋もれた輝きのない光にすぎなかった。彼らは着席すると、その殆(ほとん)どが僕をじっと見つめ、ぎこちなく首をふった。その唇が丸ごと、歯のない口の中に隠れているので、僕に挨拶をしているのか、チックのための痙攣(けいれん)なのか判らない。多分、挨拶をしていたのだと思う。そのとき初めて、僕は、彼ら全員が首を振りながら、管理人の周り、僕の真向かいに座っていることに気付いた。一瞬、おかしなことに、年寄りたちは僕を裁くためにやって来たのだという気持ちがした。
少しすると、女が一人泣きだした。二列目に居て、連れの女の陰にかくれていたので僕にはよく見えない。小さな声で泣いていたが、途切れることがない。決して泣き止まないんじゃないかと僕には思えた。他の連中は、女の泣き声が聞こえない様子で、身体を縮め、陰気に黙りこくっている。見つめているのは棺(ひつぎ)かステッキ、あるいは他の何かなのだが、ただそれだけを見つめている。女は相変わらず泣き続けていた。その女は別に知り合いでもないので、僕はひどく驚いていた。もうその泣き声を聞きたくないと思ったが、あえて本人にそれを伝える勇気はない。管理人が彼女の方に身をかがめ言葉をかけた。しかし、女は首を振り、早口で何か言って、相変わらず同じ調子で泣き続けている。すると、管理人は僕の方に来て、隣に腰を下ろした。しばらくして、彼は僕の方を見ずにこう言った。「あの人は、お母様とはとても親しくしてたんですよ。ここではお母様がたった一人のお友だちで、今となっては自分にはもう誰もいないと言うんです。」
僕たちは長いことそうしていた。あの女のため息とすすり泣きがだんだん間遠(まどお)になる。何度か大きく鼻をすすって、ついに彼女は泣きやんだ。僕はもう眠くはなかったが、疲れて腰が痛くなっていた。今や、苦痛に感じられるのはあの年寄りたちの沈黙だ。ただ、ときどき奇妙な音が聞こえて、僕にはその正体が分からなかった。結局、年寄りたちの誰かが頬の内側を吸い、ぴちゃぴちゃという奇妙な音を出しているのだろう、そう思うことにした。年寄りたちはその音にも気づかず、ひたすら自分の想いに浸っている。彼らの真ん中に横たわっている死んだ母さんのことなど、彼らの眼中には無いのだろうという気さえして来た。でも今は、その印象は間違っていたと思っているが。
僕たちは皆、管理人が出してくれたコーヒーを飲んだ。その先はもう覚えていない。夜が過ぎて行った。思い出すのは、その合間に目を開けたことだ。すると、年寄りたちが身を縮ませ、眠っている姿が見えた。しかし、ただ一人例外がいた。その年寄りはステッキを握った両手の甲に顎(あご)をのせ、まるで僕が目を覚ますことだけを待っているように、じっと僕を見つめていた。それから僕はまた眠り、そして再び目が覚めた。ますます腰が痛くなってきたからだ。天窓に日の光がさし込んでいた。ほどなく年寄りの一人が目を覚まし、ひどく咳込んだ。大きな格子縞のハンカチに何度も痰(たん)を吐き、その痰の一つ一つは彼の体の奥から引き剥がされたような感じがした。彼のせいで他の年寄りたちも目を覚まし、管理人は彼らにそろそろ帰るように言った。年寄りたちは立ち上がった。窮屈な姿勢で通夜をしたせいで、彼らの顔は灰のようになっている。部屋を出て行くとき、驚いたことに、彼らは皆僕に握手をした。まるで、一言も言葉も交わさずに過ごしたその夜のせいで、僕らの親密度が増したとでも言うように。

