*シューマンの歌曲 (19) - リーダークライスOp.39-9 悲しみ ー* | ミスター・ビーンのお気楽ブログ

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≪ラプツィッヒ時代④≫

1843年は、シューマンにとって最も幸福な年でした。

翌1844年、シューマンは再びクララの5か月に及ぶ演奏旅行に随伴し、
ロシアを旅行します。
1842年の苦い思い出がありましたが、今度はシューマンの作曲家とし
ての名声も確立し、以前とは違うと判断したのです。

3月4日~4月2日は、サンクトペテルブルクに滞在し、クララは皇帝
ニコライ一世夫妻の前でピアノを演奏。シューマンの交響曲第1番も
演奏されました。
4月10日~5月8日は、モスクワ滞在、5月8日~18日は再びサンクトペ
テルブルクに滞在し5月24日にようやくライプツィッヒに帰って来ま
す。

このロシア旅行で、クララの演奏会は大成功を収め、大きな収益を
上げるとともに国際的なピアニストとしての名声を確立します。
一方、シューマンは、ピアノ五重奏曲は熱狂的に迎えられましたが
モスクワでの交響曲第1番の反響はあまりはかばかしいものではあり
ませんでした。
さらに、シューマンは帰途の途中ドルパトで体調を崩し、1週間程病
床に伏すことになります。

あれやこれやで今回もシューマンは一人の作曲家としてではなく、ク
ララの随伴者として扱われることが多々あり鬱状態に陥ってしまいま
した。

6月末には疲労が重なり、長年心血を注いできた「音楽新報」の編集
から身を引き、11月20日にはフランツ・ブレンデルに雑誌本体を売却
せざるを得なくなります。

8月以降、シューマンの心身は衰弱し、10月3日に昨年和解したドレス
デンのヴィークを訪問したときには幻想に脅かされるようになり、不
眠が続きました。

そこで、冬の訪れとともに主に健康回復のためと創作に専念するため
にライプツィッヒからドレスデンに移住することを決断します。
12月8日、ゲヴァントハウスで送別演奏会が開かれ、12月13日、1828年
の春ライプツィッヒ大学入学以来17年をすごしたこの街を後にするこ
とになったのです。

今日は、ロシア旅行でも演奏された「交響曲第1番変ロ長調≪春≫Op.38」
の第4楽章をバーンスタイン指揮、ウィーンフィルの演奏で聴いてみます。
この最終楽章はもともと「たけなわの春」という標題がついていました。






≪今日の1曲≫

今日はリーダークライスOp.39の第9曲

「悲しみ Wehmut」

を聴いてみます。

憧れを歌う詩人の美しい詩をナイチンゲールの歌声に喩え、両者の
心に深く内在する苦悩と悲しみを歌った歌。

バリトンのフィッシャー=ディースカウマティアス・ゲルネ、ソプラノの
エリー・アメリンクの歌唱で聴いてみます。



9. Wehmut 悲しみ
Ich kann wohl manchmal singen,
僕は幾度でも気分良く歌える、
Als ob ich fröhlich sei;
あたかも楽しんでいるかのように。
Doch heimlich Tränen dringen,
けれどひそかに涙を流しては、
Da wird das Herz mir frei.
自分の心を軽くしているんだ。

Es lassen Nachtigallen,
ナイチンゲールは
Spielt draußen Frühlingsluft,
外で春風が戯れると
Der Sehnsucht Lied erschallen
憧れの歌を響かせる、
Aus ihres Kerkers Gruft.
自分の捕われている籠の中から。

Da lauschen alle Herzen,
するとずべての心が耳を傾け、
Und alles ist erfreut,
すべての物が喜ぶ。
Doch keiner fühlt die Schmerzen,
けれど誰もその苦しみを感じない、
Im Lied das tiefe Leid.
歌の中に込められた深い苦悩を。


フィッシャー=ディースカウ(ピアノ:ヴァイセンボーン)


マティアス・ゲルネ(ピアノ:シュナイダー)


エリー・アメリンク(ピアノ:デームス)