「希望も神もみな、崇拝されるものは偶像である。」(魯迅)

おそくなりました。読んでくださりありがとうございます。

 

前回のあらすじ↓

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眼を開ける。いつの間にか白い世界にいた。よろよろと立ち上がる。足もとには地面がない。方向も何も分からない。立っているはいるが座っているような心持がした。目を凝らすと、自分の周りをとりまく白いベールはどうやら煙のようなものであるらしい。目の前を立ち上る白い筋を手でつかみ、鼻に持っていく。黴臭さを感じた。不快感を催し足もとに目を向けると、煙とは違う、黒い影が存在した。

水だ。水があるのだ。影は自分の物だった。足元には四方永遠に広がるかと思うような水面が敷かれていた。気味の悪いほど透明だった。底の方は青黒く染まる世界が広がっているだけだった。内部は空虚だ。何一つの存在をも感じさせない。何者の姿をも認めない。それにしても、さざ波一つたっていない。

はたと目を上げると、周りの煙たちはみな一様に同じような形をしているのが分かった。目の前の煙の塊は棘をたくさん持つ球形の物質に変化していた。さながらウニである。ウニどもはゆらゆらと自分の身を大きく膨らませながら、ある一か所の空間に集まっていくように思える。奇妙な光景だった。四方八方からウニの形をした煙どもが、何の変哲もない空間の一片をめがけて、我先にと滑るように移動してゆく。移動の途中で消えてしまうものも多々あった。皆、他の物には一切興味が無いようだった。そのような消えてゆく物たちには目もくれずに、何かに追われているかのようなスピードで、空間にできたかたまりの内部へ潜り込もうと、どのウニももがき苦しんでいるのが分かる。他の物には興味が無いように見えるのに、周りと同じ形になり同じ方向へ向かうことに拘泥しているのは非常に滑稽である。じきに空間の一点はもはや原型をとどめていない白いかたまりになりつつあった。内部の密度はどんどん濃くなってゆく。やがて固体となった。固体は氷のような透明な代物で、今まで闊歩していたどのウニたちも到底作れなかったような、均整整った美しいウニの形になっているように見えた。

突如氷ウニは動き出した。すると、予想だにもしない行動に出た。氷ウニは、恐ろしいほどのスピードで空間を駆け巡ると、ウニの形にはなれなかった、もしくはならなかった、煙のかたまり達を突いて殺し始めた。鋭く尖った氷の矛で突かれた煙どもはあとかたもなく虚空の中に消えてゆく。漂っていた煙たちの中では、急いで自らをウニの形に変形させようとするものが出てきたが、そのような努力など一切目もくれない。氷ウニにとっては、結果だけが重要なようである。楽しくて仕方がない、というような素振りで、氷ウニはまわりの自分とは異なる形の煙たちを片っ端から殺してまわった。

彼は逃げなければ、と思った。
その矛の向かう先に自分の身体が含まれているのは当然だった。今に無慈悲な一撃が彼のみぞおちに与えられ、このうえない苦痛を感じながら自分は虚空に消えていくのだ。こう考えると恐ろしくて仕方がない。

走り出した。酒を飲んだはずなのに足もとはしっかりとしているような気がした。だが、すぐに自分は何もできていないことを悟った。足が進まない。蹴られるべき地面がないのである。だが死にたくはない。必死に足を漕ぎ、手を伸ばして何かをつかもうとするが、自身の位置は先ほどから一寸も動かない様である。ああ、ついに氷が近づいてきた-----------

どうすることもできなかった。向けられた攻撃に何一つ手向かうこともできず、あっさりとみぞおちの辺りを突き刺された。痛みはなかった。体中のすべての部位から力が抜けてゆく。自分が小さな欠片に分かれ、虚空の中を漂い始めたのを感じた。いよいよ全身が消え去ろうとしたその時、彼を突き刺した氷の中に人間がいるのを見つけた。

それは女だった。美佐子だった。彼女は氷の中にとどまりつつ、氷の中で自分の形を保っていた。不思議なことに氷を構成する多数の煙たちは、彼女のことを仲間だと思っているらしい。だが彼にとってはどう見ても女は女の形であった。なぜ奴らの目を騙すことができたのだろう?

女はにやりと笑った。だらしのない唇を開き、2枚の白い歯をのぞかせている。

そしてすべてが無くなった。死んだ、と彼は思った。


すると自分の体が妙に湿っぽいのを感じ始めた。不思議に思っていると、今度ははっきりとした頭の痛みを感じる。そして電車の音も聞こえた。手には木のテーブルの感触が、足には踏みしめるべき地面が戻っている。目を開けた。そこはスナックのカウンターであった。

いつのまにか寝入っていたことに気が付く。

次に外が明るくなっているのに気が付くと、彼はようやく自分を取り戻した。そうだ、何をしているんだ俺は?いつものしごく忠実な勤め人の姿に戻ったのである。

急いで左手首にある時計をまさぐった。が、時計はなかった。
カバンの中にいれたかな、と思い、カバンの中を見ると、彼は驚愕した。中身はすっからかんであった。時計はもちろん、財布も、最近買ったばかりのスマホもすべて消えており、ただ申し訳程度に彼の住居の鍵のみは残されていた。

なるほど。これは穏やかならぬことだ。かれは思った。昨日の女の仕業に間違いなかった。だが怒りは全く湧かず、むしろしてやったりの勝ち誇った気分で外に出た。

外には世界があった。明るい太陽の光の下、人々はこれでもかと胸を反らせて歩いていた。いつも通りの、居心地の良くない世界があった。

だが彼はもはや以前の彼ではなかった。少なくとも、自分ではそう思っていたに違いない。なぜなら彼には思い人がいるからである。今までの人生で味わったこともないような楽しい気分であった。心臓に麻酔薬を流し込んでもらっているようだった。彼は舞うようにして家に帰ったのだった。

その日は仕事は休むことにした。しごく忠実な勤め人が仕事を無断欠席したのはこれが初めてだった。

ワンルーム・マンションの鍵を開けると、すぐさま万年床のベッドに横たわる。直後、彼は自分のセクスを握りしめた。

彼は想像の中で激しく女を求めた。もともと想像力には秀でている彼にとって、頭の中で彼女とまぐわうことは大した苦労ではない。すでに女は彼の腕の中にあった。彼がブラの中に手を忍ばせると、彼女は乞うような目でじっとりと見つめる。やがてだらしのない唇を奪おうと顔を近づけると女も目を閉じた。そして吸う。舌も手も足もすべて絡ませ、彼女の乳頭がますます固くなっていくのを感じつつ、恍惚のステップを一段また一段と駆け上がっていく。あぇ、と女は喘いだ。

完璧な想像だった。どこから見ても幸福なまぐわいだった。だが彼のセクスは全く勃起しなかった。

非常な興奮状態にあった彼は勃起しないセクスを激しく揺り動かすのをやめなかったが、やがて器質的な快感がどうにも得られぬままだと悟ると、酒で疲れているのだと理由をこじつけて諦めた。あとはひたすら女の体温を感じようと努力したが、じきに虚しさに襲われて辞めた。

「へっ、自分の物を根こそぎ盗みやがった女に片思いして、そいつで抜こうと思ったあげく勃たなくて辞めるだと?馬鹿め、ご苦労千万なことさ!」

あとはひたすら寝ようと努力した。

だが目をつむっても瞼の裏に浮かぶのはやはりあの女であった。

 

(続く)