第1部 第一章⑤
僕は疲れていた。管理人の部屋に案内され、少し身だしなみを整えることが出来た。またカフェオレを御馳走になったが、ひどく旨い。外へ出ると、日はすっかり昇っていた。マランゴと海を隔てる丘の上は朝焼けで真っ赤に染まっている。丘を越えて吹いてくる風が潮の香りを運んできた。いい天気になりそうだ。田舎に来るのは久しぶりだった。母さんのことが無ければ、大いに散歩が楽しめたのに。
でも、僕は中庭で待った。プラタナスの木の下だ。新鮮な土の香りを胸に吸いこみ、もう眠くはない。会社の同僚のことが頭に浮かんだ。今頃は起きて仕事に行く時間。僕にはいつも一番苦手な時間だ。そんなことをまだあれこれ考えていたが、建物の中で鳴っている鐘の音に邪魔された。窓の後ろにざわめきが聞こえ、それから全てが静まりかえった。太陽がさっきより少し高くなって、足が熱くなってきている。中庭を横切り管理人がやって来て、所長が呼んでいると告げた。所長の部屋に行くと、彼は僕に何枚かの書類にサインをさせた。所長は縞のズボンに喪服を着ている。電話の受話器を取ると、不意に僕に声をかけた。「ついさっき、葬儀屋の連中が来ましてね。これから棺(ひつぎ)の蓋を閉めるよう頼むつもりです。その前に母上と最後のお別れをなさいますか?」「いや、いいです。」と僕は答えた。所長は声を落として電話で指示した。「フィジャック、連中に取りかかるように言ってくれ。」
それから彼は、自分は埋葬に立ち会うつもりだと言い、僕は礼を言った。所長は机の後ろに座り、小さな脚を組んで僕にこう伝えた。埋葬に立ち会うのは僕と所長だけで、当直の看護婦が付き添う。原則として、入居者たちは埋葬には立ち会わないことになっている。ただ、通夜にだけは参加を許可した。「まあ、それが人情ってものです。」と、所長は言った。しかし特例として、トマ・ペレーズという母さんの古い友人には葬列に従うことを許可した。そこまで言って、所長はにやっとした。「おわかりでしょう、少々子供じみたロマンスなんですよ。でも、母上と彼はほとんど離れることはなかったんです。ホームでは二人の仲をからかいましてね、ペレーズにはこう言ってたんです。『あの人はお前さんの婚約者だね』って。ペレーズは笑ってましたが、そう言われて二人とも満更でもなかったんです。で、実際、彼はムルソー夫人が亡くなってひどく悲しみましてね。無下(むげ)に立ち会いの許可をこばむべきじゃないと思った訳です。しかし、往診医のアドヴァイスもあって、昨日の通夜には参加させませんでした。」

第一部 第1章⑥
かなり長い間、二人とも無言だった。所長は立ち上がり、執務室の窓から外を見る。そして、不意にこう言った。「おや、もうマランゴの主任司祭がいる。早めに来たな。」所長は僕に、村の教会に行くには徒歩で少なくとも45分はかかると教えてくれた。僕らが下に降りると、霊安室の建物の前に司祭と助手の子供が二人いた。助手の一人がつり香炉を持ち、司祭は身をかがめ銀の鎖の長さを調節している。僕たちがやって来ると、司祭は身を起こした。彼は僕を「我が息子よ」と呼び、二言三言(ふたことみこと)言葉をかける。それから、中に入り、僕はその後に続いた。
部屋を一瞥(いちべつ)すると、棺のネジ釘は打ち込まれ、喪服姿の4人の男がいる。所長が僕に馬車が道路で待っていると告げる声と司祭がお祈りを始める声が同時に聞こえた。その後は、全てが急ピッチで進んだ。4人の男たちが棺を覆う布を持って棺に向かう。司祭とその二人のお供、所長と僕が外へ出る。戸口の前に見知らぬ婦人がいて、「ムルソーさん」と所長が呼ぶ。婦人の名前は聞き取れず、ただ彼女が派遣の看護婦だとだけ分かった。彼女はにこりともしないで、長く痩せこけた顔で頷(うなず)いた。それから僕たちは戸口の前に一列に並び、遺体を見送る。そして棺を運ぶ男たちの後に続き、老人ホームから出た。門の前には馬車が待機していた。ニスを塗られ、細長く、キラキラしている。それはペンケースを思わせた。馬車の横には葬儀の進行係、おかしな服を着た小男だ。それに、ぎこちない態度の年寄りが一人いる。僕にはそれがペレーズ氏だと分かった。頭部が丸く縁の広いフェルトのソフト帽をかぶり(彼は、棺が門を通過するときそれを脱いだ)、服装はと言えば、ズボンが靴の上で捻じれていて、黒い蝶ネクタイは白い大きな襟のワイシャツに比べ小さすぎる。唇が、黒ニキビだらけの鼻の下で震えていた。かなり薄い白髪から、ぶらぶらと揺れ、奇妙で形の悪い耳が飛び出している。青白い顔にある血のように赤い耳の色を見てぼくはギョッとした。
進行係が配置を決めた。司祭が先頭を歩き、続いて馬車。馬車の周りは四人の男たち。後ろは、所長と僕。しんがりは派遣の看護婦とペレーズ氏だ。
空はもう陽の光に溢れていた。空が地面にのしかかり、急速に暑さが増していく。何故か分からないが、歩き出す前にかなり長く待たされた。服が黒っぽいので暑い。例の小柄な老人は、帽子をかぶり直した後、再び帽子を脱いだ。僕はちょっと老人の方を振り返り、所長が彼の話をしたときにはじっと彼を見つめていた。所長の話では、母とペレーズ氏は、夜になるとよく付添いの看護婦を連れて、村まで散歩に行ったそうだ。僕は、周りの田園風景を眺めていた。空に近い丘まで続く糸杉の列、赤土と緑の土地、まばらでくっきりとした家並、それらを通して、僕は母さんの気持ちが分かるような気がしていた。夜は、この地方ではきっと、物悲しい束の間の休息だったのだろう。
今日は、強烈な太陽のせいで、まわりの風景は身震いし、無情で、見るだけで気持ちが萎える姿になっていた。

第1部 第一章⑦
僕たちは出発した。ペレーズが軽くびっこを引いているのに気付いたのはそのときだ。馬車は徐々にスピードを増し、ペレ―ズは離されていく。馬車の周りにいた葬儀社の男の一人も遅れてしまい、今は僕の隣で歩いている。太陽はあっという間に高く昇り、僕はその速さに驚いた。気付くと、田園ではブンブンという虫の音もパチパチと鳴る草の音もとっくの昔に消えていた。汗が頬を流れている。帽子を持っていなかったので、僕はハンカチで扇(あお)いでいた。
そのとき隣を歩く葬儀社の男が何か言ったが、僕には聞こえない。声をかけながら、彼は右手で制帽の端を持ち上げ、左手に持っていたハンカチで頭を拭っていた。「何ですって?」と僕が訊き返すと、彼は空を指しながら、「日差しが強いですな。」と言う。「ええ。」と僕は応えた。少しして、「棺の中はお母さんですか?」と彼は訊いた。「ええ。」とまた応えると、「ご高齢でしたか?」と訊いてくる。「まあ、そうです。」と応える。正確な年齢を知らなかったからだ。それから、彼は黙った。振り返ると、ペレーズの爺さんが50メートルほど後ろにいるのが見えた。懸命にフェルトの帽子を振りながら急いでいる。
所長の方も見てみた。無駄な動き一つなく、堂々とした歩きぶりだ。額に汗が滴(したた)り落ちていたが、所長は拭おうともしない。僕には葬列のスピードが少し速まったような気がした。
相変わらず、周りには、陽光をたっぷり浴びギラギラ光る田園が広がっていた。空のまぶしさは耐え難くなっている。途中僕たち一行は、最近一部が補修された道路を通り過ぎた。暑い日差しのせいで、タールがはみだしている。足がそこに嵌ると、柔らかくてキラキラ光るタールの中身がむき出しになる。馬車の上に見える御者の牛革の帽子が、黒い泥のようなタールの中で捏ね回されたような姿に見えた。むき出しのタールの粘りつくような黒、衣服のくすんだ黒、馬車の艶やかな黒といった単調な色彩と青と白の空の間に挟まれて、僕は少し頭が混乱していた。太陽、革と馬糞の匂い、ニスと香(こう)の匂い、寝不足の疲れ、それらが相俟って、目はかすみ頭がまとまらない。もう一度振り返ると、ペレーズの姿ははるか遠くにあり、熱い空気の塊(かたまり)に取り込まれているように見える。それから姿が見えなくなった。僕は目で彼の姿を探す。すると、彼が道を離れ、野原を横切ったことが分かった。行く手の道がカーブしていることも確認した。土地勘のあるペレーズが僕たちに追いつくため、最短の近道を進んでいることが分かる。そして、曲がり角の所で彼は一行に合流した。それからまた、彼の姿が見えなくなった。ペレーズはまた野原を横切る。それが何度か繰り返された。僕の方は、こめかみがずきずきしていた。
その後は、全てがバタバタと、確実に、儀式張らずに進んだので僕はもう何も憶えていない。いや、一つあった。村の入り口で、派遣の看護婦が僕に話しかけたのだ。顔に似合わず独特の声をしている。歌うような、揺れるような声だ。彼女はこう言った。「ゆっくり進むと、日射病にかかります。でも速く進みすぎると汗だくになって、教会の中で風邪をひきますよ。」彼女の言う通りだったが、どうしようもなかった。
あの日の光景がまだいくつか頭に残っている。例えば、村の近くで最後に僕たち一行に追いついた時のペレーズの顔だ。興奮と苦痛からくる大粒の涙がその頬を伝っていた。でも皺のせいで、流れ落ちることはない。涙は広がり、合流し、そのくしゃくしゃな顔の上にニスを塗ったようになっている。まだある。教会、舗道に佇(たたず)む村人たち、墓地の墓の上に供えられた赤いジェラニウムの花、ペレーズの気絶(まるで関節の外れた操り人形のようだった)、母さんの棺にかけられた血のように赤い土、その土に混ざっていた根っ子の白さ。まだある。群衆、話し声、村の姿、カフェの前でのバスの待ち時間、唸るような絶え間ないエンジン音、そしてバスがアルジェの灯りの群れに入り、これでベッドに行って12時間は眠れると思った時の嬉しさだ。

第一部 第一章⑧

(ミスター・ビーン訳)

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